デビルマン鑑賞。
ちゃらっちゃちゃちゃー どん ちゃちゃちゃちゃー♪


1972年11月18日放送
#19「妖獣アダル 人形作戦」
演出・しらどたけし 脚本・辻 真先 作画監督・白土 武 美術監督・秦 秀信

建作「はーあ、家出少年の気持ち、ワカルよなア」

牧村健作こと、我らがタレちゃん最悪の日。学校で嫌なコトがあり家にも帰りづらい タレちゃんは、空き地で時間を潰しているとマネキンを不法投棄する現場に出会う。 捨てられたマネキンで遊ぶタレちゃんだが、そのマネキンが突如意思をもって 襲ってきた。気絶したタレちゃんは明とミキに起こされるが、マネキンはもはや 元の動かぬ人形に戻っていた。

その夜。寝付けないタレちゃんの耳にマネキンの足音が響いてくる。部屋に 入ってくるあやしい影。恐怖に駆られて金槌を投げつけるが、血まみれで倒れた その姿は、息絶えた姉・ミキだった。

実の姉を殺してしまった…と書き置きして家出するタレちゃん。その手紙と 部屋に倒れたマネキン人形を目にして、明はデーモン族がその後ろにいるのでは、 と街へ飛び出した。明の前へ次々と現れる意思を持ったマネキン人形たち。 雲の上から伸びる「糸」に気付いた明は、人形を蹴散らし変身、空へ飛ぶが、 既にその主は逃げた後だった。

牧村家では行方不明のタレちゃんを案じて、夜を明かしていた。悲痛な沈黙に 覆われる牧村家。一方タレちゃんは行くあてもなく、恋するミヨちゃんに お別れを言おうと彼女の家へ。驚くミヨちゃんだがただならぬ気配を感じて足止め、 牧村家に連絡をし電話に出たミキの声に安心する。

その間にマネキンの化けたニセのミヨちゃんが、タレちゃんを連れ出してしまう。 実の姉を殺したタレちゃんに残された手段は、「死」しかないと自殺を薦め 鉄道自殺をさせようとする。ところが間一髪、朝日に照らされたニセのミヨちゃんの影が 人ならぬモノだと気づくタレちゃん。

一方、タレちゃんとニセのミヨちゃんの姿を見つけた明は、虚空に伸びる 操り人形の糸に気付き上空へ。人形遣いのデーモン・アダルを発見する。 アダルの糸を使った攻撃と激闘の末、デビルマンは勝利する。それとともに ニセミヨちゃんもマネキンの姿に戻り、タレちゃんは無事家族の元へと 帰れたのだった。

それと時を同じくして、実の人間と入れ替わっていたマネキンが炎をあげて 消えていった。アダルの死とともに、他の操り人形もその暗躍を止めたのである。

時代を反映する『デビルマン』

開巻一発、裸のマネキン人形がこちらを見つめるタイトルバック。 珍しく、野田圭一ナレーションで始まる展開で、タレちゃんフィーチャー回。 原作マンガではないが、視聴者に比較的年齢が近いタレちゃんが被害に巻き込まれる コトで、「あなたも物語に立ち会うのです」といったニュアンスが強く押し出されている。 実際、魂を持たない人形が無表情に押し寄せてくるというイメージは、結構トラウマチックな ビジュアルだ。(個人的な記憶だと、当時マネキンばかりが怖くて妖獣アダルの印象が 残らなかったんだよね)

木枯らし吹きすさぶアタマのシーンに関係あるのかないのかは分からないが、 この回は、冬服バージョンの登場回。明はブルーのセーター、ミキはスカートから ジーンズ姿、タレちゃんもブルーの長袖セーターへ変わっている。この回の作画監督・ 白土武氏の設定であろう。もう11月も下旬だものねえ。

ミヨちゃんは風邪でお休み、豪ちゃんそっくりの先生に叱られて掃除当番、 バケツ引っくり返して怒られて、テストの点数は10点。「家出少年の気持ちがわかるよなあ」 なんてさびしく呟くタレちゃん。家へも帰りづらく、空き地で時間を潰していると、 マネキン人形を不法投棄する現場に出会ってしまう。 「ひどいコトするなア、今にこの空き地、ごみでいっぱいになっちゃうよ、コレじゃ」

『デビルマン』が放送された1972年の流行語にあるのが「ゴミ戦争」。大量生産・大量廃棄 が決定的になった高度成長時代の末期であるこの時期は、都のゴミ捨て場も満杯になり、 もはや捨て場のないごみが街にあふれていた。タレちゃんが立ち寄った空き地もそうした 集積所のなれの果てだと思われる。たくさんのマネキンを荷台に乗せたトラック。 きょろきょろとあたりを見回すと、手早く荷台を空にして言葉もなく走り去る二人組は、 まさにそうした「ゴミ戦争」の当事者の一員なのである。

そういった廃棄物が意思をもって襲ってくる…という復讐譚プロットだと『ゲゲゲの鬼太郎』に なってしまうところだが、『デビルマン』はよりインナーにダウナーに、神経症的とも言える手法で 構成されているのが特徴的と言えるだろう。

アダルの真の目的とは?

大体この話は奇妙な構成で、大まかな枠組みは「デーモンがタレちゃんを操り人形で脅かし、 自殺させようとする」という構造である。なぜタレちゃんか、という点については「視聴者 がより親しみを覚えるであろう、少年の登場人物に恐怖を与えよう」という仕掛けなので、 その点については多くは問わないにしろ、直接的な暴力でなく精神的に追い詰めるその手法が今回の 眼目だと捉えられる。

もしミヨちゃんが風邪をひかなければ。
もしタレちゃんが掃除を失敗しなければ。
もしタレちゃんがテストで10点を取らなければ。
もし先生がガミガミ怒らなければ。
もしマネキンが空き地に不法投棄されなければ。
もしタレちゃんがそれを目にしなければ。


こんな運の悪い一日でなければ、タレちゃんはデーモンに魅入られるコトはなかった。 そのダウナーな設定で鬱に追い込まれている感覚があってこそ、この人形にあるはずが ない悪意が潜むというビジュアルが成立するのは確かだ。

真っ赤な夜景の中、足音だけが響き渡る。自分の妄想に怯えるタレちゃん。 「きっとそうだ、マネキンが歩いているんだ。誰も見ていないところでは生きているんだ。 心臓がコトコト血を流しているんだ…」と妄想が広がっていく…。この段階では 現実かどうかは関係なく、タレちゃんはアダルが仕掛けた術による妄想にとりつかれている。

ただ、どこいら辺からアダルの術なのか判別としないあたりが、この回の奇妙なところ。

実際、操り人形そのものが作戦の本流かというと、そうとも思えないところがある。 不法投棄された廃棄物の山が、それを目にした人間の想像力を刺激し追い詰めて、 妄想そのものを真実と思いこませ自ら死を選ばせる、という攻撃である。 しかも不可思議なのは、もしこの被害者がタレちゃんでなかったら、デビルマンは 事件にすら気がつかず過ぎていたろう、という点。

明は今回もムザンが仕向けた刺客、と捉えているが、蛇足気味にラストで一気に まくし立てられるアダルの所業こそが、この回のベースになっているコトが明かされている。 明が全くあずかり知らない各地のマネキンたちが、ラストに燃えてケシズミと なっているのである。つまり、ことタレちゃんの一件こそ対デビルマン作戦 だったかもしれないが、実際はそれとは別に、人間界の至る所へアダルの操り人形が 入り込んでいたコトが明かされる。

それは授業中の教師、生放送中のテレビアナウンサー、交通整理中の警官、街をゆく カップル男性、国際的な議場で発言する名士たちだ。アダルが引く糸は、社会の高い レベルからごく普通の生活にまで入り組んでいた。

「デーモンの目くらましにあって、タレちゃんは人間と人形の区別がつかなくなってたんだ」

そう明が劇中で言うように、生きた人間と操られる人形の区別がつかないこのご時勢、 という視点が底流にある。

アダルは人間が捨てていたマネキンに、以前から眼を付けていたというコトなんだろうか。 たまたまこのマネキン侵略作戦を進行中に、デビルマン攻略をムザンから仰せつかり、 タレちゃんを追い詰めてデビルマンをおびき出す作戦を織り込んだのだろうか。 人間が捨てたモノに悪意を宿らせる、という作戦。それらについては、デーモン族の 目的も成果も説明はされないが、それだけに空恐ろしいモノではある。

タレちゃんの前には、ミキやミヨちゃんとなり現れたマネキンだが、他のマネキンが そのような人々に化けるコトで、誰の何を追い詰めていたのか。いびつな形ながら、 テレビアニメ『デビルマン』の枠を越える部分を想像させるこのラストがあるコトで、 この回は非常にモダンな恐怖ドラマとなっている。

コンテの妙と「生きた目線」の演技。

『デビルマン』での白土演出回って、最終回ラストでの変身カットが良く言われるが、 各話でも細かい芝居がついたりして、良く設計された絵の中で芝居をしているのだ。

コトに今回の見せ場である、タレちゃんの寝室でマネキンを殺す一連。ゴシックホラー 王道の演出で、足音が響きわたるところはタレちゃんの表情で「音」に耳を集中させている。 その上で音から連想されるマネキンの群像が重ねられる。 その背景の仕事が実に良く、悪夢的な真っ赤で殴り書きのような不定形の線が入った夜空だ。 この辺いかにも、この『デビルマン』から『キューティーハニー』へとつながる 東映動画美術班らしいアート的な処理が堪能できる。

そういう総合的な絵作りの一方、その足音に恐怖を増していくタレちゃんのカット重ねも 見どころ。汗をたらし、おしっこをたらす「タレちゃんのタレちゃんたる由縁」を うまく見せながら、短いカットで心理的不安を増していく。

そこで、ドアノブがひねられる恐怖最高潮!のリアクション。

顔のアップで最小限の動きにとどめていたカメラが、突如全身を収めたフルショットに 切り替わり、視聴者とともに溜めこんでいた恐怖へのストレスを解放してくれる。

タレちゃんはベッドから跳ね起き、くるくるっと回転しながら、床に尻もちをつき、 さらに背後の壁へとにじる。ココを1カットで見せているのがキモ。タレちゃんという コロコロした動かしやすいキャラのメリットを最大限生かし、彼の動きに合わせてカメラを 振り込むコトで、さらに慌てた心理を表現、実写的な手法を巧みに使っている。

しかもドアから離せない顔(視線)の表現とともに、右上へ眼だけ向けて意識を少し動かし、 そこで棚に並んだ文房具や小物のパン(カメラ移動)。左からタレちゃんの手が伸びて来て それらを押し倒しながら、金槌へと伸びる動きもまた動的なカメラワークで、 緊張感を持続させる。

ドアが開いた刹那、タレちゃんは足元もおぼつかない様子で、金槌を投げる直前に 足元がふらつき、向かって右横の棚に頭をぶつけながらオーバースロー。非常に細かい 演技となっており、いかにも白土さんらしい遊びも含めたいい動きだった。

このシーンでは「目線」がタレちゃんの生き生きとした表情を作っており、 それがまた生気のないマネキンと好対照をなしているのだ。注意して見ると、 この回では全編、マネキンとそれに対峙する明の表情もそのように設計 されていて、「生きた目の表情」が非常によく利いているのにご注目。

キャラにブレなし。設定を生かす妙技

一度アダルの「糸」に気付くも逃げられた後。 もう少しだったのに、と悔しさを噛み締めて牧村家の面々に話す明だが、 家族のみんなはタレちゃんへの心配で、声も出ない。 「気色の悪いヤツだ、からめ手からじわじわと攻めてきやがる」 糸を使うアダルの戦法をまたうまく「からめ手」と表現している。コレを「気色の悪い」 と評する明のセリフも、上記のようにこの回が持つ潜在的な怖さが表れていると言えるだろう。

それにしてもこの作品、キャラのブレというのがホントにないなと感心したのが、 この牧村家リビングシーン。タレちゃんが心配なのは明も牧村家の面々も同じなのだが、 ただ待つコトしかできない牧村家に対して、明は心配を増幅させまい、とはじめ言い訳を しているのだ。アダルの尻尾はつかんだが、惜しくも逃げられたと。

もちろんそれは、彼らの不安を取り除こうという明の思いやりなのだが、当然 デーモン族を知らない牧村家にはその焦燥感は通じず、明も考え込まざるを得ない。 戦いに生きるデビルマンとしては、次の一手をどう打つかという作戦の方が大事なのだ。 対して、そんなコトなど思いもつかない牧村家はただただ心配するしかないワケで、 逆に考え込んで無口になった明が、ミキの不安をぶつけられ怒鳴られる展開に。 このシーンの組み立てを観ていると、このギャップこそが『デビルマン』だなあ、と しみじみ感じられる。

声の演技でのキャラ付け。

マネキンミキが倒れる時の悲鳴演技が、既にミキでありながらミキでない、生気のない 悲鳴なのが興味深い。ミヨちゃんも入れ替わったところでちゃんと僅かにトーンを落として 切り替えている。寝室から駅舎の上へ、徐々にトーンが抑えられていく演技は白眉。 ミキの声なんだけども、いつもの生き生きとしたミキの声ではないのだ。

警察から「子供の事故報告はない」と聞いた牧村パパが「生きている可能性があるワケだな」 とクールに言ってしまうセリフの作りも、科学者である性格を良く出ている。その後に ミヨちゃんの家へ駆けつけた時の心配声とは違って、務めて冷静にふるまおうとしている感覚か。

タレちゃんがミヨちゃんの前に現れた際、 「短い間のお付き合いだったけど、ぼくのコト忘れないでね」 という楽屋オチ。番組上、登場からわずかひと月もたっていないコトから来ているんだが、 果たしてコレはホン通りなのか、アドリブか?

しかし、ミヨちゃんってあの姿に加えて野村道子さんのあの声の割には、 中々のオンナっぷりである。既にしてタレちゃんのいいおかあちゃん、という風情。 姿を消そうとする気弱なタレちゃんを励ますために、
「コレ以上あたしの風邪、こじらせようっていうの?」
「いい子ちゃん、いらっしゃい」
さらにミキの安否を確かめた後、
「あのおバカさん、ホントにおっちょこちょいなんだから」
と口に出してしまう、この落ち着きっぷりは末恐ろしいくらいだ。

その他…

当時子供のときにはもう一つ印象に残らなかったアダル戦だが、デビルマンとのやりとりは 短い中に味がある。「アダルだったな、お前は。人形操りがお前の"芸"か」と 小馬鹿にしたようなデビルマン。「操れるのは人形だけではない」アダルが余裕を見せながら 糸を伸ばすと、デビルマンは絡め取られ、背中をがりがりと地面に押しつけられながら引っ張られる。 この時の背中がまた、紫の血を噴き出させていや痛々しい。デビルカッターで八つ裂き、 という勝利も独特ではある。

ミヨちゃんのおばあちゃんが
「ご時勢だねえ…山の中にボウリング場ができたり、街の中でやまびこが聞こえたり」

日本の急な変化に誰しも違和感を覚えながら、なんとなく受け入れている。そんな時代の 雰囲気をうまく切り取ったカンジだろうか。『デビルマン』の時代とは、激しい社会の変化 に対して、その齟齬がドラマになった時代からさらに進んで、その漠たる変化への不安を 抱えながらもとにかく受け入れていかざるを得ない、そんな空気だったのかもしれない。

※ちなみにタレちゃんは公式表記「牧村健作」だが、この回の手紙では「建作」となっている。


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