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明石城⇒明石市立天文科学館⇒明石商店街 | ||||||||
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明石城5月17日、明石へ。明石城の名は聞いたことはありますが、それほど印象には残っていませんでした。小さな城跡に公園がある程度かな、というぐらいの認識で電車に乗りました。 西日本には名城が多いのですが、それは関ヶ原の戦いの後、豊臣恩顧の大名が西日本に領地を与えられたからと言われています。 天守を持つ近代城郭の初めが安土城であり、織田信長の築城技術を受け継ぎ発展させたのが豊臣秀吉とも言われています。築城の名人といえば加藤清正がまず思い浮かびますが、それも信長から秀吉という築城技術発展の流れを受け継いでいると考えれば納得がいきます。 城といえば天守の次に石垣を思い浮かべることが多いと思いますが、石垣が多いのは西日本の城で、関東、東北には、会津若松城、盛岡城、弘前城などを除いて、むしろ石垣は少ないようです。東日本には石垣に適した石材があまり出ないからのようです。石垣のかわりに土を盛った土塁(土居)を築いて防御線としていました。 そういう理由もあり、石垣を擁した堅固な城は西日本でますます盛んに築城されました。 そんなにわか仕込みの知識を得ていた私は、それでもあまり名を聞かない明石城はもう石垣ぐらいしかないと安易にも思い込み、明石城では石垣を中心に見てこよう、と思いながらやってきたのです。 JRの普通でも大阪から1時間程度で着きます。駅を降りると北側すぐのところにお堀がありました。駅近くにお城があります。汗ばむ陽気でしたが、ここも空気が明るい。いったいどうして兵庫県はこんなに雰囲気が明るいのだろうとあらためて思いました。大手口から城に入ります。すると中は公園になっていますが、高々と正面に二つの櫓(やぐら)と、それをつなぐ長く白い土塀が見えました。 想像していた様子とは全く違っていました。威風堂々、敵軍の正面に立ちはだかるお城の姿です。姫路城のようにあの手この手で待ち構えている風ではなく、正々堂々、四つ相撲でひねってやるという雰囲気です。明石城は明石城で威圧感十分です。江戸期を通じて本多氏、大久保氏、松平氏と城主は幾度か代わりましたが、もとは徳川家康の曾孫(ひまご)である小笠原忠真(ただざね)が建てた城です。国宝で有名な長野県の松本城を築いたのもこの忠真です。 明石城はお隣の姫路城主であった本多氏の支援を受けて築城されました。つまり姫路城と連携して相互支援を目的として建てられたということです。姫路以西には大きな外様大名がひしめいており、その東上を山陽道で防ぐという大きな意図がありました。 二つの櫓は、向かって右が『巽櫓(たつみやぐら)』、左が『坤櫓(ひつじさるやぐら)』といいます。巽も坤も方角を表していて、その櫓のある方角の名前がつけられているのです。同じような造りに見えますが、坤櫓のほうがやや大きいようです。 お城の正面は広場になっていますが、かつてはここにもいろいろな通路や土塀があったと思われます。攻め込んでいざ本丸へ、という時に正面にどーんと控えているのが二つの大きな櫓ということでしょう。 などと考えながら、向かって左手から本丸の側面へと回ります。 お城は今は公園ですので、野球場などもあります。高校野球兵庫県大会でよく使われる明石公園野球場、のはずですが、今は名前が変わっているようです(関係ありませんが、私は野球も好きです)。 側面に回ると、石垣がよく見えました。打ち込み接ぎ明石城はシンプルな造りのようで、石垣のラインは入り組んではいません。階段を上って本丸内へ上がります。 石垣はかなり高く、上から見下ろすと人が小さく見えます。高いところが苦手ですので、石垣の端まで這い寄り、恐る恐る腕だけ伸ばして撮影しました。かつては石垣の上には土塀と狭間がはりめぐらされていたはずですので、こんな怖い思いはしなくてよいと思いますが、城内に侵入してきた敵兵はこういう風に見られていたのかと想像ができます。(遠足の小学生たちごめんなさい) 明石城は姫路城とは違って直線的な構造が多いように思えますが、石垣が二段になっていたりするところもあり、正面からだと二枚腰の土塀で強力に阻まれそうです。小細工なしに立ちはだかるお城の印象です。 お城の造りで重要なものとして「横矢掛かり」があります。これは現代で言えば、十字砲火を浴びせるための区域のこと。狭間の死角をなくすために石垣や土塀の一部を凹ますように造り、石垣に取り付こうとする敵兵を正面と左右から射すくめる為の構造です。枡形と同じく、どこの城にも見られます。石垣が出っ張っていたり、へこんでいたりする場所を見つければ、そこが横矢を狙った造りになっているということです。 本丸内に入ると、鬱蒼と木の繁った中に、横矢が掛かるようにへこんだ一角がありました。その石垣を見ると、打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)の為、石に出っ張りが多く、また隙間もあってなんだか昇れそう・・・。高さも4、5メートルほどなので、さんざん迷った挙句登ろうと決めました。高いところが怖いので下は絶対見ないということも同時に決めました。周りに誰もいなさそうなところですが、散歩している人もちらほら見かけたので、上には誰か歩いているかもしれない。その時は笑ってごまかそうということも決めました。 大した高さではないのですが、必死になって登り、何とか石垣の上に身体が出たときは心臓がドキドキしていました。残念ながら、石垣の上にはちょうど通りかかった人がいましたが、見て見ぬ振りをしてくださったので笑ってごまかさずにすみました。 私でも登れたのですから、おそらく石垣そのものは熟練した兵士や忍びの者であれば、よじ登ることはそれほど難しいことではなかったと思います。ですが石垣の上には土塀があり、そこから銃や弓矢で撃たれるわけですから実際には強力な守りの壁だったのです。私も当時であれば横矢に掛かり、蜂の巣にされて下に落ちていたに違いありません。 城の側面から正面に回ります。ちょうど大手口を入ったところで見た、大きな櫓と土塀のすぐ下を歩きます。見上げれば櫓ははるか上方にありました。土塀には狭間がありますが、石垣の真下に取り付くと死角になり、火縄銃などではうまく照準がつかないのではと感じます。櫓の下の石垣が二段になっていました。その代わりに二段の石垣にの上に作られた、より近い狭間で狙うというわけでしょう。
石垣の両端に建つ巽櫓と坤櫓は大きいもので、監視塔とトーチカ(銃を撃つためのコンクリートでできた建造物)の役割を持っていました。正面を回ってふたたび本丸へ。本丸内は枡形も残され、もし敵の侵入を許してもただでは通さない造りです。 坤櫓のすぐ後ろにある天守台へ上ります。天守台とは天守閣を建てるための区画、土台のことですが、明石城には天守が建てられたことはありません。だからただの四角い地面です。明石城では、二つの櫓が天守の代わりをしたとも言えます(どちらかと言えば、より大きく天守台に近い坤櫓が天守の代用と言われています)。天守閣は平たく言えば、「城内で最も高く大きな櫓」のことです。戦時に城内外を見渡し、指図を下す指令・監視塔であり、いよいよの時に城主以下重臣たちが立てこもる場所でした。いくら立派な天守でも、そこに押し込められたらもう敗北は決まったようなものです。天守閣は城の防衛に果たす役割はそう大きなものではなく、むしろ石垣や土塀、櫓の配置といった城全体のグランドデザイン(縄張(なわばり)といいます)がその城の堅固さを決めました。 平時では天守閣はほとんど見る為だけに存在していたといっても過言ではありません。ただのシンボル。藩主は官邸兼庁舎の機能をもつ御殿(ごてん)に寝起きします。天守閣は常に無人の状態が普通です。であれば、大金をはたいて維持費も莫大な天守を建てるよりも、建てずにおいたほうが良いという選択もあります。徳川幕府は大名が堅固な城を建てることを嫌いましたから、天守を造らないでおけば幕府の覚えもめでたいということにもなります。また天守を建ててはみたけれど焼失してしまい、財政難からその後建てずにおいたまま、という城もたくさんあります。江戸城からしてそうですし、大坂城、金沢城など大きな城でも例は多いです。 二つの櫓とその間の土塀を裏側から見ます。土塀の狭間から覗いてみたら、かなり高い位置にあることがわかります。築城当時の火縄銃や弓矢の有効射程に敵をとらえることは難しいのではないかというぐらいです。おそらく今は残っていない遺構を復元すれば、この狭間の威力が眼に見えてわかるのだと思います。当時であれば、明石の海はもっと鮮明に近く映ったことでしょう。城からの眺めは最高。城主や家臣は、この眺めを見て一国を治め、大切な街道筋の守りを託されたことへの誇りを感じたのかもしれません。
天文科学館へ城を出ます。次に向かうのは、市立明石天文科学館。城から東へ1kmぐらい離れています。国立かと思っていましたが、明石市立なんですね。小学生の頃遠足で訪れた記憶がかすかにあります。日本の標準時を決める子午線がここを通っています。東京も北海道も沖縄の時間もすべて明石を基準に決められているんですね。 お城を回って少し疲れた足には、天文科学館までの道のりが少し遠く感じました。10分ほど歩くと科学館の塔が見えてきました。それを目標に足をすすめます。 塔は下から見上げると高くそびえているような感じがします。近代の建築物として大きいものではありませんが、こうした建造物を平気で建ててしまう近代の建築技術はすごいものだと思います。いま先ほどお城を見てきたばかりなので、数百年前では、櫓ひとつ建てることさえ相当な労力だったんだなと実感しました。お城を築くことは本当に国力の全てを注いで行った大事業だったと想像できます。 館内にほとんど人はいません。平日の昼間はこのようなものなのでしょう。時計の歴史や色々な種類の時計を展示した部屋を回りました。そこには、日本の標準時を刻む時計がありました。
![]() 塔の最上階は360度見渡せる展望台になっています。明石海峡や市街が望めます。4階もテラスのような展望台になっています。低いところにはありますが風が感じられる分、こちらのほうが風景が肌にせまってきて好きでした。 プラネタリウムへ。久しぶりに観る気がします。明石のプラネタリウムは、もう50年近く動いており、現役で働いているものの中では日本で最も古いということです。ドイツで発明されたということですが、機械を近くで見ると複雑な形をしていて、半世紀以上も前にこのような機械を生み出すドイツの技術力に驚きました。 星を天井に映すためにどうして、みなさんご存知のあのような形状でなければならないのか。そして発明されて以来その形が変わらないということは、その形が最も合理的ということ。開発された時にすでに技術的に完成していたということでしょうか。半世紀以上も前のことなのに・・・。 テーマは南十字星でした。解説の方の語り口が優しくユーモアに富んでいて、すごく心地が良かったです。星空を眺めながら、ふわりと南の島へと案内されているようで楽しめました。日常を忘れさせてくれる、異次元の旅空間でした。観客は10名にも満たない、平日ならではの贅沢な夜空のツアーでした。 最後に館外にある、日本標準子午線が通る場所へ行きました。赤い表示があります。この真上に太陽が来る時、日本すべての正午のアラームが鳴るのです。日本の中心は東京だと言われますが、それとは違う意味でここが日本の中心。誰も気にしないことでしょうが、その時私は日本の真ん中に立っている喜びをひっそりと一人かみしめたのであります。 商店街へ最後に明石の街を見てみたいと思い、駅のほうへ足を向けました。どの街でもそうですが、少し大きな駅であれば隣接してショッピングモールがあります。そこを少し見てから出ると、駅の南側に大きな交差点があり、そこから商店街があることがわかりました。 明石の商店街はショッピングモールに押されてさびれているのかな・・・などと思いつつ信号を渡りました。商店街の入口を覗いて、嬉しくなりました。大きく活気のある様子が伝わってきたからです。 中を歩くと、さすが海の幸が豊富な土地柄、魚屋さんがたくさんあります。昔ながら威勢のいい声でお客を誘ってきます。有名な蛸をはじめ、普段見慣れないカサゴ、そして太刀魚がそのままの姿で何尾も並んでいたのには驚きました。さすが品揃えが違う。明石の人はこういった魚を普段から食べているのかと面白い気がしました。私はカサゴや太刀魚などほとんど食べませんからね・・・。さらなる驚きは、値段の安さそして、新鮮さ!素人目で見ても、「これ新鮮やろ!」というのがわかります。身は厚くぷりぷりで、うろこが光っています。生の蛸はクリーム色の体をしていました。知っている人からすれば笑われそうですが、ゆで蛸を見慣れた私は、蛸と言えば白を連想するので、ちょっとした発見に思えました。 あと驚いたことは、あるお店の店先に「鯛の干物」が並べられていたことです。鯛と言えば生で食べるか、焼くかしか知らない私。それにせっかくの鯛を干物にしてしまっていいものだろうか・・・。という素朴な疑問も浮かびました。どういう場で食べられるのか、お店の人に聞いておけばよかったと思います。 さてお腹が減ってきたので、ここらで何か食べようと思いたちました。店先売りの蛸の天ぷらなどそそられるものもありましたが、明石焼きと蛸飯を食べることにして、あるお店へ。あいにく時間が遅く蛸飯はないとのこと。明石焼きだけ頼みました。食べやすいように手前に斜めに傾いた木の板に15個のあつあつの明石焼きがのっていました。三つ葉と青ねぎ、そして出汁がついてきます。ふわふわほかほかで、あっさりした玉子たっぷりの明石焼きは、口の中で優しく広がります。三つ葉の香りがとてもよく合いました。あっさりしていますので、男の人には食べているうちに物足りなくなるかも。その時は、たこ焼きのようにソースをつけてもおいしく食べられます。 玉子感がたっぷりの明石焼きですが、面白い発見がありました。明石焼きを出すお店の看板やのれんには、ほとんどが「玉子焼」と書かれていること。私たちは明石名物だから地名をつけて呼びますが、地元の方には明石のものというのはわかりきったこと。もともとは玉子焼きと呼ばれていたんでしょうね。
商店街に活気があり良かったです。商店街の衰退は全国的な傾向ですが、人の流れが確保され、また商店に魅力があれば残っていけるのだと感じました。ショッピングモールには食料品から電化製品まで、ひとつところで買い物ができる便利さと空間の楽しさという魅力があります。 そう考えれば、商店街こそ個性のあるお店が集まっている場所です。各店舗の個性が合体した全体の魅力を醸し出せれば、外につながる開放的な空間を楽しい舞台として演出できれば、まだまだ可能性は秘めていると思います。アーケードからぶら下がる蛸をイメージしたと思われる照明を見てそう思いました。 参考文献: |