竹島事件

 間宮林蔵は晩年、隠密として日本各地に出向き国防に関連する調査活動を行います。その旅は、松前、津軽、南は長崎、薩摩と日本全国に及びます。異国船騒ぎがあると幕府は、林蔵に調査を命じたようです。異国船の出没によって林蔵が調査を命じられた事件には、天保2年の常陸(茨城県)那珂湊にイギリス船が現れた事件、天保5年に函館から津軽にイギリス船が現れた事件などがあります。この隠密としての活動は、資料も少ないためどこで、どのような調査に林蔵が関係したのかはっきりしないところが多いようです。これらの異国船に絡んだ事件についてもこれからわかる限りお知らせしたいと思います。
 間宮林蔵の国防に関する隠密の仕事の中で、密貿易に絡んだ事件もあります。竹島事件とは、林蔵が石見の国(現在の島根県)浜田の密貿易事件を探索、その発端をつかみ事件摘発となったものです。この密貿易事件とはどんなものだったのでしょうか。間宮林蔵(洞富雄著、吉川弘文館昭和35年)によれば次のような事件だそうです。
首謀者今津屋(いまずや(会津屋))八右衛門は、浜田松原の船乗りで、はじめは朝鮮側の空島政策で無人島になっていた竹島へ渡って、竹木を伐採し、海産物を持ちかえっていたが、やがて日本刀を持ち渡り、中国人や朝鮮人と交易をはじめるようになった。さらに南洋方面にまで進出して密貿易をおこなったともいわれる。八右衛門の竹島密航には、浜田藩の家老岡田頼母(たのも)や年寄松井図書(ずしょ)などが関係し、藩主松平周防守康任(やすとう)もこれを黙許していた模様である。八右衛門の密航は天保の初年からおこなわれていたが、同7年にいたりついに事件が露見して、その6月、連累者の一斉検挙となった。この事件について、『浜田町史』は次のように言っている。
秘密が保たれたこと6年ばかり、天保7年になって、たうとう露見した。どうしてばれたかと云ふに、当時薩摩が密貿易をやるといふ風聞があるので、其の真偽を密偵するため、異国の産物に就いて知見の広い間宮林蔵を遣はされた。どうした都合か道を山陰道にとって浜田の東一里半の下府(しもこふ)に来た時、休んだ家で偶然支那と印度との間の辺に産する木を見て、「どこで求めたらそんな木があるか」と尋ねたのに、「松原の船乗から買うたが、今頃はあるまい。船が帰ると時々ある」と答へた。「時々ある?怪しいぞ」と頭をちょっと傾けて見たものの、自分の頼まれた以外の事だから深くも窮めず、松原に少し当っては見たが、地元は用心も深く、厳しい口止めもあると見えて、一品も見当らず、それらしい事も耳に入らぬ。其の儘九州に渡って、帰りに大阪町奉行矢部駿河守定謙(さだかた)に告げ、浜田地方に気をつけさせた。矢部駿河守は、隠密(密偵)を浜田に遣って探らせて、確なる証拠を握り、吏を遣って、八右衛門と三兵衛とを捕縛し、大阪に連れ帰らした。
 これには、林蔵が薩摩の密偵に赴く途中、たまたま浜田城下を通った際に密貿易事件をかぎつけ、薩摩からの帰途、大阪に立寄って、大阪町奉行矢部駿河守にそのことを告げたのが、事件発覚の端緒であるといわれているだけであるが、小宮南梁は、この件について、
天保中、石州浜田の廻船問屋八右衛門といふもの、漁猟に事寄せ、松原浦の沖なる竹島に押渡り、外国人と密商せしこと、粗(あらあら)その風聞ありといへども、未だ其証跡を得ず。因て林蔵を遣て、これを探らしめしに、林蔵垢面へい衣し乞食の姿となりて、浜田に入込、やがて其確証を得て帰り報ぜしかば、幕府因て手を下し、云々。
 竹島事件は、林蔵がたまたま事件発覚の糸口をつかんだだけであり、林蔵が抜荷、密貿易を専門に全国を調査していたとは思えません。しかし、隠密という言葉からは、あたかも林蔵の仕事が密貿易調査のようなものであったかのように連想させられます。実際の林蔵の仕事ぶりがどのようなものであったのか、これからの研究によって解明されてゆくことを期待したいと思います。


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