林蔵のロシア人に対する考え方

はじめに

 間宮林蔵は、1808年から1809年にかけ2度の樺太踏査を行っています。この踏査で林蔵は、樺太の離島と間宮海峡の存在を確認しました。と同時に清国の仮役所デレンを訪れ、当時の清、ロシア及び日本の勢力範囲を確認しました。この点は前に説明した通りです。
 さて林蔵は、この樺太踏査に決死の覚悟で出発します。郷里(茨城県伊奈町)に墓まで建て、再び故郷に生きて戻ることは出来ないとまで考えていました。そこまでして林蔵を樺太踏査に駆り立てたものは、いったい何だったのでしょうか。幕命を受けたから、役人として樺太踏査に出向くのは当然とも言えますが、はたしてそれだけでしょうか。林蔵が行った樺太踏査は、命令とは言いながらあまりに危険な仕事でした。

シャナ事件

 林蔵をこの危険な仕事に駆り立てた、その心の支えは何だったのでしょうか。それは、1年前、1807年の択捉島シャナで起きたロシア人の急襲に端を発しているのではないでしょうか。林蔵は1806年より択捉島で仕事をしています。この時ロシア人フォストフの一隊が樺太から択捉を襲います。林蔵は択捉島シャナでこのフォストフ一隊に襲われるのです。林蔵はこの時徹底抗戦を主張しますが、残念ながら敗退することとなります。この敗退の屈辱は、林蔵に大きな心の傷を負わせたようです。この時の林蔵の心境を津軽藩士山崎半蔵は、日記に記しています。彼によれば林蔵は、「エトロフでの戦いで死ななかった事を悔やみ夜も眠れない日々を送っていたが、樺太調査を命じられ死に場所を得たようである」と考えていたようです。

樺太踏査

 ロシア人に襲われたことが、林蔵のその後の人生に大きく影響していきます。ロシア人の急襲は、林蔵を樺太踏査、日本、ロシア、清の勢力範囲の確認へと駆り立てます。日本の国を守るためには、何としても樺太一帯の詳しい調査が必要であると林蔵は考えます。林蔵は、自ら樺太踏査を願い出るのです。
 さて、樺太踏査においても林蔵は、現地の人々が持つロシア人への恐怖感を知ります。樺太にロシア人が船で来て、彼らに交易を要求し乱暴を働いて帰ったというのです。
「…往昔(年代不レ知)此島いまだ満州に入貢せざりし時、何国の夷船(蓋し魯斉亜の船なるべし。然れども大船にあらずと伝)にてやありけむ、年々此島に来りて諸獣皮を交易せし事ありしに、其夷殊に暴虐にして、時々島夷と闘諍する事少からず。故に島夷常に是を恐る。…」(北夷分界餘話 附録より)
 「国防」というテーマが林蔵の一生で最大のテーマとなります。林蔵は、その生涯を国を守る仕事に奉げ、一生を終えます。林蔵の測量、地図作りは、ここで日本の周囲を正確に地図にあらわしておかなければ外国人(ヨーロッパ人)に対抗できないという危機感がその根底にあります。林蔵が外国人、特にヨーロッパ人と接するときは、必ずといっていいでしょう。ヨーロッパ人は、シャナで林蔵を襲ったロシア人と結び付き、林蔵の行動を慎重にさせます。

シーボルトをどう思ったか

 このような一連の流れの中でシーボルト事件を眺めると、林蔵がどのような気持ちでシーボルトに接したかが想像できます。林蔵は、シーボルトが江戸に来たとき最上徳内に紹介されて会っています。この時シーボルトは、林蔵に樺太踏査時の成果について情報提供を依頼しました。その後手紙によってもシーボルトは、林蔵に情報提供を依頼して来るのです。このようなシーボルトの行動に対し林蔵は、懐疑の念を抱きます。その結果、シーボルトからの小包を奉行所に届け出る事になるのです。

開国と国防

 時代が大きく開国へと向かいはじめた中で林蔵は、ひたすら国防についての仕事を行い続けます。それはなぜでしょうか。林蔵は、開国=外国人の来訪となればなおさら、国防が重要な課題となる事を知っていたからではないでしょうか。身を持って国防の重要性を認識していた。開国するということは、単に貿易をするということだけではなく、貿易相手国に対し自国の領土を主張し守るというもう一つの意味があったのです。この事を林蔵は人一倍よく知っていたのでした。


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