様似・戦争の記録第2集−5
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五、直撃弾が右目に
事件負傷者・小田覚蔵
氏は、海に生き、海に死
んだ。まさに「海の男」
の生涯だった。
小田氏は明治三十五年
(一九○二)、岩手県九
戸郡宇部村(現岩手県久
慈市宇部町)の小袖海岸
の漁村に生まれた。
小袖海岸は陸中海岸国
立公園の北部に位置し、
海女(あま)によるアワ
ビ、ウニなどの採集漁業
が行われており、「日本
北限の海女」として知ら
れている。
すぐ南が野田村だ。会
所町には野田村など「南
部衆」が多い。小田氏も
その「南部衆」のひとり
だ。
様似に来た小田氏は、
会所町で、「覚栄丸」の
船主として漁業を営んで
いた。
前述したように、事件
に遭遇した多宝丸は中村
謙次郎氏の所有船だが、
小田覚蔵氏ら四隻の共同
船として出漁した。
事件の時、つまり昭和
十九年六月十一日午前三
時三十分頃、アメリカ潜
水艦から攻撃を受けた際
、小田氏は他の船員とと
もに、甲板で網を巻き上
げていた。
緊急事態に船頭の川上
留吉氏はブリッジから、
いきなり「チン、チン、
チン」と、三回の鈴(り
ん)を鳴らした。「ホス
ペ(全速)」の合図だ。
ちなみに、「前進」は
「チン」一回。「ゴスタ
ン(後退)」は「チン、
チン」と二回。「ストッ
プ(停止)」は「チン」
一回。
普通、停止している船
が全速する場合、「チン
(前進)」の合図のあと
に「チン、チン、チン」
の合図がある。いきなり
「チン、チン、チン」は
ない。停止している自動
車のギアを「トップ」に
入れてもダメなのと同じ
理屈だ。
多宝丸は、停止して網
を巻き上げていたが、川
上船頭は危険を感じて、
いきなり全員に、「ホス
ペ」の合図をした。
小田氏も急変に際し、
ナタで網を切り落とす。
その時、目をやられた。
船員室の入口で目の玉
が飛び出ていた小田氏と
出会った西村氏は驚く。
西村氏は「どちらの目だ
ったか」定かには覚えて
いなかった。
戦後の小田覚蔵氏の写
真がある。小田氏が直撃
を受けたのは、右目だ。
右目を打ち抜かれた小
田覚蔵氏は、西村利春氏
とともに、長内外科医院
に運ばれた。
知らせを聞き、様似か
ら奥さんのフサさん(明
治四十三年生まれ、当時
三十四才)は、娘さんの
コトエさん(昭和四年生
まれ、当時十四才)、息
子さんの勇雄(いさお)
さん(昭和六年生まれ、
当時十二才)を連れて釧
路にいった。
フサさんは、昭和六十
年に亡くなっており、当
時のことは聞くことがで
きない。
コトエさんは、様似町
栄町に健在だが、釧路で
のことはあまり覚えてい
ない。「川上さん一家と
一緒に、汽車に乗って行
ったことは記憶にありま
す」といわれる。ただ、
母親のフサさんから「体
に弾が入っていた」と聞
かされている。
コトエさんは、父・小
覚蔵氏について、「無口
で、酒も飲まないやさし
い父でした」という。
勇雄さんも登別市に健
在だ。勇雄さんは、「父
の眼の玉に弾丸が止まっ
ていた」と聞かされてい
る」。そして「おとなし
い父でした」と語った。
その小田覚蔵氏は、昭
和三十一年十二月十日、
ハタハタ漁で海難事故死
している。
ハタハタは、深海魚だ
が、十一月から十二月に
かけて産卵のため沿岸に
群遊する。ハタハタ漁は
その時期に行われる。
かっては、大群が押し
寄せ、海草のついたハタ
ハタの卵・「ブリコ」が
浜に上がったものだ。
現在は、ハタハタも少
なくなった。秋田音頭で
「秋田名物、八森、ハタ
ハタ、男鹿(おが)で、
男鹿ブリコ」と唄われる
秋田にハタハタ漁も三年
間禁漁だった。一九九五
年秋、解禁されたがキロ
四千円で、タイ、ヒラメ
並みの高値で「県民魚・
ハタハタ」も県民の口に
は、ほど遠かったと報じ
られた。
様似町でも昨年の漁獲
高は百トンを切り、七三
・四トンだった。
小田覚蔵氏が死亡した
十二月十日といえば、ハ
タハタ漁の切り上げ時期
だ。ハタハタ漁は前日の
夕方に網を刺して、翌日
の朝、揚げに行く。
この日の朝、小田氏は
「長屋」の突端に住んで
いた北田六太郎氏(明治
四十三年生まれ、当時三
十四才)の持ち船「北斗
丸」で、六太郎氏と、六
太郎氏の兄・継太郎氏の
三人で、ハタハタ網を揚
げに出た。
北田氏も岩手県野田村
出身の「南部衆」だ。継
太郎氏は建網の出稼ぎに
来ていて、建網が終わり
弟・六太郎氏の手伝いを
して船に乗った。
浦河測候所の記録によ
ると、この日午前九時の
風速は七mだが、十二時
三十五分に西北西の風、
最大瞬間風速三三mを記
録している。
気温も下がり、吹雪に
なった。低気圧が急速に
発達し通過したのだ。
猛吹雪と強風、いわゆ
る「かわせ」に、三人の
乗った「北斗丸」は翻弄
され転覆した。六太郎氏
と継太郎氏は、十日に小
田氏は十一日に、平宇の
海岸に打ち揚げられた。
「父は胴体だけでした
」とコトエさんはいう。
小田覚蔵氏は、五十三
才で海の男の生涯を閉じ
た。
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