間宮林蔵の生涯を簡単にご紹介します。林蔵の一生には、まだまだわからないところがあります。これからの研究成果で新しい発見がありましたら、皆さんにご紹介したいと思います。
今まで年表の文字がずれてしまい、大変見にくかったことと思います。申し訳ございませんでした。等幅フォントに変更しました。年表作成当初は、フォントの種類も少なかったものですからそのままになっておりました。ご意見を頂きました皆様には改めて感謝申し上げます。
西暦 | 和暦 |年 齢| 主 な 出 来 事 | 関 連 す る 出 来 事
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1780|安永 9| 1歳|常陸国筑波郡上平柳村(現在の伊奈町上平柳)の農|林蔵の祖先は、戦国時代小田原の北条氏の
| | |家に生まれる |家来である間宮豊前守康俊の子隼人が秀吉
| | | |の小田原攻めの際敗れ、この地に落ちのび
| | | |たと伝えられる。
1787|天明 7| 8歳|このころ寺子屋通いをはじめる |1786年 最上徳内エトロフ ウルップ
| | | |に渡る。
1792|寛政 4|13歳|筑波山に登り立身出世を祈願する |1787年 フランス人ラベルーズ、カラ
| | | |フトの西海岸を探航するが海峡の存在を発
| | | |見できず。
1793|寛政 5|14歳|中平柳村の海老原庄右衛門から算術を習う |
1795|寛政 7|16歳|岡堰で工事出張中の幕府普請役下条吉之助に、その|1797年 イギリス人ブロートン、カラ
| | |才能を認められ江戸へ出る 出府にあたり隣村狸淵|フト西海岸を北上し、北緯50度45分ま
| | |の名主飯沼甚兵衛の養子となる |で達するが、海峡の存在を確認できず。
| | |村上島之允に師事する |1798年 近藤重蔵、最上徳内、木村謙
| | | |次らエトロフに渡り「大日本恵登呂府」の
| | | |標柱を建てる。
1799|寛政11|20歳|村上島之允の従者として初めて蝦夷地に渡る |
1800|寛政12|21歳|函館において伊能忠敬と師弟の約を結ぶ |
| | |普請役雇となる |
1802|享和 2|23歳|10月、病気によりいったん職を辞す |1802年 2月幕府蝦夷地奉行を
| | | |設ける。5月函館奉行と改称。
1803|享和 3|24歳|4月病癒えて復職 以後、東蝦夷地、南千島の測量|1804年 ロシア使節レザノフ長崎に来
| | |に従事する |航し、通商を求む。
1805|文化 2|26歳|天文地理御用掛として蝦夷地日高のシツナイに勤務|
| | |する |1805年 レザノフ通商を拒まれカムチ
| | | |ャツカに帰る途中カラフト東岸南部
| | | |を測量。
1806|文化 3|27歳|エトロフ島に渡り、沿岸実測、新道開発に当る |
1807|文化 4|28歳|ロシア軍艦エトロフ島シャナの会所を襲う(シャナ|1807年 全蝦夷地を幕府直轄地と
| | |事件) 居合わせた林蔵は、徹底交戦を主張するが|する。
| | |会所を放棄して退去する このため江戸に召喚され|
| | |るがお咎めなし |
1808|文化 5|29歳|第1回カラフト探検を命ぜられる 松田伝十郎と共|
| | |にラッカ岬までいき閏6月宗谷に帰る |
| | |再度の探検を願い出、7月第2回目の探検に出発 |
| | |する(越年) |
1809|文化 6|30歳|海峡最狭部を突破してナニヲーに至る(間宮海峡の|
| | |発見)、土地の酋長と共に大陸に渡り、満州仮府デ|
| | |レンで清国役人と会見する 9月宗谷に帰着する |
1810|文化 7|31歳|村上貞助に口述して「東韃地方紀行」「北夷分界餘|
| | |話」を著し、北蝦夷島地図を作成する |
1811|文化 8|32歳|1月江戸に帰る 2月祖母を弔う 3月「東韃地方|1811年 クナシリでロシア海軍少佐ゴ
| | |紀行」等報告書を幕府に提出 退職を願い出たが一|ローニン捕らえられる。
| | |生無役となる 4月松前奉行支配調役下役格に昇進|
| | |秋ごろ伊能忠敬から緯度測定法を学ぶ |
| | |12月江戸を発ち、蝦夷地に向かう |
1812|文化 9|33歳|松前の獄舎にゴローニンを訪ねる 秋いったん帰府|1813年 ゴローニンをロシアに引き渡
| | |9月再び蝦夷地に下り測量を続ける |す。
1817|文化14|38歳|江戸に帰る 4月父庄兵衛を弔う |1816年 ゴローニン「日本幽囚記」を
1818|文政 元|39歳|伊能忠敬の死に会する |著す。
1819|文政 2|40歳|蝦夷地内部の測量にかかる |
| | | |1821年 伊能忠敬の「大日本沿海輿地
1822|文政 5|43歳|蝦夷地の測量を終え江戸に帰る 普請役となる |全図」「実測録」完成。 12月幕府全蝦
| | | |夷地を松前藩に返還。
| | | |1822年 松前奉行廃止
1824|文政 7|45歳|異国船渡来の内偵のため、東北の海岸通りを巡視す|1823年 シーボルト長崎の出島にオラ
| | |る 8月母を弔う |ンダ商館医師として来航する。
| | | |1824年 常陸大津浜にイギリスの捕鯨
| | | |船員上陸し捕らえられる(大津浜事件)。
1826|文政 9|47歳|林蔵最上徳内と江戸のシーボルトを訪ねる |1825年 幕府外国船打払令発布
1827|文政10|48歳|代官柑本兵五郎に従い伊豆諸島を見分する |1826年 古賀イ同庵林蔵の口述を筆録
1828|文政11|49歳|シーボルトより小包が届くが、開かず勘定奉行に差|し「窮髪紀譚」を作る。(イ同)で1字
| | |し出す |
| | |シーボルト事件起こる |
1829|文政12|50歳|隠密として長崎に下る |
1832|天保 3|53歳|シーボルト著「日本」の第1回配本の中に「日本辺|
| | |界略図」の翻訳図を収め間宮海峡(まみやのせと)|
| | |の名をはじめて世界に紹介する |
1833|天保 4|54歳|うち続く凶作のため「田地の転作を停止するよう」|
| | |勘定奉行に建議 |
1834|天保 5|55歳|この頃より水戸家に出入りする |
1836|天保 7|57歳|隠密に出、6月石見国浜田で密貿易事件起こり摘発|
| | |の端緒をつかむ |
1838|天保 9|59歳|江戸において病の床につく |
1844|天保15|65歳|2月26日江戸の自宅で病死する |1842年 幕府海防を厳命する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
表を文字で構成しました。読みづらい点がございましたら、どうぞご意見を頂きたいと思います。
ホームへ戻る |