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018 敬語と無感覚

 街や電車の中そしてテレビでも盛んに耳にする言葉があります。それは「いかれる」「やられる」これは「機械がいかれた(おかしくなった)」と言うときの「いかれた」や、「2人組の男にこてんぱんにやられた」と言うときの「やられた」でもない、使っている本人は敬語だと信じている言葉なのです。

 日本語の敬語には様々な形式があります。いちばん簡単なものは「れる、られる」を後ろにつけた形でしょうか。大変便利な言葉であるがために、乱用されがちといえます。

 「先輩はコーヒー飲まれますか」という言葉を聞いてギョッとしました。これが「先輩は飲まれましたか」などと言った形になってくるともう大蛇に飲み込まれた経験でもあるのかときいてるんじゃないかとさえ思ってしまいます。

 「先生も一緒に行かれますか」この言葉は発話している本人には違和感がないのでしょうか。日本語では動作の動詞の中に敬語になると全く別の形をとるものがいくつかあります。「いらっしゃる」「なさる」「召し上がる」「いただく」「ご覧になる」これらの言葉を的確に使えるかどうかが敬語の鍵になっていると言えます。さらにこの言葉は「おかしくなる」と言う意味の「いかれる」と衝突しているわけで、間違って使おうとしても、抵抗感を感じるのが自然だと思うのですがそのような感覚を他の人は持たないのでしょうか。

 「やる」というのは自ら行為を行うことを指していて、「する」よりも下品な感じがするのですが、これに「れる、られる」がついても敬意が感じられないのは私だけでしょうか。「先生のご専門は何をやられているんですか」と聞いて、違和感を感じないでしょうか。おまけにこちらも不利益や危害をこうむる「やられる」と同じ音なのでそれだけでも強い抵抗があります。

 これらの敬語は勉強するものではなく、家庭でのしつけが問題なのでしょう。すでに敬語が崩壊している若い世代に育てられた子供たちは敬語を感覚としてもてなくなるのかもしれません。

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