創世記 1章1節〜5節
検討
「元初(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり」(文)。(文)と(改)は共通する訳語を当てている。「太初」という語は会話ではあまり使わないだろう。(共)では「한
처음에 하느님께서 하늘과 땅을 지어 내시었다.」となって、(口)では「はじめに神は天と地を創造された」となり、(共)がもっとも砕いた訳語を取っている。
「하나님」「하느님」と異なっているが、韓国ではカトリックが後者を、プロテスタントが前者を「神、主(しゅ)」と言う意味で使用しています。この(共)はカトリックで使用している聖書であるので、敢てこの訳語を選んだものと思われる。
-니라改まって、もしくは古めかしく「〜である」「〜なのだ」と真実を述べるときに使う語尾。
「암혹이 깊음 위에 있고」「暗黒が深みの上にあり」、「깊음」とは何か。「黒暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり」(文)、「어둠이
깊은 물 위에 뒤덮여 있었고」と「暗闇が深い水の上に覆っていて」と解釈的に訳されています。ヘブライ語の原文でも「深淵」を意味する言葉で、「深み」にそのような意味合いを持たせようとしたのかもしれない。
「신은 수명에 운행하시니라」まず「신」は何か。(文)では「神の霊」として(共)では「하느님의
기운」と訳しています。ヘブライ語でも「神の霊」で、これをこの一文字で表現しようとしているのか。「神」を音読みすることで違ったニュアンスを出そうとしているのかもしれない。「운행하다」訳せば「運行している」となる。(共)では「휘돌고
있다」と「ぐるぐる回っている」と言った感じになっている。ところが「覆(おほひ)いたりき」(文)「おおっていた」(口)と日本語とは異なったニュアンスになっている。ヘブライ語では「飛び回る、動く」と言う意味の動詞が使われていて、朝鮮語訳のほうがその動き部分を盛り込んでいて、日本語訳は動き部分がない。
「가라사대」日本語の「曰く」にあたり、古めかしく文語的なところも近い。
「-매」文語的で、理由を表わす語尾。「〜ので」「〜ゆえ」
「-더라」過去の回想、詠嘆「〜のだ」「보시기에 좋았더라」は「善(よし)と観(み)たまへり」(文)、「見て、良しとされた。」(口)
「-사」文語的、尊敬の意を表わし「〜されて」「〜なさって」
「칭하다」「称する」と同じ造語法でできている。