HANDEL, Georg Friedrich


(1685 − 1759)

生涯

 ゲオルク・フリートリヒ・ヘンデルは1685年2月23日にドイツのハレに生まれた。1703年にはハンブルクに移り、オルガン、ヴァイオリン、ハープシコード奏者、および作曲家としての仕事を始め、1705年にはハンブルクの地で彼自身最初のオペラ「アルミーラ」を舞台にかけた。翌1706年から1710年まではオペラの本場イタリアに遊学、オペラを中心とするイタリア音楽を深く学んだ。1710年6月にはハノーヴァー選帝侯ゲオルク一世 (後のイギリス王(1714−1727)ジョージ一世)の宮廷に音楽長として迎えられるも、同年には生涯の活躍の舞台となるイギリス・ロンドンに初めて渡り、翌1711年、ロンドンにおける最初のイタリアオペラ「リナルド」をヘイマーケットのクィーンズ劇場で上演し、大成功を収めた。同年6月にはハノーヴァーに戻り、宮廷音楽長として仕えるも、翌1712年秋にはまたもロンドンに渡り、以後はイギリスに定住、1727年にはイギリスに帰化した。
 イギリス時代は貴族や、後には王室の保護の下、経済的にも恵まれて順調に幕をあけ、1730年代にはロンドンにおけるイタリアオペラの第一人者としての地位を確立した。しかし1737年4月、ヘンデルは卒中に襲われ、続いてオペラの不振によって次第に窮地に追い込まれていった。1740年12月と1741年1月に上演された「イメネオ」「ダイタミア」は、全力を投入したものの失敗。ヘンデルは経済的にも精神的にも肉体的にも追い込まれた。その窮地の中、ヘンデルが生みだしたものが、彼の最も有名な作品「メサイア」であった。
 「メサイア」は1742年 4月13日、アイルランドのダブリンで初演するや大成功を収め、ヘンデルは再び名声を取り戻した。ヘンデルはイタリアオペラの手法を取り入れた近代オラトリオの形式を発展させ、やがてイギリスのみならず、ヨハン・セバスティアン・バッハと並ぶ当時の最高の栄誉を得るに至った。
 ヘンデルは1759年 4月14日、ロンドンの地で栄光ある生涯を閉じた。遺体はウェストミンスター寺院に葬られ、3, 000人の会葬者が見送った。

メサイア

 ヘンデルといえば「メサイア」という人も多いのではあるまいか。 私もそうだが。ヘンデルのオラトリオの中でも最も有名であり、「水上の音楽」や「王宮の花火」と並んでヘンデルの代表作に数えられる「メサイア」。
 メサイア、とはMessiahメシアの英語読み。ヘブライ語で「油注がれし者」の意で、これのギリシア語訳がCristusクリストス、つまりキリストである。オラトリオ「メサイア」はイエスの生涯を主題とし、イエスが救いの主、人々の罪の贖いとして神より地上に遣わされたその意味を訴えている。
 「メサイア」の台本を作ったのはチャールズ・ジェネンズ。「メサイア」 以前にはオラトリオ「サウル」やオード「快活な人、物思いに沈む人、穏健な人」をヘンデルのために書き、後1745年にはオラトリオ「ベルシャザル」を書いた人である。「メサイア」は、というよりもオラトリオは一般に旧新約聖書の言葉によって作られ、独唱・合唱・管弦楽などによって構成される。聖書の言葉を巧みに構成した「メサイア」の台本は当時窮地に陥っていたヘンデルの意欲をかきたてた。
 「メサイア」が世に出た背景にもう一人の人物がいる。当時アイルランド総督であったデヴォンシャー公ウィリアム・カヴァディッシュである。窮地にあるヘンデルに対して公は1741年10月にオープンするホールでのオラトリオ演奏会へ招聘することを伝えた。ジェネンズの台本とデヴォンシャー公のバックアップ。この二人はヘンデルにとってのメサイアであったかもしれない。かくしてオラトリオ「メサイア」は僅か24日間で書き上げられ、アイルランドはダブリンの地へと渡った。ヘンデルがダブリンに到着したのは1741年11月18日のことであった。

ヘンデルとバッハ

 西洋音楽最大の作曲家と称えられるヨハン・セバスティアン・バッハ。ヘンデルとバッハは同じ1685年に生まれ、バッハが1750年、ヘンデルが1759年に死んだ。二人はほぼ同じ時代を生きたことになる。

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参考文献

長谷川勝英, メサイア合唱曲集ライナーノート, PHCP-10545, Philips, 1996.
The Best of Handel ライナーノート, 8.551115, Naxos, 1993.
The Oxford Encyclopedic English Dictionary, Oxford University Press, 1991.
2002/07/10 09:14:33;169346;xf7h-ktu;RETR;ok;/homepage/handel/handel.html