中華人民共和国/陜西省

西    安

XIAN
悠久の二千年の古都・いにしえの西安
(2003.12.4〜12.7)
Var.2

黄河が支流の渭水と合流するあたりに位置する西安は、
周王朝の鎬京、秦王朝の咸陽、漢王朝と唐王朝の長安と
ここはいにしえの時代の都であり漢の発祥の地である。
中国は古来いくつもの王朝が興り滅んでいった。


江山如此多嬌。
引無数英雄競折腰。
惜秦皇漢武、略輸文采
唐宗宋祖、梢遜風騒。
一代天驕成吉思汗、只識弯弓射大G。
倶往矣。数風流人物還看今朝。
                                


成田から西安へのJAL直通便は木曜日、日曜日の2便ある。成田10時発のJAL直通便で西安に向かう。現時時間午後2時に西安咸陽国際空港に着く。漢中平野は霧に包まれていた。今年新設された西安咸陽国際空港は渭河の北側、前漢の帝王陵がうち並ぶ台地にある。


隋と唐王朝と長安
五胡のひとつ鮮卑族の拓跋氏が華北を支配して打ち建てた国が北魏である。やがて都を平城(大同市)から洛陽に移し漢化政策をすすめ遊牧国家から漢民族王朝へ脱皮していった。国防のため北方に配置した六つの軍鎮を六鎮というが、その一つ武川鎮から出た宇文泰は帝を長安に迎えいれ長安に朝廷(西魏)を打ち建てた。隋の皇室楊氏と唐の皇室李氏は宇文泰の配下であり西魏建国一役買った。したがって隋も唐も都を長安に置くことになるのである。隋も唐も皇室は武川鎮からでた北方民族の血統であり、純粋な漢民族でないという寛容さが国際色豊な文化を花開かせたと考えることができそうである。


漢陽陵
前漢は紀元前202から214年間続いた。秦の阿房宮を焼き払った項羽を破って前漢をうち建てたのは高祖の劉邦である。空港のある咸陽一帯には前漢の皇帝陵が並んでいる。空港から西安に向かう途中に二世恵帝の陽陵である。皇帝と皇后の二対の陵がありほかにいくつもの賠葬坑がある。

考古文化陳列館
漢陽陵やその陪葬坑から出土したものを陳列している。秦と違い前漢の時代の俑は小さい。武士俑、宦官俑、女騎馬俑など当時の生活を想像することができる。俑の頭、胴体、足は土で出来ているが、纏った着物や木で造った腕は失われてしまいどれも腕のない裸姿である。武士俑と宦官俑はいずれもおちんちんがあり何で区別したのか疑問であった。また、馬や豚、羊、犬など家畜が並べられた陶俑もありもおもしろい。

開遠門跡
中国の城とは建物ではなく壁であると言える。唐代長安城の西側には延平門、金光門、開遠門と3つの門がある。開遠門はシルクロードの出発点であり、西方に続く街道は河西回廊の諸都市、天水、蘭州、武威、張液、酒泉、安西を経て西域敦煌へ至った。
最近開遠門跡にシルクロード起点群像が造られた。群像は東に向いており、商隊が西安に到着しようとする姿を現したものである。群像は小雨が降り霧が立ちこめるなか霞んで建っていた。


鐘楼と満月
西安市旅遊局の歓迎の宴
三日間逗留する古都新世界大酒店からバスで市内へ夕食を食べに出かけた。蓮湖路を東に進み北大街を南に下ると鐘楼がある。鐘楼付近が西安の繁華街であるがこの通りは車で渋滞していた。南門を出て長安路を下り小賽西路にある東方大酒店に着くまでかなり時間を費やしてしまった。食事の冒頭西安海外旅行有限責任公司総経理の劉氏より歓迎挨拶をいただいた。また、西安市旅行事業管理局長と連名の参加記念証明書も進呈された。

子夜呉歌  <李白
長安一片月(長安の街に満月の光が注ぐ)
万戸擣衣声(家々のあちこちから衣を打つ音が聞こえ)
秋風吹不尽(秋風は吹き止まない)
総是玉関情(玉関の夫を偲ぶ私のこころをかき立てる)
何日平胡虜(いつになったら胡どもを討伐して)
良人罷遠征(私の夫は遠征の地から戻るのでしょうか)

古都新世界(ニューワールド)に戻ったのは午後9時を回っていた。部屋に戻ってテーブルの上に出されたウェルカムクッキーを食べて寝た。


陜西省歴史博物館
周恩来の指示により建設された博物館である。中国の地方博物館の中で規模が最も大きい。建物は中国の伝統的な四合院様式となっている。

青銅の虎 (右上)
唐時代の夫婦の彩陶

(左上)
章懐太子墓の礼賓図
章懐太子は唐の高宗と則天武皇后の二男であったが、母に逆らって32歳で自殺した。壁画の籠冠をかぶった3人は賓客接待をする鴻廬寺の官員であり、四番目は東ローマ帝国の使者、五番目は高麗か日本の使者と言われている。

大雁塔
唐の高宗が母親の菩提を弔うため建立した 大慈恩寺の境内に建つ煉瓦を積み上げた方 形七層の塔である。貴重な経像類を保管収 蔵するため652年に建造された。


大雁塔の壁画

最上段天井の文字

青龍寺と空海記念碑・記念堂
唐代の長安には仏教寺院、道教の道観などがにぎわい、また、回教、ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教などの信仰が広められていた。密教は大興善寺を拠点として広まり、空海が渡来した時代の中国では密教の黄金時代であった。空海の師の恵果は大興善寺で印度の名僧不空の直弟子として密教を学んだ。恵果はその後青龍寺の住職に就いた。空海は恵果の門に入り密教の正伝を余すところなく伝えられた。入唐八家のうち空海、円仁、円行、円珍、恵雲、宗睿の六家はこの青龍寺で密教を学んだ。その後青龍寺は廃絶したが、その跡にかって密教を学んだゆかりから空海記念碑、祈念堂た建てられた。

興慶宮公園
隋のあと唐代の長安の街は東西9.7キロ、南北8.2キロの広さがあり周囲に12門が開かれていた。中央の朱雀大路を挟んで東の京、西の京に分かれ、それぞれに市が設けられていた。中央北寄りに大極殿を中心とした宮城があり、その南に政庁である皇城が建てられていた。
玄宗が執務した興慶宮は東の春明門の位置にあったが、今は公園となっている。写真奥の楼は楊貴妃が牡丹を観賞するため建てられた沈香亭である。玄宗皇帝と楊貴妃は沈香亭で酒を飲み、歌を歌い、競い合って咲く牡丹を観賞したと言われている。興に乗って李白を呼び詩を読ませた。
「名花傾国両つながら相喜ぶ、常に君王の笑いを帯びてミルを得たり、春風無限の恨みを解釈し、沈香亭の北蘭干に倚る」(清平調)
また玄宗に仕え李白とも親交のあった阿倍仲麻呂の記念碑が建てられている。

望郷詩
翹首望東天
神馳奈良辺
三笠山頂上
想又皎月円

阿倍仲麻呂記念碑
仲麻呂は698年、奈良の出身で717年(霊亀3年)第8回遣唐使の随員として唐の長安へ渡った。中国名晁衡と言い進士の試験に合格し玄宗の朝廷に秘書監として仕えた。なに不自由ない生活を送っていたが望郷の思い捨てがたく「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌は有名である。
李白や王維らと親交もあった。753年遣唐使とともに日本へ向かったが暴風雨に巻き込まれ、ベトナムへ漂着し再び長安へ戻った。
李白は遭難の報に接し「日本晁衡帝都を辞し、征帆一片蓬壺を繞る。明月帰らず碧海に沈む、白雲愁色蒼悟に満つ。」(晁衡を哭す)を詠んだ。

哭晁卿衡
日本晁卿辞帝都(わが友、日本人の晁卿どのは都に別れをつげ)
征帆一片遶蓬壺(風をはらんだ帆船は蓬莱をめぐり去った)
明月不帰沈碧海(旅先で清らかな君が碧海に沈みもう帰らないと知り)
白雲愁色満蒼梧(白雲も憂いをおびて蒼梧に満ちている)

仲麻呂はその後再び祖国の土を踏むことなく770年長安に没した。唐王朝は仲麻呂に路州大都督の称号を追贈した。記念碑には晁衡の望郷の詩と李白の晁衡を哭すが刻まれている。


2日目の夕食は長安路の西安賓館で食べた。料理はいつものメニューのほかに四川料理ということで麻婆豆腐や回鍋肉などが出された。


秦兵馬俑抗博物館

第一坑は
東西210メートル、南北60メートルの長方形の竪穴式である。実戦軍陣の姿で約6千体の陶俑陶馬が整列している。これらの陶俑陶馬は前221年〜210年の間に造られたと考えられている。

第二号坑は
一号坑の約半分の面積である。軍陣は一号より複雑な配置となっている。高級な軍史俑、中級な軍史俑、御手及び車兵俑、騎兵俑、跪式の歩兵俑など多種の俑が出土している。

第三号抗は
一番小さい規模である。陶俑68件、陶馬4頭、戦車1台が出土した。ここは一号坑、二号坑の指揮所であると考えられている。
銅車馬館

始皇帝陵の西側より発掘された四頭立ての車馬である。尺度は真馬車の1/2であり、人、馬、車ともに青銅で出来ている。2台の車馬は1980年出土し8年もの長い時間をかけて復元された。
前方の一号車は高車と言い盾や弓矢など武器を備えていて御者が立っている。後方の二号車は安車と言い車輿は前後二部分に分けられ前室に御者が座っている。後室は主人の乗る場所であり3つの車窓と一つの扉が設けられている。
車は4頭の馬が牽く。中間の2頭を服馬と言い外側の2頭を驂馬という。服馬の外側に刺状の脇駆があり驂馬が近寄らないよう工夫されている。

秦始皇帝陵
秦始皇帝陵は西安の東35キロの驪山の北麓に築かれた。陵墓の高さは115メートル、2重の城壁で囲まれ、内城は周囲4キロ、外城は周囲6キロであったと言われている。陵墓の四方にの地下に豊富な副葬品があり、東に兵馬俑、西に銅車馬が発掘され北に宮殿があるという。利の始皇帝の中国統一は文字、貨幣、度量衡、法律、車の轍などの統一をもたらした。


華清池
驪山は秦嶺山脈の支脈である。驪とは黒毛の馬という意味で山の形から名づけられたようである。唐の太宗がこの地に宮殿を造らせたのが始まりであり、玄宗が規模を拡張し華清宮とした。日華門、月華門、飛霞閣、飛虹橋、棋亭、望河亭など朱の楼閣が驪山を背景に池に影を落としていたと思われる。玄宗は毎年避寒のため楊貴妃と冬を過ごし、闘鶏や蹴球を楽しんだといわれている。安史の乱により、楊貴妃を失ったあとは再び玄宗が行幸することはなく唐末には廃墟と化した。後の時代に道鏡の寺院である道観になって年を経ていった。

過華清宮    <杜牧
長安回望繍成堆(長安より振り返ると驪山は錦のように美しく見える)
山頂千門次第開(その頂の宮の門が次々に開かれていく)
一騎紅塵妃子笑(貴妃が砂塵を巻き上げて来る馬を看て笑ったが)
無人知是茘枝来(これが茘枝がとどいたものであるとは誰が知ろうか)

玄宗皇帝と楊貴妃
貴妃とは官名でランクを示す称号である。皇后の下の婦人の位で恵妃、麗妃、華妃の三人のうちから貴妃が選ばれた。楊貴妃は幼名玉環と言う。「頭を回らして一笑すれば百媚生じ六宮の粉黛顔色なし」と色白で豊満な美女であった。歌舞音曲にも通じていた。「春寒くして浴を賜う華清の池 温泉は水滑らかにして凝脂を洗う」と白居易(白楽天)の長恨歌は歌う。


西安の城壁

西安城壁は唐代の皇城を明代に改修したものである。唐代に比べ約9分の一に縮小されている。城壁は南側3.4キロ、北側3.3キロ、東と西側それぞれ2.6キロで周囲11.9キロであり東西南北に城門楼がある。東門を長楽門、西門を安定門、南門を永寧門、北門を安遠門と呼ぶ。

長安交游者   <韓愈

長安交游者(都の人々の営みは)
貧富各有徒(貧しき者は貧しき者、富める者は富める者と交わる)
親朋相過時(仲良しが訊ねてくると)
亦各有以娯(それぞれ楽しみ方が違う)
陋室有文史(貧しき者はむさ苦しい家で文学を楽しみ)
高門有笙竿(富める者はお屋敷で管弦の遊びを楽しむ)
何能弁栄悴(どちらが栄えどちらが落ちぶれていうのか)
且欲分賢愚(ただ賢き者、愚なる者を分けて暮らして行くのだ)
          

城壁に一度登ってみたいと思っていたので感動してついついシャッターを多く切ってしまいました。永寧門をくぐると四方を城壁で囲まれた中庭がある。城壁の高さは約12メートルある。長い石段を登ると城門楼があり遠くに鐘楼をが見える。城門楼は外からは三層に見えるけれど中は2層であったりする。楼の端の売店で小時間10元で自転車を借りて城壁の上を東に向かって走った。城壁の上の幅は約12メートルあり自転車を走らせるのにはまったく問題ないが、煉瓦造りででこぼこしているのでがたがたと揺れる。これも異国のことで苦痛より楽しさとなる。


永寧門(南門)

南門城門楼

鐘楼を望む
 送 別  <王維
下馬飲君酒
問君何所之
君言不得意
帰臥南山陲
但去莫復問
白雲無尽時
(馬から下りて酒をつぐ)
(君はいったい何処に行くのか)
(志を得ずして)
(南山の麓へ帰ると君は言う)
(なれば行けこれ以上訊かない)
(南山は白雲がずっと浮いている
であろう)

安定門(西門)

城壁の幅は約12メートル

徳発長
最後の夜の夕食は西安名物餃子宴である。西大街で車を止めて徳発長という店に出かけた。テーブルを囲んで次々に蒸篭で出てくる、あひる、白菜、海老、焼き、トマト、花、胡桃、すり身、卵、くわい、鶏、水、マッシュルーム、水晶、野菜、船、真珠と15種類の餃子を楽しんだ。最後の真珠は大きな器で出てきた。スープのなか沈んでいる餃子(真珠)をスプーンですくって皿に取るものであり、真珠が何個取れるかによって運の善し悪しを占える楽しい嗜好もこらされていた。


鐘楼
中国の都市は城壁で囲まれている。四方にいくつもの城門が設けられ外界に通じている。諸門は朝開き、夕刻に閉じる。また、街はいくつもの土塀で区切られた坊があり坊門で人々は出入りした。門は太鼓の音にあわせ開け閉めされた。朝は暁鼓、夕刻は暮鼓と言う。
鐘楼は明の洪武17年(1384年)に造られた。西安市内の中心にありここを起点として東西南北に大通りがのびてそれぞれ城門に通じている。外から見れば三層であるが、二層の建築である。鐘は毎朝70回撞かれ、鐘を撞き終わってから4つの城門が開けられいわれている。現在、鐘の音は録音されており、毎日市民に時を告げている。


碑林博物館
唐王朝では科挙の試験を受ける人々のため儒教の古典について正しい本文を示すために碑文として公示していた。この碑文である開成石経を保存するために北宋時代に収蔵したところが碑林である。楷書、草書、隷書、てん書といった各書体の名品が連なり、漢から清時代までの名書家の筆跡が並んでいる。


書院門古文化街
碑林から南大街にぬける一帯に伝統的な建物の店が軒を連ねている。店の前に本や雑貨を並べた露店が出て賑やかな雰囲気を盛りたてている。筆、硯、紙など四宝を中心とした観光客目当ての街である。
ここは当初国営を考えて開発されたらしいが、集客力が少ないため民間に売却され民間で経営されている。ここの街が観光客で埋まるためには西安全体の観光開発が進まないと難しいのではないかと思った。


漢民族とは?と考えてこの旅行に参加したが、結局のところ答えがみつからなかった。西安の人々の表情のなかに兵馬俑抗の俑や陽陵の武士俑、宦官俑、女騎馬俑の顔がある。周、春秋戦国、秦、漢と漢文化を成就した民族の子孫はここ西安の人々であることでもあることは確かである。


終南山     <王維
太一近天都(終南山は都の近くにそびえ)
連山到海隅(山並みは遠く東海のほとりまでつづく)
白雲廻望合(白雲はながめているうちに視界を閉ざし)
青靄入看無(靄に包まれれば見えるものない)
分野中峰変(天と地の境は峰によって変化し)
陰晴衆壑殊(谷ごとに晴れ曇りと天候は異なる)
欲投入処宿(一夜の宿を得ようとし)
隔水問樵夫(川向こうの木こりに訊ねる)


送秘書晁監還日本国     <王維
積水不可極(ひろびろとした海の果ては極めようがない)
安知滄海東(東の亦東にある君の故国などどうして知り得よう)
九州何処遠(君の故郷はどこにあるのだろうか)
万里若乗空(万里の道は空を飛ぶように遠いものであろう)
向国惟看日(故国へ向かってただ日を見るばかりである)
帰帆但信風(帰りの航海はただ風まかせ)
鰲心映天黒(波間に大海亀の甲羅が黒々と映り)
魚眼射波紅(大魚の眼は波頭を射るように紅に光る)
郷樹扶桑外(故郷の木々は扶桑の外に茂り)
主人孤島中(主人である君は孤島の中に住む)
別離方異域(別れればお互い別々の世界の人になる)
音信若為通(どのように便りを通わせたらいいのだろうか)


酌酒与裴迪     <王維
酌酒与君君自寛(君に酒をつごう。一杯飲んで気持ちを寛く楽にしなさい。)
人情反覆似波瀾(人情なんてよせる波のようにくるくる変わるものさ)
白首相知猶按剣(とも白髪までつづいた友人どおしでも剣を取り争うこともあるし)
朱門先達笑弾冠(先に出世したものは引きを待つものを冷笑する)
草色全経細雨湿(雑草は恵みの雨を受けてしっとりと湿っているのに)
花枝欲動春風寒(枝の花は蕾が開こうとすると春風が冷たく吹く)
世事浮雲何足問(人の世の事など浮雲のごとくはかないものでとやかく言うには足らないな)
不如高臥且加喰(そんなことあれこれ考えないで超然として自愛することだ)


楽しい4日間の旅でした。

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