裏面

 

題名

夢坂下って雨が降る

 

 

 

 

 

 

 

出演者

菅野久夫・新谷一洋・中進・東銀之介・白石禎・前野修・稲垣広貴・市川兵衛 ・佐々木充・藤堂貴也・水野公晴
聖あやみ・もたいまさこ・光永吉江・村田ユチコ・竹内久美・柴田みどり・渡
辺えり子

 

渡辺えり子

 

演出

渡辺えり子

 

作曲・演奏

福島一幸

 

美術

松野潤

 

照明

稲垣整壱

 

 

 

 

音響

原島正治(囃組)

 

振付

菅原鷹志

 

スタイリスト

久我山もえ

 

舞台監督

武川喜俊

 

スタッフチーフ

森田三郎

 

協力

演劇ショップ・ワイズフール

 

製作

プリティペア
スタジオ200

 

惹句・挨拶

寂しい男達は、あまりにも贅沢な夢を見過ぎて・・・。
優しい主婦の残骸は、新たなまごころをくゆらせる。

 

その他・
備考

渡辺えり子による「妻の服着る夫」掲載
(この文章はペヨトル工房刊「シリーズ戯曲新世紀1 タ・イ・ム/夢坂下っ
て雨が降る」にも掲載)

妻の服着る夫

渡辺えり子

 小学校の一、二年か、もしかしたらもっと以前に、「りぼん」か「少女クラブ」の世界のめずらしい話というコーナーに、妻が死んでから、妻の身につけていたすべてのものを自分も身につけて一生をすごしたという外国の男の話というのが載っていました。刈り上げた頭につば広の帽子をかぶり、手には網目のレースの手袋、イヤリング、ネックレスをしてドレスを着た男かポーズをとっている挿絵まで載っていて、それが何故か物悲しく、それには描かれていない、後ろの十字架の立ち並ぶ小高い丘の上の墓地、それに通じる小道を歩く女装の男の後ろで畑仕事の手を止めてヒソヒソと指をさす農夫達の姿等が浮かんできて、目頭が熱くなってきたのを覚えています(小学校に上る前まで山形でも田舎の方の山と田んぼに囲まれた土地で暮らしていたので、こういう発想になったのかも知れません)

 この事は何かのはずみでいつも思い出され心に残っており、いつかこれを題材にして書いてみようと思っておりました。そして、二十歳の時に書いた「夢坂下って雨が降る」のモチーフとなったのがこの話です。

 

〈何故妻の服を身につけるか?〉「夢坂」メモより

 妻を愛していたというより、妻に愛される事によって確立できていた自己を妻の死によって見失う事を恐れたのではないか。妻が見ていた自分、つまり、妻と同じ目で一緒に見ていることのできた自分という人間が妻の死と同時に消滅してしまったのである。どうにかして自分を、自分という人間を見つけなければならぬ、そのためには、妻に見られていなくてはならぬ、それで男は妻に同化していったのである。そうすれば他者として自分を見つめ愛する事ができる。妻となった自分が、自分を探すのである。永遠に現われるはずもない夫を、今度は待つ事になったのである。そしてこれほど愛され、望まれている夫こそ、つまりは自分自身なのてある。これほどまでの自己愛、孤独なひとりよがりが他にあるだろうか。そしてこれは、単にひとりの男の話ではなく、他の、何か別のものを創造しようとする人々の魂とどこか似てはいないだろうか。

来るばすのない夫の形は、てきるだけ、俗な、リアルな形のものほど、ないのだから、そのとてつもないないことの恐さにリアリティーがでるだろう。そして、それを観るお客こそ、第三者でいなから、病まずにばいられなかった夫達を造る原因であり当事者に他ならない事を知らせねばなるまい。ドラマは客によって引き起こされ、どうどうめぐりの迷路の中で、誰しもがその、主人公なのである。この妻の服着る夫にしても、作者で役者で観客の三役を演じる構造に自分でしむけているではないか。こう考えると、舞台と外との柵はない。

 

 八○年、大幅に書き変えて再演し、今回また二度目の再演を行うことになりました

 何故こうもこだわるのか、そしてこだわってもこだわっても解決できず、終止符を打てないものであふれています。ですからこの登場人物にも死ぬまでこだわっていてほしい。人物と私のこだわりが三度もこの芝居を上演させる事になりました。このこだわりがなんなのか、いつか判る時がくるまで、こうやって上演し続ける他に方法がないように思われます。

 

 

 


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