●間宮林蔵が用いた測量器具


 間宮林蔵が用いた測量器具には、どのようなものがあったのでしょうか。林蔵が1808年(文化5年)からよく1809年(文化6年)に行った2回の樺太踏査(探検)の際用いた測量器具についての詳しい記録は、残念ながら残っていません。しかし、その後の蝦夷地(北海道)測量の際使用した測量器具は、師である伊能忠敬より譲り受けたものであったようです。
 林蔵が伊能忠敬に本格的に測量を学ぶことになるのは、伊能忠敬が第一次九州測量から江戸に戻った文化8年(1811年)5月8日から同年11月25日、第二次九州測量に出発するまでの期間です。寛政12年(1800年)、林蔵がはじめて蝦夷地で伊能忠敬と会ってから11年後のことです。この短い間に林蔵は、伊能忠敬を度々訪問、天体観測による緯度、経度の測定法を中心とする測量の最新技法を学びます。
 伊能忠敬は、測量技法を林蔵に教えるとともに、彼が使用した最新の測量器具を林蔵に譲り与えます。伊能忠敬が使用した測量器具は、最新の加工技術を駆使した大変高価なものであったようです。忠敬は林蔵にそれらの高価な測量器具をわずかの金額で譲っているようです。
 それでは当時測量に用いられた器具類には、どのようなものがあったのでしょうか。その一部をご紹介します。写真は、伊能忠敬記念館が所蔵している測量器具類です。伊能忠敬が全国測量で用いたもので、伊能忠敬記念館の協力により掲載しています。

距離の測定

間縄・間竿・鎖縄
 距離を測定するために、主に用いられた道具は間縄・間竿です。間縄は、現在の巻尺に相当するものです。間縄は、1間ごとに目盛を付けた全長60間の縄です。間縄はその使い勝手のよさを考え、軽くて丈夫な麻縄が用いられたようです。間縄は伸び縮みがあり、距離を測定する際には間縄の伸縮を常に考慮に入れなければ正確な距離は測れませんでした。
 伸縮による誤差を少なくするためにいろいろと工夫が行われ、鎖縄も使われるようになったようです。しかし、この鎖縄にも欠点が無かったわけではありません。重いため、かなりな力で両端を引っ張らねばならず、繋ぎの部分を変形させることとなり、誤差を生じさせてしまいます。
 間竿は、長さ1間ないし2間の木の竿に半間の目盛を振った木製や竹製の竿です。比較的短い距離を測るときに用いられたようです。

量程車
量程車
伊能忠敬記念館所蔵
量程車
 量程車は、高さ約17cm、幅約23cm、奥行約34cmの車輪の付いた箱です。この箱を引いて歩くことにより、車輪が回転、この回転数が距離となって表示されるようになっているものです。伊能忠敬が苦心して改良、簡単に正確な距離を表示できるようにしました。しかし、実際の測量では使用されませんでした。その理由は単純です。量程車を引いて歩く道が平らでなく凹凸が激しいため、正確な距離を測ることが出来なかったからです。

角度の測定

杖先羅針盤(椀化羅針)
大変うまく考えられた羅針盤です。
支柱の傾きに関係なく、磁石が水平になるようになっています。
加工精度も素晴らしいものがあります。
伊能忠敬記念館所蔵
杖先方位盤 杖先方位盤拡大図
杖先羅針盤(椀化羅針):方位角の測定
 方位(水平角)の観測には、杖先羅針盤が用いられました。この磁石は、大変うまく作られた磁石で、小型で性能が能く、取り扱いが簡単でした。この杖先羅針盤は伊能忠敬が改良を行い、苦心の末考え出したものです。この写真を見てわかるとおり、江戸時代後半の日本における真鍮などの金属製品加工技術の高さです。方位目盛は、1度刻みで正確に360度刻まれています。

象限儀:勾配・南中高度の測定
 この測量器具は、緯度を算出するために星の南中高度を測定するため、坂の勾配なを測定するために用いられました。4/1の円弧を用いた扇形の目盛環に、視準器または望遠鏡を取り付けたものです。

象限儀
伊能忠敬記念館所蔵
象限儀

 林蔵は、伊能忠敬から測量技法を学ぶと、再び蝦夷地に向けて旅立ちます。師伊能忠敬の九州測量出発を見送った1ヶ月後です。伊能忠敬は林蔵と別れる際、「贈間宮倫宗序」を林蔵に贈っています。この文章からは、伊能忠敬と林蔵の間に師弟を越えた深い繋がりを感じ取ることが出来ます。
 林蔵は、伊能忠敬から譲り受けた測量器具を用いて、蝦夷地(北海道)を測量します。伊能忠敬が測量することの出来なかった部分を林蔵が測量することとなるのです。伊能忠敬は北海道の南海岸しか測量できなかったため、残りの根室〜知床〜稚内〜松前にかけての海岸を林蔵が測量します。この測量結果を基に、伊能忠敬の大日本沿海輿地全図蝦夷地(北海道)部分が出来上がるのです。
 林蔵が蝦夷地に下ると、国後島で捕らえられたロシアの海軍士官ゴローニン(Vasilij Mikhajlovich Golovnin 1776−1831)が松前の獄舎に捕らえられていました。さっそく林蔵は、ヨーロッパの最新の測量技法を学ぼうと、獄舎の中のゴローニンを訪ねています。1812年(文化9年)2月のことです。林蔵は、緯度、経度の観測方法のより正確な求め方を、ゴローニンから学ぼうとしたようです。この話しはゴローニンの手記の中で次のように語られています。

(前略)
間宮林蔵なる地理學者來る
 兎角するうちにも或る日、新しい一人物が我々の所へ現はれた。之は日本の首都から派遣された間宮林藏といふ人物であつて、測地家で天文學者であつた。(中略)
 が間もなく我々は気付いたのであるが、之等の土産物は何れも、言はゞ我々を籠絡して日本の測地家に我々の海岸測量の方法と、天體観測の方法とを教ゆる事を拒絶しないやうにさせる爲たつたのである。此の目的の爲に彼は時を失せず、その所持する器具を我々の許へ持つて來て見ぜたが、それは英國製の銅の六分儀羅羅盤、羅針盤のついた天象儀、製圓道具.水準器用の水銀等々であつた。彼は之等の品が歐羅巴ではどんな風に用ひられてゐるかを教へて呉れるやうに乞ふた。彼は毎日のやうに我々の許へやつて來、殆んど朝から晩まで我々につきつきりで、自分の旅行について話したり、彼が測量した土地の図面を見せたりしたが、その図面は我々にとっても大いに興味があつた,日本人の間でも彼は大旅行家と考へられてゐた。彼等も亦、彼の話に極めて注意深く聴入り、彼がどうしてそんなに遠くまで行き得たかを怪しむものゝやうであつた。彼の足跡は第十七島に至るまでの全千島諸島、樺太等は言ふも更なり、満洲及ぴ黒龍江にまでも及んでゐたからである。彼は話の好きな男で、絶えす自分の爲し遂げた仕事のことや、自分が耐え忍んだ困苦について語り、話を効果あらしむる爲に、彼が煮炊きに用ひた旅行用の鍋を持ち込んでは、毎日のやうに我々の火鉢で何かを煮て自分でも食ぺ、我々にも饗應して呉れたのであつた、。彼は又米から酒を造る爲の小蒸餾器を持つてゐたが、それは絶えず彼の火鉢にかけられてゐた。その酒を彼ば自分でも飲み、我々にも振舞つたが、水兵達にはそれが大変氣に入つたらしかつた。彼は六分儀を用ひて自然水平線及ぴ人工水平線によつて太陽の高さを測り、正午に於ける太陽の高さからその地點の緯度を測る術を心得てをり、この測定の爲に赤緯表とそれに關する修正表とを使用してゐたが、それは彼の言によると、和蘭の書物を日本語に翻譯したものだとの事であつた。私は自分の表を持つてゐなかつたので、果して彼の表が正しいかどうか調ぺることが出來なかつた。然し之等の表は奮い和蘭の書物から採りいれられたものゝようである。(中略)
間宮林藏は太陽の高度からその地點の緯度を測ることを知つてをり、同時に又太陽と月又は星の距離を測ることによつて、その地點の経度を定めることが出來るといふことを聞いてゐたと見えて、如何にずればいゝのか教へて呉れるやうにと我汝に頼んた。然しどうしたら彼に教へる事が出來るであらうか?我々はこの爲に必要な何等の表も、天文學上の暦も持つて來てはゐず、然も我々が最も大切なことがらを必要に迫られて説明したとしても、通譯達はそれらに就いて僅かの概念しか有してゐなかったからである。我々が彼の依頼を拒絶したことは、この日本人に大きな不満の念與へたものゝやうであつた。彼は、首都から間もなく和蘭語の通譯と日本の學者とが此の地にやつて來て、科學上の二三の點を我々に訊き糺すであらうが、その時こそは好むと好まざるとに拘らす、その質問に答へなければならないであらうと言つて我々を威しさへした。(後略)
「幕末日本見分録」 ゴロウニン著 大塚博人訳 1943年(昭和18年) 大觀堂出版株式会社
漢字の一部をJISコードにある漢字に変更しています。
 ゴローニンの文面からは、林蔵のヨーロッパの最新測量技術を習得しようとする執念ともいえる、並々ならぬ努力がうかがえます。


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