ここでは、トゥバを訪問すること実に10回、生物学研究者かつホーメイ研究家、演奏家の等々力さんに、
トゥバへ初めて行ったときの、不思議な偶然に導かれた旅の様子を書いてもらいました。
トゥバの人々の暮らしぶりや社会状況などについての、科学者らしい細かい視線も興味深いところです。

『トウヴァに入る』 

          等々力 政彦 (大阪大学大学院工学研究科)


<1992年 1>

1992年8月14日夕刻、3度目の、そして民主化してから初めてのイルクーツク
空港に到着した。
飛行機の外が騒がしいのでタラップへでてみると、数十人の男女がコサックダンスを
踊って我々を出迎えてくれていた。どうも同じ飛行機にのっていた日本人が、さる偉
いさん達で、その歓迎をしているらしかった。それはともかく、生まれて始めてみる
コサックダンスは素晴らしかった。皆写真をとったり日本のテレビ局の人はカメラを
回したりしていた。空港での写真は厳禁で、あらぬ方向を向きながら何気なく隠し撮
りをしていた一昨年とは大きな違いだった。
しかしながら、民主化したと言って大騒ぎしているのは外国だけで、インフレを除い
ては、市民生活に変化は見られなかった、市の役人などは、全くソ連時代と変ってい
ないと言うことであった。それに対して、大っぴらに金儲けができるようになったた
めにインフレの方はすごい勢いであった。貧しく、また資本主義的考えについて行け
ない人々が生きていくのには難しい時代になってきたように感じられた。

空港には友人のアリョーシャと、学部時代からの友人で、しばらく前からこちらでブ
リアート語を勉強に来ている奥村が待っていた。彼女はこちらでトウヴァ人の知人が
でき、一度遊びに来ないかと誘われていた。私は私でしばらく前からラルフ・レイト
ンと連絡を取り合って現地のラダ・チャカールを紹介してもらっていた。そこでお互
い一緒にトウヴァに行くパートナーとなる訳である。

私の今回の目的の第一は、ハイマツという松を見ることであった。これは小学校のと
きからの夢であり、私をシベリアへと誘った張本人である。しかしながら実際にそれ
に出会ったときの気持ちは何とも奇妙なものであった。義務から解放されたときの安
心感と、目的を失った脱力感のようなものの方が大きかったからである。
8月14日。この朝は断続的に降り続く雨の中、私とアリョーシャ、そして昨年山で
知り合ったマイア・ミハイロヴナと犬のムシクは、バイカル湖の南方に位置するハマ
ル・ダバン山脈にある1000mそこそこの山に登っていた。そして午後7時20分
、ハイマツは森林が開けた礫地に、当たり前のように生えていたのであった。この辺
りのハイマツは森林に混じって生えており、日本の高山で良く見かけるように低く這
ってはいなかった。もっと高い場所に行かないと這わないのである。
夕方8時50分、びしょびしょに濡れた我々はテントを張る予定だった森の小さな小
屋のある場所へとたどり着いた。しばらく前から雨は上がっていた。日没が遅いため
に、日は暮れていたがまだ十分明るかった。キイチゴを摘みに来たという一家が焚き
火を囲んでいて、大柄の人のよさそうな男が、我々に紅茶を振舞ってくれた。人間は
我々だけだった。日本から来たというと「君は資本主義者だろう。俺もそうだよ」な
どと軽口を叩いた。雨上がりのあとの夕暮れ時の風が、焚き火の煙をゆっくりと森へ
と運んで行った。
夜になって再び雨になった。マイア・ミハイロヴナが眠れないので、日本の昔話をし
て欲しいという。そこで乞われるまま昔話をした。まず日本語で一区切りしゃべった
後、英訳して行くという形でいくつかの話をした。昔話をしていると何だか故郷に帰
ってきたような気持ちになった。この時の夜話のために、彼女は「むかしむかし」と
いう例のフレーズをすっかり憶えてしまった。夜の雨がテントに当たって単調なリズ
ムを刻んでいた。
次の日も雨が激しかったため、午後になってから出発した。その日は森林限界に近い
場所にテントを張った。落ちていた空き缶を沢水で洗い、道すがらキイチゴやブルー
ベリーを摘んで集めた。お茶の時間にジャムを作るためである。方法は簡単で、お茶
を涌かすやかんと一緒に、果実の上にたっぷりの砂糖をかけた缶を焚き火の上に置い
ておくと、ちょうどお茶が煮え立つころにジャムができてると言うわけだ。ロシア
ンティーと言えば日本ではお茶のなかにジャムが入っているが、ロシアではそのよ
うな飲み方をする人は少ないように思われた(トウヴァではしばしば見受けられる)
。普通は、小皿にジャムか蜂蜜、練乳を盛って、各人がスプーンですくって食べなが
ら飲むのである。またお茶には時々に応じて薬草や、ハーブを取ってきて入れること
が多い。
ブリアートの猟師は山を汚さないのだとマイア・ミハイロヴナは言う。我々もそれに
習った。例えば食べ物は残さない。余れば犬に与える。排泄物は土と混ぜてしまう(
紙は焚き火で燃やした)。空き缶の再利用もしかりである。また焚き火の後始末は水
をかけないで、土をかけるか自然消火を待つ。こうしておくと次にこのかまどを
使う人が火を起こしやすいからである。また寝床にするために集めてきた松の枝や、
柔らかい草はそのまま次の人も使えるよう整えておくなどである。これらが、誰の強
制を受けるまでもない当然のこととして行われるのである。日本では忘れられてしま
ったこうした細かい心配りや自然への畏怖が、ここではまだ生きていた。
次の日は快晴であった。山から下ってきた私とアリョーシャは、パンツ一枚になって
バイカル湖の砂浜で午後の太陽を満喫していた(おかげで一日に2本しかないイルク
ーツク行きの鈍行列車に乗り遅れてしまい、面倒くさい事になった)。その時にトウ
ヴァ行きの話しになったが、彼はクラスノヤルスクからアバカンを経てトウヴァに入
るのには3日間以上かかるかもしれないと言う。そうなるとビザが切れてしまうため
に、トウヴァには行けない事になってしまう。とにかく直接掛け合ってみようと言う
ことで、イルクーツクに帰る早々アエロフロートの窓口へ向かった。ところが呆気な
く解決策は見つかったのである。定期便ではないが、イルクーツクから首都のクズル
までの直行便があるというのだしかも翌日の便が取れたのである。

8月27日、午後3時40分、奥村と私を乗せた寿司詰めの40人乗り、小型ジェット
機はイルクーツク空港を飛び立った。この飛行機が大変で、荷物を置くスペースが少
ない上に皆が大荷物だから、後部は荷物で溢れ返っている。しかたなくできる限りの
荷物は足の下に押し込んだ。安全対策も何もあったものではない。
眼下に広がる大森林を抜けると、やがて夏だと言うのに、山頂部にうっすらと新雪を
かぶったサヤン山脈が見えてくる。しばらくは眼下に山並みが続いた。そうして雲の
上を飛んでいた機体だが、だんだんとか降下して行き始めたのがわかった。突然雲が
切れて地上が間近に見えた。真下に見える丘には森林がパッチ状にしか生育していな
かった。丘の向こうには、遥か彼方まで草原が広がっていた。そしてそこに見える小
さな町がクズルであった。緊張が高まってきて思わず握手をした。どうしても顔がに
やけて行くのが押えられなかった。車輪が大地に着いた。

ジェット機のエンジン音が停止すると同時に音というものが地上から消えた。快晴。
草原のど真ん中に取り残されてしまったような空港だった。午後5時45分、ついに
トウヴァにやってきたのだ。
地方の駅のような小さなクズル空港の出口には、ラダ・チャカールと甥のアヤンが迎
えにきてくれていた。私は彼らと一緒に、奥村はブリアートで知り合ったホストの家
へと別れていった。
夕方、私はラダの親類の若者達と一緒にエニセイ川まで散歩をした。アジア中心の碑
を見に行くためである。途中で偶然出会った奥村の集団と同行した。
エニセイ川の2つの支流が合流する川のほとりにその碑は建っていた。川の音と夕闇
が、辺りを包み込んでいた。暗くて碑文が辛うじて確認できる程度であった。ロシア
語、トウヴァ語、英語の3ケ国語でアジアの中心と書かれた碑文の上に地球儀が
あり、その上に剣のような形をした塔が載っているものである。本で見た通りである
。高さは7m程度か。ラルフとリチャード・ファインマンはこの碑を目指して長い冒
険をした末、ついにファインマンは死ぬまでここを訪れることはなかった。ラルフが
「まるでリチャードの墓のようだ」と思った碑を前にして、イルクーツクからわずか
2時間で思いついたように来ることができたことに対して、うまく合点がいかなかっ
た。これほど順調に来ることができたのは、きっとファインマンが味方してくれたか
らだと思いたかった。彼に後ろめたい気がしたからである。
しかしながら前の年にラルフがこの傍に据え付けたファインマンのレリーフは跡形も
なくなっていた。ラダによると酔っ払いがウオッカの瓶で割ってしまったのだという
話であったが、政治的な意味で破壊されたのではないかとも考えられた。
この晩はラダの姉のアパートに呼ばれた。ここで初めてアラガと呼ばれる牛乳か
ら作った蒸留酒と磚茶(たんちゃ)をご馳走になった。磚茶とはモンゴルやシベリア
で用いられる茶で、台湾産の緑茶や紅茶の屑を固めて煉瓦状にしたものである。これ
を削ってやかんに入れて煮出し、それに牛乳と塩を加えて飲むのである。一見ミルク
ティーのようだが飲むと塩辛いのでびっくりする事になる。このお茶はむしろスープ
のような感覚で飲まれているようである。


<1992年 II>

明けて8月27日、我々は奥村のホストに連れられてエニセイ川の支流カー・ヘム(
ヘムとはトウヴァ語での事)を遡って東に向かった。カー・ヘムはロシア名を
小エニセイといい、北東部から流れてくる大エニセイ(トウヴァ語でビー・ヘム)と
アジア中心の碑の所で合流してエニセイ川(トウヴァ語でウルグ・ヘム大きな川
の意)となる。
正午前にキジルを出発した我々は、12時30分に最初のカー・ヘムの渡し船と出会
った。このフェリーボートは力学的にとても面白い仕掛けになっていて、水流の力だ
けで動けるようになっていた。

川を越えてカー・ヘム地域に入った。まわりはポプラとシラカバ、カラマツからなる
林が川にそってあるのみで、平地は丈の低い良い匂いのするヨモギなどの草原になっ
ており、丘の斜面は地層がむき出しになっている。
この辺りまでは、先日までいたアメリカ人の団体が入ったと言うことであった。我々
はここから更に50km東にあるサルク・セップの町へと向かった。石ころだらけので
こぼこ道を、車は100キロを越える猛スピードで突っ走った。お蔭で途中2回もパ
ンクして、足止めを食う事になった。
ようやく町に到着した。このとき町の中心にある集会場のような建物の中では、町の
人々が会合をしていたらしく、それが終わって皆が食事をしているところであった。
そこでこのみすぼらしい2人の日本人は国賓のように迎えられた。皆の前に立たされ
、何か歌を歌えと言う。そこでロシアで人気のある日本の歌で「恋のバカンス」を歌
い、あと数曲日本の唱歌を歌った。拍手は照れ臭かったが、突然出会った見知らぬ人
間同士の間で、言葉を越えた交流のようなものがもてた事に感動をおぼえた。この後
は飲んで食べて、ディスコ大会へとなだれ込んだ。それが終わると奥村がブリアート
で知り合った旅のバンドの若者達が、コンサートをしてくれた(この小旅行は彼らに
会うために来たのであった。このコンサートでは彼らの持ち歌に加え、なんとマイケ
ルジャクソンの歌まででた。また彼らは、ヤマハの楽器を使っていたのである。もは
や物資の交流の無い場所など地球上には存在しないのだという現実に、改めて納得さ
せられた。私はどうやらトウヴァを神聖化しすぎていたようだった。)。クズルに電
話するため町の公衆電話局(電話ボックスがいくつか並んでいる部屋に順番で入り、
おばちゃんに頼んで通じるようにしてもらう。)に入っていくと、ここを訪れた人達
の名前が刻んである落書きを発見した。そのキリル文字の列の最後に、U.S.A.という
文字が書いてあった。我々以前にも誰か外国人がサルク・セップを訪れていたのであ
った。我々はこの見知らぬアメリカ人がどんな人なのだろうかと考え、そしてその下
にJapan2と刻んだ。
日が落ちてから、我々は川を越え対岸のコク・ハークという名前の村へと向かった。
ここにも例のフェリーボートがあって、橋のかわりに我々を対岸まで運ぶのに役立っ
た。ボートが静かなために、川の流れている音しかしない。一瞬自分が川に浮かんで
いるような錯覚に陥った。夕暮れの冷気が迫ってきて、人恋しくなってきた。
この夜はファインマンの言うところの冒険を楽しんだ。普通の民家に泊まる事になっ
たのである。時間が遅かったため、残り物の食品を囲んでささやかな飲み会が始まっ
た。ここの主人によると、1920年代に、トウヴァのラマ僧で日本とコンタクトを
とって日本語を勉強していた人がいたと言うことであった。星がきれいな夜だった。
トウヴァでは北斗七星の事をチエディ・ハーン(七人の王)と呼んでいるのだと教え
てもらった。月はアイと呼ばれている。
次の朝、主人が「この家に、昨夜日本人が泊まったなんて言っても誰も信じないだろ
うなー。」と言っていたが、なるほどそうだろう。しかし我々は玄関に「ありがとう
」と日本語で書いたカードをこっそり置いてきたから、彼の話にも信憑性を加えるこ
とができた訳である。

その日大急ぎでクズルに戻った私は、ラダ達に連れられて、今度は南下してモンゴル
国境へと向かった。ちょうどトウヴァとモンゴルの国境に位置するトーレ・ホル(ホ
ルはトウヴァ語で湖)はラダの親族の遊牧民のテリトリーなのだ。途中チエデル
という名の塩湖を通ったり、その場所でチャガタイ・ハンが忽然と消えたと言われる
湖の近くを通ったりして、車は少し色づき始めたタンヌ・オラ山脈を越えた。峠には
木に白い布が巻き付けられ、ここが神聖な場所であることを示していた。トウヴァの
流儀に従ってその場所で休息を取ってから、一気に下り降りると、そこには生まれて
始めてみる砂漠が広がっていた。
音のない巨大な空間。しかしながらこの景観は、目を通して頭の中で耳を聾せんばか
りの大音響をたてているのである。神は人間の卑小さを思い知らせるためにこんな場
所を時々用意するのだろう。
この砂漠の中の町エルジンで小休止した後、我々はいよいよ湖へと向かった。ここか
ら先は道が無い。従って、潅木と砂の間をぬって車は難儀しながら走る羽目になる。
この文明の利器は、ここでは到底馬にかなわないのである。
夕方7時をまわったころ、砂漠の向こうに突然、目指すトーレ・ホルが見えた。この
乾燥地にこれだけの水量を予測できなかった。全く自然は凄いものである。湖は曇天
からそこだけ漏れた光にきらめいて、恐ろしいまでに荘厳な光景だった。
夕闇迫るころ我々は湖のそばにテントを張り、大好きな焚き火を起こして夕飯の支度
を始めた。その日のメニューは驚いたことにラダが持参した、ヨーロッパ向けに販売
していると思われる日清のラーメンが登場した。シベリアで、しかも俗界から遠く離
れたこの地で誰がこれを予測できただろうか(そんな大げさなとも言われそうだが、
この時は本当にびっくりした。ラダはそれが日本のものだと知らなかったのだから尚
更だ。)?そんなわけでロケーションとしては世界一場違いな所で、懐かしい味に舌
鼓を打った。
夜は皆でウオッカを飲みながら歌を歌ったり話をしたりという、シベリアではおきま
りの楽しい一時を過ごした。私は今日一日に何度も起こった、奇跡のような出来事に
興奮してウオッカを何度もあおった。そのため、疲れも手伝って寝袋に倒れ込んだ瞬
間に不覚にも吐いてしまったのである。それに気がつくのは次の朝になるのだが、そ
の夜の私はあまりにも幸福だった。


次の朝皆より早く起きて、大きな湖の端っこで洗濯をした。洗濯が終わると洗い物を
砂の上に広げ、膝を抱えながら波を見ていた。少し寒かったので時々思い出したよう
にからだが震えた。曇り空から、ときおり生温い光が射してくる。二日酔いで気持ち
が悪かった。しばらくすると、小学校低学年くらいの男の子が一人で馬にのって、牛
の大群を引き連れてやってきた。私達はお互い何の挨拶もなかった。牛はめいめい勝
手に水を飲んで、そしてまた帰って行った。ただそれだけ。辺りはまたもとの静寂に
戻った。
皆が起き出してきた。彼らが手漕ぎの小さなゴムボートを持ってきていたので、湖の
真ん中まで出てみた。水深は浅かった。湖の真ん中でボートを止めて空を眺めている
と、また新しい発見をした。頭が物を考えていないのである。我々は普段どれだけ知
らないうちに考えさせられていることか。外界に何のストレスもない所で、体ごと預
けたときに初めて気がつく感覚だろう。初めての経験だった。かなり長い間寝転がっ
ていても時間を感じないのである。それでいて意識ははっきりしているのだ。

モンゴル国境まであと300mと聞いた瞬間、どうしても行きたくなるのが人情と言
うものだ。しかもこの時まで外国と言えばシベリアにしか行ったことがなかったため
、なんとしても別の国へ行ってみたかった。それがあと300mしか離れていないの
である。
我々は砂漠の中を迷いながら車を走らせた。途中とうとう道に迷った我々は、偶然通
りかかったロシアの国境警備兵に先導されてようやく国境線までたどり着いた。しか
しながら日本人が国境線を越えて違法侵入しようとしているのに、国境警備兵がその
先導を勤めるとはどういう事だろうか?だんだん何でも有りの世界になってきた(と
思っていたのだが、この場所もじつは安全では無くなっている。次の年にはモンゴル
国境線がにわかに緊張したため逮捕者が出たりしたのである。私はラッキーだったの
だ。)。国境線は数mの間隔を開けて二列に並んだ、有刺鉄線で区切られていてた。
その一部分が壊れていたのである。私はよもや地雷がしかけられているのではないか
と恐れていたが、ラダに笑われてしまった。もともと遊牧民はこの柵を越えて互いの
国に行き来していると言うことだった。そうとなれば一目散に駆けて行って記念すべ
きモンゴルへと第一歩を記した。15分間のモンゴル旅行であった。我々の姿を写真
にとった後でラダが、「これであなたはモンゴルにも行ったと友達に吹聴できる」と
まぜ返した。
この後我々はこの辺りに住むラダのおじさんのユルタ(トウヴァ語でオグ)を探
しに向かった。なにしろ遊牧の人達は、春夏秋冬と家ごと移動するため探すのも難儀
だ。郵便もこんな風にして配られているのであろう。我々はまずこの辺にいつもユル
タがあるはずだと検討をつけた場所に向かう。そして首尾良く近くにユルタを見つけ
ると、今度はそこの人に目的の人を尋ねる。するとその人は、「ああ、それじゃった
らこの間まであそこの山の影に住んどった。」といって教えてくれる(んだと感じら
れた。言葉は定かではないが身振りからそう思われた。)。そうやってどんどん行く
と、ようやくおじさんのユルタがみつかった。
ここで私は生まれて初めて馬にのった。一番おとなしい馬をあてがわれたが、馬にま
たがった瞬間に皆薄情にもユルタのなかに引っ込んでしまった。と、馬は勝手に歩き
だして危険だから近づいてはいけないと注意を受けた白い馬の方に向かってまっすぐ
に歩き始め、あろう事かその馬の傍らに立ち止まって草を食み始めたのである。半泣
き状態である。しかし意を決して手綱を見よう見まねでぐいと引っ張ると、馬は向き
を変えた。そこで腹を思いきり蹴ってやると、ようやく歩きだした。ものの10分も
乗っていると少しはましに動けるようになった。乗馬が面白くなりかけた。特にこん
な広い砂漠は最高である。全てが眼下に広がり、天下でも取ってやろうかという気分
になる。チンギス・ハンの心意気もわかろうと言うものだ。それにしても蝿には参る
。5mmくらいの小さな蝿が無数にまとわりつくのである。秋になると刺す蝿が出ると
いう事なので、こんなのは序の口なのかもしれなかった。
若い遊牧民がこちらを向いて「そろそろ馬を返してくれるか?」と言いたげだったの
で、降りて馬を彼らの手に預けた。奴らはさっきからこのにわか遊牧民をにやにやし
ながら見ていて、ちょっと気にいらなかった。もっと上手になりたかった。どうして
日本では乗馬は高級な趣味なのだろう?
砂の上に面白いものを見つけた。雨痕である。乾燥地では雨が少量しか降らないため
、雨の粒の跡が残る。乾いた砂の上に水を落とすとできる、ヒマワリのような丸いマ
ークである。

朝洗った洗濯物を車のボンネットの上で乾かしている間、ユルタの中で横になった。
外は倒れるような暑にもかかわらず、中はとても涼しい。時々ウンウン唸る蝿の音を
子守歌に、私はいつのまにか眠ってしまっていた。

<1992年 III>

砂漠からの帰りの車の中でもほとんど眠っていた。気がついたときは辺りは真っ暗で
、車はキジルの町の灯りを目指していた。こうしてみるとクズルもなかなかの大都市
に見えてくるから不思議だ。
次の朝、我々はまた3日前と同じ空港に、しかし全く違った心持ちでやってきた。今
やトウヴァは、我々にとって普通の町になったのである。そして再会を期した。
飛行機の窓からは美しいタイガとサヤン山脈が徐々に遠ざかり、現実の世界へ連れ戻
されて行くような気がした。
我々は懐かしいイルクーツクへと戻ってきた。

9月4日朝。寒いと思って窓から外を見ると、昨夜の小雨が雪に変っていた。気温は
-2℃。薄氷が張っていた。早くもマローズ(極寒)が気配を見せ始めたのだ。この
夜いよいよ日本へむけて帰国の途に着いた。3日かけてシベリア鉄道でハバロフスク
まで行き、その後飛行機で新潟に飛ぶのである。
バイカル湖畔の村々は、1mほどの綿帽子にすっぽりと覆われ、小さな窓からもれる
灯りがおとぎ話の世界を作っていた。また、行けども行けども続く落葉松と白樺の林
は、すっかり色づいていた。
これとは対照的に、うち捨てられた錆だらけの工場の近くで、冷たい雨に打たれなが
ら草を刈る男や、丸太小屋の外で電車が通るのをじっと見ている老婆の姿には、悲し
い気持ちを呼びさまされた。チェーホフがシベリア旅行の途中でイルクーツクを訪れ
たとき、オペラ座や大きな市庁舎を有するこの町に驚かされたという気持ちがよくわ
かる。シベリアの自然を通り抜けて来たものにはそこに町があるということが信じら
れないのだ。まだ見たことは無いが、モハーベ砂漠のなかにラスベガスを見るような
感覚だったのであろう。

列車は2年ぶりで訪れるハバロフスクに到着した。ハバロフスク空港では、滞在期限
を10日も過ぎていたことに対し咎められたが、簡単な警告だけで済んでしまった。
そして私は再び日本へ。そこはまだ夏であった。

Return