タイトル
** 平成18年 8月 14日更新 **

タニシの『奮島記』・佐渡島 アーカイブス編
以下の「奮島記」の文は、平成6(1994)年6月に東京高輪ライオンズクラブ会報に掲載されたものです。
また本文に添えた写真は、同期の山田ワライカワセミ氏が昔の写真をDigital化してくれたものです。昭和42(1967)年秋、山田、井上H、タニシの3人で佐渡トキ保護センターに、後にセンター長となる近辻氏を訪ねた時のものです。当時のトキの貴重な写真もあり、このまましまっておくのはもったいないと考え、ほこりを払って掘り出した「奮島記」とともにお届けします。

佐渡に賭けた青春 石川タニシ  1994年6月
環境庁が3億円の巨費を投じて造った新しいトキ保護センターが、昨年10月に完成した。早速見学に行った私は、久しぶりに旧知の保護センター所長に会い、夜を徹して酒を酌み交わすこととなった。飲むほどに酔うほどに思い出はつきず、話は四半世紀の昔に遡って行く。
二人はともに自然を愛し、山を歩き、バードウォッチングを楽しむ良き仲間であった。その日も野鳥を見ての帰り、新宿の一杯飲み屋で酒を飲んでいた。
 「佐渡へ行くのか?」
「うん」
「島流しの島へ、好き好んで自分から行くことはないじゃないか」
「トキを何とかしてやりたい」
彼の言葉にほとばしる情熱を感じる。
フク
朱鷺・フク(ph:山田)
トキは学名をニッポニア・ニッポンという。日本を代表する鳥と言っても過言でない。しかしこの時十羽余りが佐渡に細々と生息するに過ぎない状態であった。このトキを絶滅から救うために、保護センターを造り、トキの飼育と人工増殖を試みる予定で、彼は単身佐渡に渡ろうと決心している。
飲むほどに話は弾み、酒のピッチはどんどん上がる。しばらくして、二人とも財布の中身が殆んど空っぽであることに気づいた。
ヒロ
朱鷺・ヒロ?(ph:山田)
「しまった」 「どうしよう」 「この先に質屋があったな」
私は買ったばかりの双眼鏡を持って、生まれて初めて質屋の門をくぐった。ニコンの双眼鏡と身分証明書を確認して、質屋のオヤジは苦笑しながら何がしかの金を貸してくれた。
 しばらくして彼は、大いなる夢と情熱を抱いて佐渡に旅立っていった。昭和42年の春であった。
ori
朱鷺の檻(ph:山田)
 私が初めて佐渡を訪れたのは、これよりさらに数年前のことになる。滅びゆくトキの姿をこの目でひと目見たいがためであった。山を越えた田んぼのほとりのワラ小屋にもぐりこんで、夜明けを待った。翌日、目の前の田んぼに4羽のときが飛来した。この時目にした朝日にきらめく朱鷺色の翼は決して忘れることができない。
×   ×   ×
 彼が佐渡に渡って、早くも半年が過ぎようとしている。一人山の中で、トキを相手にさぞかし寂しい毎日を送っていることであろう。「もう東京に帰りたいよう!」などという愚痴でも聞いてやろうかと思い立った私は、仲間と語らって一升瓶をぶら下げ、トキ保護センターを訪ねた。泣き言を言うかと思っていた彼が、「ボクの彼女を紹介します」と言った時には正直いって驚いた。私の方は彼女の“カ”の字もなく、一人で野山を彷徨っていた時なのである。
3人
(左より)山田、石川、井上
 彼女は佐渡の女性(ひと)であった。彼は佐渡に骨を埋めるつもりだな。これは本物だ、とこの時思った。
×   ×   × 
 彼は新婚旅行の地に北海道を選んだ。旅行の途中で、保護センターで飼育中のトキが具合が悪くなり、餌を食べないという知らせを聞いた。彼は急遽新婚旅行を打ち切って佐渡に帰った。
近辻2
近辻さんツーショット(ph:山田)
 青春の全てをつぎ込んだ彼の努力にもかかわらず、トキは減少の一途を辿っていった。中国からトキを招いて見合いをさせたがうまくいかなかった。日本のトキを中国に連れて行ったが、やはりだめであった。
 日本の空に朱鷺色の翼がはばたく日はもう来ないのだろうか。現在、新装なった保護センターにはたった2羽だけになってしまった日本のトキが飼育されている。皆さんが佐渡を訪れることがあったら、ぜひ会ってやって頂きたい。
  《東京高輪ライオンズクラブ会報 平成6(1994)年6月22日号》

 その後も彼をはじめとする保護センタースタッフの弛まぬ努力が続けられました。NHK「プロジェクトX」でも紹介されたのをご存知のことと思います。
たくさんの関係者の努力と協力が実を結び、今では保護センター生まれのトキは95羽、中国生まれ3羽と合わせ、合計98羽のトキが保護センターで飼育されています(06.08.07.現在)。
 そんなに遠くない将来、これらのトキが佐渡の空にはばたく日が来ることを願ってやみません。
[日本産最後のトキについて近辻氏のコメントです]
昭和42(1967)年夏、旧真野町西三川地区に幼鳥1羽が迷い出ました。宇治金太郎さんに餌付けされ、翌年3月に宇治さんの手により保護され、旧トキ保護センターのケージ(現在取り壊しありません)に収容され、宇治さんの名前の一字にちなみ『キン』と名付けられました。その後、36年も生き続け、日本産最後のトキとなりました。(キンは2003年10月10日 36歳で死亡)
清水平
旧保護センター:新穂村山中の清水平にあり、当時はキンとミドリだけが飼育されていた。右端が近辻氏。(1990.3.)
[写真は左右とも高野撮影]
保護center
設立時の現保護センター。手前左の白い鳥影はクロトキやホオアカトキ。右奥のケージにミドリが、更に右側奥のケージにキンが飼育されていた。(1993.11.)

[写真の無断使用はご遠慮下さい]

「日本最後のトキ」の頁へ。1967年9月に近辻、高田、高野の3名で
まだ野生だったキンを観察した時のものです。
塚本洋三さんの、バードフォト・アーカイブス「今月の一枚」の頁の下のほうにも、
(2006.4.19記)に、キンの白黒写真を載せていただいています。

佐渡の朱鷺保護センターのHomePageへ。

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