私が掘った東京の考古遺跡

表紙写真
佐々木藤雄著 祥伝社刊 定価838円+税

序章(まえがきにかえて)

 本書は、私のはじめての一般向けの書物である。しかも、本書は考古学の啓蒙書とも異なり、東京都を中心とした私自身のこれまでの発掘体験を通して旧石器から中世の各時代にわたる考古学の最近の成果や問題点を語り、謎を推理するという体裁をとっている。

 ふだん考古学の専門家向けに、しかもどちらかといえば社会論や集落論といった肩肘張った論文を書いている私にとって、鎧を脱ぎ捨てた裸の自分をさらけ出すような、なんとも気恥ずかしい思いが、原稿の執筆中、ずっとつきまとっていたことは否定できない。

 その原稿も印刷所に入り、ほっと一息をついていた私は、わずか半月後に勃発した日本考古学を揺るがす未曾有の大事件によって、まえがきの書き直しを余儀なくされることになった。その大事件とは、昨日の毎日新聞全国版が一面トップで報じることになった「日本最古の石器発掘ねつ造」である。

 新聞によれば、捏造の舞台となったのは宮城県築館町上高森遺跡と北海道新十津川町総進不動坂遺跡の二カ所である。遺跡から発掘されたばかりの約60万〜70万年前の前期旧石器時代にさかのぼる石器埋納遺構が、実は「ゴッドハンド」の持ち主と呼ばれる一考古学者によって捏造されたものであったことが、発覚したというのである。

 日本列島に前期旧石器時代と呼ばれる人類の古い歴史が存在したのかどうか。日本史の起源にもかかわるこうした前期旧石器存否論争は、日本考古学界を二分する問題として長らく議論の的となってきた。上高森は、この論争に決着をつけた学史的な遺跡として知られており、その名前は高校の歴史教科書にまで登場している。こうした重要な遺跡を舞台に、世界 的にも類をみない原人の石器埋納遺構が捏造されていた事実は深刻であり、その影響は一考古学にとどまらない大きなものがあった。

 ところで私は、本書の1章において、奇しくも事件の当事者が今年2月に埼玉県秩父市小鹿坂遺跡で発見した約50万年前の「秩父原人」の住居跡や石器埋納遺構の問題を取り上げていた。しかも私の主張は、出土した石器の古さとあわせて「秩父原人」の信憑性に疑問を投げかけるというものであった。「秩父原人」の今後の行方は分からないが、今年に入って埼玉・北海道・宮城と多発した「世界的な大発見」の不自然さ・異様さを危惧した私の予見の一端は、図らずも今回の事件によって具体的に裏付けられたといえる。

 しかし、実をいえば、ゴッドハンド氏発見の「前期旧石器」や出土地層の信頼性を疑う声は以前から根強くあったのである。そうした疑問を一般書という形で最初に取り上げたのが本書であったというだけに過ぎない。

 幼稚で世間知らずの考古学者が、一人残らず「捏造石器」に騙されつづけてきたかのようなマスコミの批判は誤っている。

 もちろん、「マッチ・ポンプ」にも似たお粗末な自作自演劇を許してきた日本考古学の責任はきわめて大きい。相互批判の欠如、権威づけられた「定説」への追随、発掘された資料の私物化は、学界内でもっとも民主的といわれる団体を含めて、日本考古学を広く覆う職業病である。私の専門の縄文時代でも、数百年もの時間差をもつ住居群を同時期のムラとして分析した、とんだでたらめな考察が、今もって縄文時代集落論の輝かしい成果として日本通史や考古学概説書で紹介されるという驚くべき現実がある。

 こうした、とうてい歴史学とはいえない虚構の横行や緊張感の欠如が、発掘資料に対する地道な検証作業よりも、発掘された遺構・遺物の華々しさを自らの勲章と錯覚する“ビジュアル系”考古学者成立の土壌となったことは疑いない。学界は、今後しばらく自己弁護ないしは内幕暴露的な話で賑わうことが予想されるが、今回の石器捏造事件は、そうした変わり身の早さを含めた、日本考古学の積年の体質への痛烈な警鐘である。

 捏造者を「発掘の神様」と超能力者さながらに持ち上げ、一躍ヒーローに祭りあげた大新聞やテレビ局も今回の事件の共犯者である。その裏には、奈良県高松塚の壁画以来の古代史報道の過熱と、よりセンセーショナルな記事を求めるマスコミの姿勢がある。野心的な調査者や町起こしをもくろむ地元に便乗する形で、安易に「最古」「世紀の大発見」を連発してきたことに対する自戒の声がほとんど聞こえないことは不可解である。

 本来、こうしたトラブルを防止する立場にある文化庁や文部省も批判を免れることはできない。むしろ学界内部の疑問の声を無視したまま、上高森をはじめとする前期旧石器遺跡の権威づけと教科書掲載を主導してきたのは、ほかならぬ彼らである。「永仁の壺」の重要文化財指定事件を例に出すまでもなく、国民の考古学への関心をミスリードしてきた責任は重い。

 問題はまさしく構造的である。捏造者一人を断罪しても何の解決にもならない。

 上高森の調査にも深くかかわった文化庁調査官は、これまでの著作の中でゴッドハンド氏の業績を中心とした前期旧石器研究の賛美をくり返している。また、次の縄文時代についても、青森県三内丸山遺跡をおよそ1500年つづいた、500人近い人々のムラと紹介し、30人ほどがひっそり暮らしてきたという古い縄文観の見直しを求めている。

 注目されるのは、こうした過剰なまでの「豊かな縄文社会」論にもとづく新しい縄文観と、昨年秋「新しい歴史教科書をつくる会」が編集・出版した『国民の歴史』との間の際立った共通性である。『国民の歴史』は、エジプト文明と並んで一万年の長期にわたって変動しなかった「縄文文明」こそは日本のアイデンティティーを保証しつづけた土台、大いなる“母なる母胎”であったと主張している。

 しかし、本書でも批判している通り、縄文時代に1500年間つづいた500人のムラや都市が存在した考古学的な証拠はまったくない。三内丸山以来の「縄文文明」論や「都市」論は、ある意味では「文化的ねつ造」以外の何ものでもない。まして「エジプト文明と並ぶ長期無変動文明」論の意図が、周辺に対する日本文化の過度の優越性の誇示にあるとすれば、今回の事件の根は深く、大きい。

 私たちが求めているのは、新しい歴史でも古い歴史でもない、真実の歴史である。

 考古学のロマンに触れようとした最初のまえがきは、今回の事件の余波をもろに受け、なんとも現実感に乏しいものとなって、書き直すこととした。

 しかし、故郷の小さな博物館の薄暗がりの中ではじめて目にした縄文土器の荒い息づかい。遠足帰りの山道ではじめて手にした石のやじりの冷たい感触。そうした少年時代の遠い記憶を心に秘めながら、全国各地の遺跡で今も黙々と発掘に従事する多くの無名の元「考古少年」たちの中にも、決してフットライトを浴びることのないそれぞれのドラマがあり、夢があったことを、私はこのまえがきの最後につけ加えたいと思う。

平成12年11月6日 佐々木藤雄


 本書は11月30日より一般書店の店頭に並ぶそうです。発売前日に著者の佐々木藤雄さんから資料の提供を受けて、皆様にご紹介できることとなりました。この場をお借りして、厚くお礼申し上げます。
 本書のいわんとするところは、序章に凝縮されているので、案内人が付け加えることは、全くありません。願わくは、多くの方々に本書をお読みいただいて、マスメディアが伝えるのとは違った考古学の世界があることを知っていただきたいと思います。


 このページは、昨年11月「青森遺跡探訪」に掲載されたものであり、青森遺跡探訪の閉鎖にともない原著者および青森遺跡探訪案内人の了解を得てこちらに転載しました。転載にあたり体裁を若干変更しています(早傘)


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