韓    国

KOREA


(2002.9.11−9.16)





韓国の世界遺産を訪ねて6日間の旅に出た。宿泊地は済州市、光州市、慶州市、大田市
ソウルである。6日間では消化しきれぬほどメニューが盛たくさんでひとつひとつをゆ
っくりゆっくり見て回るという余裕はなかった。しかし韓国と日本を考えるうえで今回
の旅行は有意義であったと思う。飛鳥時代に私がおって日本と朝鮮を行き来したとして
異国を行き来したと感じさせないような、曖昧ではあるが風土・文化の相似性というよ
うなものがあるのではないかと中国旅行では感じなかったものを感じることが出来た。

出発

2002年9月11日午前7時、成田空港第一ターミナルの出発ロビーは客がまばらであった。 KE−718便は9時45分定刻に済州島へ向け出発した。機内は旅行客などで満席であった。 12時30分済州着、漢南旅行社の金(KIM)さんが我々を出迎えたくれた。
今回の旅は世界遺産を巡り韓国とはどんな国であるのかできるだけ知りたいと考えていた。


済州島(JEJUDO)

済州島は楕円形をした火山島であり広さは290平方キロメートルと日本の大阪府程度る。 島の真中には韓国の最高峰1950メートルのハルラサン(漢拏山)がそびえている。チェジュドの風土、文化を一言で表現するものに「三多、三無、三麗」という言葉がある。 三多とは島に多いものを指す。大地を築く石、島を渡る風、働き者の女である。また、三無は物乞い、 泥棒、門であり島の自然の恵みの豊さ、人々の人柄の良さを表わしている。 三麗は美しい心、自然、おいしい果物を指している。済州島は耽羅(タンラ)という独立した国家を形成していた。その起源は高、良(梁)、 夫という3神が地底から現れで子孫を増やしたという建国神話にある。三神が現れた場所が三姓穴 (サムソンヒョル)であり聖域として今でも崇められている。漢拏山の火山島であるこの島は竜頭岩(ヨンドゥアム)挾才窟(チョプチェグル) など溶岩が創り出した造形や洞窟がある。 また、守り神とされるトルハルバン(石のおじいさん)はその意味合いがはっきりしていない。


済州市 済州市の夜

済州市は塵も落ちておらず奇麗な街である。日差しは強いが吹き抜ける風は爽やかである。 鉄道がなくバスや自動車が交通手段となっている。このため繁華街は車で溢れかえっているが、 あまり警笛をならさないで駐車で狭くなった道を通行していた。
夜はホテル、コンビニ、食堂、商店、喫茶などが軒を連ね賑やかである。 歩く人々は大声を出して会話するでもなくもの静かであり中国のような街の喧燥はない。


三姓穴 三姓穴

高・良(梁)・夫という先祖を崇める祠である。これは日本の神社とは違うということだ。 先祖は神ではない。儒教的に崇める儀式が行われるが日本の神様とは違うのだそうだ。 先祖が地底から現れた場所は、今でも三姓穴として鬱蒼とした樹林のなかで 崇められている。



済州島は火山島である。溶岩の上で生活をしていると言って良いだろう。 竜の形をした竜頭岩も黒い溶岩であるし海岸も溶岩が黒い岩肌を見せている。 畑から掘り出された岩は畑の境として積まれたり、民家の石塀や石垣に使われていてこの地方独特の風景を形作っている。 溶岩の石は一見すると軽石如く思われるが、手にしてみるとずっしりと重い。 不揃いの石を積み上げた石塀は程よい隙間ができて強度を増すのであるとのことである。


挾才ビーチ 挾才ビーチ

竜頭岩から海岸線に沿って西へ向かう。しばらく行くと飛揚島という小島が見える海岸がある。 太陽の光を受け海の色を鮮やかに染め上げる白い砂は河川により山から運ばれたものではなく珊瑚の亡骸である。

海岸の近くに翰林公園があり、熱帯の樹木が植えられあざやかな花々が咲いている。 ここには溶岩が流れた跡の洞窟、挾才窟がある。 この洞窟の特徴は溶岩の洞窟に石灰岩がしみ出して鍾乳洞のような造形をも見せてくれることにある。

また民族村では藁を縄の網で被った軒の低い藁葺きの古民家を観察できる。 民家の入り口に二本の柱があり穴に三本の棒が通すような仕掛けになっている。 このかけた棒の数で在宅なのか留守なのかを示しているのだそうだ。この便利でおおらかな仕掛けを ジョシナンと呼ぶのだそうである。門を入り正面が母屋、左側に隠居の建物があり いずれも軒の低い藁葺きの平屋である。母屋の入り口の土間は釜戸がならびオンドルの口もある。 壁は岩(溶岩)を積み上げて出来ていた。


天帝淵 天帝淵瀑布

翰林公園から島を横断して島の南面にでる。山房山という岩山があり山房窟寺という寺院がある。 大雄殿に釈迦三尊像が安置されていた。

南海岸はリゾート施設が多い。儒教の神である玉皇上帝の仙女達が夜になると下界に下りてきて 沐浴したという伝説のある天帝淵瀑布は有名である。7人の仙女で飾られた仙臨橋を渡ると 仙女が描かれた天帝楼が石段の上にそびえ建っている。階下の五福泉 という噴水は儒教のおまじないであるのであろうか。


光州へ

済州島から光州までは空路で約1時間で行ける。午後6時の国内便で光州へ移動した。
韓国のホテルは環境政策のため使い捨てのシャンプー、歯ブラシ、髭剃りは置いていない。 食堂では割り箸でなく鉄の箸を使っているし楊子もない。 この旅で5泊したが、どのホテルも環境政策が徹底されており韓国人の意志の強さが感じさせられた。


光州(クアンジュ)

光州は人口約130万人の全羅南道の道庁所在都市である。 1929年の光州蜂起や1960年の光州事件など抗日運動や反政府運動が起ったように教育文化の中心でもある。 郊外には五一八民主化運動記念塔(5・18ミョジ)がある。

光州からのガイドは許(HEO)さんである。許さんの解説によると韓国は
・韓国にはいまでも地域感情がある。
・長生きの秘訣はキムチとあかすり。
・日本の防災訓練は韓国では戦争訓練である。
・夜の文化が発達している。
・温泉マークはラブホテル。卍のマークは占い。
ということであるとのことである。


コインドル遺跡 コインドル公園

光州郊外のスンチョンヂ、ソンゴァンミョン、ウサンリ(牛山里?)というのかどうか・・・ ガイドの案内もなく光州から1時間ほど車を走らせるた。
緑の山並みと湖のそろった風向明媚な村にこの古墳公園があった。 写真のような石墓を支石墓と言い2本の支石が巨大な上石(蓋石)を支えている。 公園内のあちこちにこのような上石が転がっている。
韓国ではこの支石墓をシソンミョンと言うが、別名コインドルとも呼ぶ。コインドルの直接の意味はわからない。


コインドル遺跡 支石墓

このような支石墓は中国東北地方、朝鮮、日本の北九州に分布しているそうだ。 碁盤型支石墓とか無支石墓というふうに形態が異なるが、巨大な上石をのせるのは同じである。 紀元前7世紀〜1世紀に造られたと言われている。


海印寺(ヘインサ)

光州からオリンピック高速国道を約3時間ほど走ると海印寺というインターがある。 海印寺インターから北へ約10キロほど行くと慶尚南道陝川郡伽耶面緇仁里というところに海印寺がある。 建立は802年、華厳経を広めるため義湘が建てた。本堂、大寂光院に本尊毘る遮那佛が安置。校倉造りの蔵経板庫に八万大蔵経の木版(8万1256)枚が収められている。室町時代に日本にも渡り東京の増上寺と京都の東本願寺に印刷された大蔵経が残されている。


海印寺 一柱門

伽耶山に海印寺は全州の松広寺、プサン郊外の通度寺と並ぶ韓国三大名刹の一つである。 壬辰の乱で焼かれ現在の建物は李王朝末期に再建されたものである。


海印寺 赤松と広葉樹林

一柱門をくぐると赤松と広葉樹林のなかをゆるやかな上り坂の参道が続く。


海印寺 鳳凰門

鳳凰門、解脱門と三門をくぐり登って行くと九光楼があり本殿である大寂光殿にでる。 ここには毘る遮那仏が安置されおりひとり坊主が経を唱えていた。


海印寺 万大蔵経

高麗高宋の治世に蒙古の進入を撃退するための祈願として作られたものであるとのことであり、 韓国の歴史の厳しさを感じる。


新羅千年の都慶州へ

海印寺からオリンピック高速国道で西に向かう。途中近代化した大邱(テグ)の街をとおる。大邱は韓国の都市に共通して見られるように郊外に高層のマンション群が立ち並び韓国経済の発展を象徴している。旧盆の帰省客の車で道路が混雑しているという予想が外れ順調に慶州に到着した。


慶州(キョンジュ)
慶州市は新羅の王都である。西側に兄山江が流れ、東に吐含山、南に南山、北は玉女峰 と自然の要塞に守られている。あちこちに新羅王朝の古墳が並び秋風はさわやかに稲穂 を揺らしていた。東の吐含山山麓に仏国寺の伽藍が配置され、さらに登っていくと仁王 と四天王に守られた釈迦大仏が鎮座する石窟庵がある。お釈迦さまは日の登る東を向い て座っておられる。東方に目をやるとはるかに日本海の水平線が開けている。韓国では この国の日が昇る信仰の海を東海という。韓国人の立場に立って考えると、日本海から 日が昇る国なんていう考えはあり得ない。日本でも日の没する西の日本海を東海と呼ぶ ことはない。名称は一つに固執しないで日本では日本海、韓国では東海でよいと思う。


韓国の国家形成は小さな盆地や谷間にそれぞれ小国ができ、小国が連合してしだいに大 きな国になったといわれている。しかるに盆地や谷間が中心になって韓国の歴史が展開 するが、慶州は慶州盆地を中心に四方に伸びる谷間があり典型的な所であると言える。 新羅の建国神話は、初め6つの村がありそれぞれの村長は天から降臨してきた。6つの 村が合併して新羅の国を造る際、新羅王にふさわしい人物を降ろして欲しいと天神に頼 むと、紫の卵に入った童が降臨した。村人建ちはこれを育てて新羅王としたと伝えられ ている。また、始祖の王妃は地神の龍から生まれ村人に育てられたそうである。日本の 開国神話と天から降臨することや父が天神で母が地神であることなど類似している。し かし、日本では王が村人の要求によるものではなく天神の下された国民を支配する絶対 のものであるのに対して、韓国では王であっても国民の安全や発展を助けるものであり どれほど功績があっても国民に危害を及ぼすものは排除できるとする王と国民の関係に 日本とは大きな違いがある。王朝が興り滅ぶ歴史にこのような考えが仕組まれている。


天馬塚 天馬塚

慶州には数多くの大小の古墳がある。そのほとんどは饅頭形の円墳であり、なかに墳丘が二つつながった双子の古墳もある。 慶州の古墳の興りは1〜3世紀ごろと言われており、だんだん巨大化して5〜6世紀にその頂点に達したようである。 古墳公園にある天馬塚はこれら巨大古墳の一つである。高さ約13メートル、直径約55メートルの円墳で、内部は積石木槨構造となっている。 山字形金冠をはじめ豪華な副葬品が数多く出土している。


天馬塚 天馬塚の構造

古墳はスケッチで示すように石を積み上げて外側を粘土で固めたものである。


慶州の村 慶州の農村

田は豊かに実り働く農民の姿は見あたらなかった。この田の風景は古代農業から積み重ねられた重みを感じ、韓国のどの建物より力が込められているように感じた。4〜5世紀、倭は百済との交流により文物の吸収に 務めていた。660年、唐・新羅の合同軍によって百済が滅亡した。その直後、倭は百 済復興のため大軍を派遣したが白村江で大敗し国家存亡の危機に陥った。この危機が急 ぎ国家体制の整備を進め律令国家日本国へと脱皮する古代の近代化の源となったと言う ことである。田園の眺めは国の興亡というものを遠ざけひとの深い営みを感じさせる。


国立慶州博物館
古墳から出土した豪華な副葬品は国立慶州博物館の考古館に展示されている。天馬塚から出土した金冠帽や 山字形金冠は新羅が黄金の国と言われただけにみごとな金製品である。博物館の正面に大きな鐘楼が目に付く。重さ23トン、高さ3.3メートル、口径2.3メートルの新羅最大の梵鐘である。蓮華に正座して香炉をささげる仙女や雲の上を衣をひるがえして飛ぶ飛天が彫刻されており優雅な梵鐘である。この鐘は771年完成したもので聖徳大王神鐘というが、鐘の音がお母さん(エミレー)と呼ぶように聞こえることからエミレー鐘という。

天馬塚の財宝


石窟庵
吐含山は都の東方に位置する。途中に仏国寺があり、そこからさらに奥へ山に入ったところに山の斜面をくりぬくように石窟庵がある。


石窟庵 石窟庵

駐車場から石窟庵まで静寂の山間を曲がりくねった昇りの道が続く。潅木をぬうこの道はよく掃き清められておりすがすがしい気持ちにさせてくれる。


石窟庵 石窟庵のなか

石窟は前方後円式であり前室、羨道、主室からなる。
前室には八部衆の神像が板石にレリーフしてはめ込まれ、羨道の入り口には仁王像が固め羨道内に四天王が立っている。
主室の入り口の左右には8角形の柱が支え、中央には八角形の台座に花崗岩一石彫りの阿弥陀如来坐像が安置されている。
その回りには十一面観音と梵天、帝釈、文殊、普賢の4像と10人の羅漢像が囲んでいる。


東海 石仏の目は東海を睨む

石窟庵から東を望むと日本海(東海)が開ける。仏の目もはるか東方に向けられている。日本の侵略を海龍に生まれ変わって防ごうとした文武王のゆかりの感恩寺や文武王陵に向けられることで 日本からの侵略を仏の力で防ごうとしている気持ちが現れている。


仏国寺
慶州市内から東南約16キロ、吐含山の中腹に新羅時代の751年に創建された仏国寺(プルグッサ)がある。 入り口の一柱門をくぐり庭園を抜けると四天王が立つ天王門がある。さらに松が美しい庭園を抜けると伽藍に行き着く。


仏国寺 仏国寺

伽藍の正面には東側に紫霞門、西側に安養門の二門がある。それぞれの門にはに2段構えの石橋が架かっている。 紫霞門には下から青雲橋、白雲橋が、安養橋には七宝橋、蓮華橋が架かっている。 これらは俗世界から仏の世界の掛け橋である。右側の門から入ると回廊に大きな木魚がつるされていた。また中庭正面の左右に二対の石塔(朝鮮式3層石塔)が立つ。東は優美なふくらみをもった女性的な多宝塔であり、 西は直線的なつくりの男性的な釈迦塔である
本堂の大雄殿内に3体の金銅仏が安置されている。中央の毘廬舎那仏坐像と左右に菩薩像が配置されている。
右奥に45度の急な階段があり、これを登と観音殿があり千手観音が安置されている。また、北の毘廬殿には金銅毘廬舎那仏が座している。


安東河回村(アンドン・ハフェマウル)

慶州で昼食をとり安東へ向かった。慶州から安東は約150キロ一般道を北上する。安東は朝鮮王朝時代には朱子学の中心地として栄えたところである。安東から西約40キロに河回村がある。洛東江が曲って回っている地形を率直に表現して河回村とつけたらしい。ここでは河回仮面劇という独特な芸能が発達した所でもある。
このツアーでは陶山書院も行くことになっていた。李退渓。朱子学。四千冊の退渓の蔵書。書院建築。典経堂。時習室。観らん軒など見たかったが、残念ながら河回村で午後3時となりここから陶山書院まで60キロも離れていることから割愛せざるを得なかった。


河回村 河回村

村の入り口にいくつもの木製の天下大将軍と地下女将軍(チャンスン)が立ち、泉が涌いていた。いくつか小さな店があるが客に声をかけることもなく静かに客を待っている。集落は塀をめぐらせた藁葺きの家があり屋根には瓢箪のつるがはっていた。ここでは柳という姓が多くこの写真の柳家では食事処を営んでいる。


安東〜儒城温泉へ

安東河回村からは一般国道を畑や山を抜けて走った。至るところで見えるのは教会と土饅頭型の墓である。教会の建物はここの風景と異質なのですぐわかる。小さな町や村に必ずありキリスト教が盛んであることが車窓から見ても理解できる。また、土饅頭型のお墓も畑や山の斜面に多く見られる。このまま土葬が続くと畑や山は墓場に占領されると思えるほどである。こちらのほうは火葬が近年推奨されているようであるが、儒教で言えば火葬は罪人という観念があり定着していくのには時間がかかりそうである。途中から高速道路を走り大田市へ着いたのはもう午後7時を過ぎていた。街は市場が立ちにぎわっていた。


儒城温泉
宿泊したスパビアホテルはネオンがきらめくホテル街で一番高い建物である。別棟の温泉には二階から橋を渡っていける。受付の男に入浴券を渡すと靴を持ってロッカーに入れろと手振りで指示された。番号のついたロッカーのキーをもってロッカーをきょろきょろ探していると、若い男性がこれも手振りでキーを見せろと言い、そして番号のロッカーまで案内してくれた。こんな親切は日本ではない。
浴室はいわゆる日本で言うサウナと同じである。温泉の大風呂が2つ、サウナ室が2つ、水風呂、底の浅い寝湯があった。韓国では入浴前に身体を洗うのがマナーであるそうだ。一週間に一度は丹念にあかすりを行うということだ。これが長生きの一つの秘訣であるとガイドから解説があった。洗い場で子供が父親の背中のあかを一生懸命こすっている姿が印象的であった。


扶余(プヨ)

百済王朝最後の都であり、高句麗の南侵に備え538年に公州から遷都した。123年間百済文化の中心として仏教文化が花開く。白馬江(錦江)が扶蘇山の北側を削り断崖をつくり、その上に扶蘇山城を築いた。山麓の南側に王宮を築き、24万戸の碁盤の目の都が開けていたが、660年唐と新羅の連合軍に責められ滅亡した。


落花岩と白馬江

扶余城のあった扶蘇山は標高92メートルのなだらかな山である。北側は切立った断崖が白馬江に落ちている。あいにくの雨である。登山口から登らないで舟で白馬江を上り皐蘭寺の舟着場から登った。白馬江は広くゆるやかに流れていた。丘のような低い山並みがなだらかに続き日本の飛鳥のような雰囲気を感じた。流を遡ると右手に扶蘇山の落花岩が聳え百花亭が見える。


百済滅亡の悲劇
断崖は百済滅亡の哀史、官女3000名が衣を翻して錦江に身を投じたと伝えられる落花岩である。舟を下りると扶蘇山へ登る道がある。断崖に張り付いたように建つ古い寺がある。皐蘭寺(コランサ)と呼ばれる寺は百済王と官女の霊を慰めるために建てられたる。裏手に岩清水が涌き甘露な水をたたえた泉があり一口飲むと10年若返るといわれている。


白馬江を見下ろす落花岩に建つ百花亭

百花亭から白馬江を望む


公州(コンジュ)
百済を日本ではクダラと読む。百は伯に由来し伯父、伯家などに使われ百済の意味は大国あるいは本国ということであるらしい。百済滅亡の際多くの百済人が日本へ渡りこの人々が百済をさして本国・大国と呼びクダラとなったともいわれている。
公州は475年〜538年まで63年間百済の都であった。475年高句麗の南下に伴い漢城を失いコムナル(熊津=公州)まで下りここを都として再興を図った。公州は小さな盆地で錦江が北をさえぎっていて高句麗に備えるのには格好の地である。錦江沿いの丘陵には公山城がある。


宋山里古墳群
公山城の西方のなだらかな丘陵に碗を伏せたような土饅頭形の古墳が並んでいる。ここは百済王陵の地である。
盗掘を免れた武寧王陵からは数多くの遺宝が発掘された。王陵の様子は復元された展示室で見ることができる。武寧王と王妃の墓誌が羨道の入り口に並べられており、石獣が南を向いて置かれ墓を守っていた。また、紐にとおした南朝梁の五銖銭90枚がおかれていた。この銭は冥土で土地を買うためのものであるらしい。玄室はセン(土を焼いたれんが)を積み上げて南朝風に造られ、広さは長さ4.2メートル、幅2.7メートル、高さ2.9メートルである。
金製冠飾、金製耳飾、金銀製帯金具、金銅製飾覆、龍鳳文太刀、青銅鏡など遺宝は公州博物館に陳列してある。遺宝のなかの五銖銭と道鏡、白磁灯明皿、青磁六耳皿などは中国の物であり百済と南朝の交流が強かったことがうかがえる。



水原(スウォン)
歴史は下り李氏朝鮮王朝の時代となる。水原市はソウル南方30キロにある城郭都市である。水原華城(スウォンファソン)は1793年朝鮮王朝第22代正祖がソウルから遷都をする目的で築いた城であるが、遷都されることはなかった。城壁は周囲約5キロの規模であり、東門の蒼竜門、西門の華西門、南門の八達門、北門の長安門の4大門が建てられている。また光教川が城壁と交わるところに7つのアーチ状の水門がありその上に城門風の建物(華虹門)がある。



水原城全景

峰に沿って下る城壁

街の西側に八達山があり将台や砲楼などが建てられている。眼下に水原の町が開けて見渡せた。門には旗が掲げられている。白旗は西門に、黒旗は北門に、紫旗は東門にはためいていた。


ソウル
宗廟(チョンミョ)は李氏朝鮮王朝の歴代の王や王妃を祀るみたまやである。1395年に創建されたが壬辰倭乱で焼失、1608年に正殿正面11間が再建され、後に4間、2間、2間と左右横増され現在の19間の横広の建物となった。太い柱や梁や板壁が朱に塗られているだけで素朴な建物である。


宗廟

正殿の内部には19代49位牌が祀られている。毎年5月に宗廟祭礼が行われており、伝統的な衣装、雅楽の演奏など儒教式の儀式の様子は王朝文化の重みを感じさせると言われている。神門から続く参道がある。儀式では祭司に続き王と王妃が渡るという。


ソウルタワーから眺めたソウル中心街

標高243メートルの南山(ナムサン)山頂にあるソウルタワーがある。展望台からソウルの街が見渡せる。ミョンドンや南大門など繁華街を見て回った。ホテルは漢南のニューワールドで5年前に泊ったところである。ホテルの裏のこんもりとした森は宣靖陵である。
街は五年前より賑わっていた。夜も活気がある。何代もの王朝が盛衰した国家であるがこのような繁栄はなかったのではないだろうか。この国の活気は今を最大に生きるというような感じも受ける。歴史的な背景が将来に対する不透明さが今というこのときを最大限に生きるという強さになっているのかも知れない。

今回のお土産は青磁の徳利、キムチチョコレート、キムチでした。お茶を探したが見当たらなかった。この次ぎはお茶の文化から韓国を見て見ようと考えている。

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