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0「劇場における観客の正しい姿」

9「ゲゲゲのげ 逢魔が時に揺れるブランコ」

13「瞼の女 まだ見ぬ海からの手紙」

24「月に眠る人」

26「TEMPO−夜よさよなら−」

27「改訂版風の降る森」

旅「TEMPO−夜よさよなら−」(旅公演)

28「深夜特急 めざめれば別の国」

30「深夜特急 めざめれば別の国」1997年再演

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0. ―劇場へ。彼の国へ。3○○の世界へ。「劇場における観客の正しい姿」

 ・そこは異界である。
 今日は芝居だ、と心に決めて劇場へ空間的に近づいていくことは、その距離 がどんなに小さくとも、異界へ近づいていくことだ。
 すんなり異界へ入っていくためには、今いる現実に反発があった方が、もち ろん、いい。現実の生活の場にしか自分の存在理由を認められない人は、劇場に 近づくにつれて不安になるに違いない。劇場には、生活の延長としての現実は用 意されていないからである。確かなのは、芝居が終わった時点で、劇場の外では 2時間ほどの時間が経過しているだろうということだけである。劇場の中では、 「時間の矢」さえその飛ぶ速さや方向を変える事があるからだ。
 「現実」に反発を持っている人は、たぶん権力もないから金もない。必然的 に非現実的なまでにきたない格好で劇場にやってくるはずである。また、「現実 的な世界に住む自分自身」になにがしかの反発を持っている人は、異界に近づく ために現実の中で稼いだ金を消費するのを惜しいとは思わないはずである。必然 的に、自己を現実から切り離すことを目的とした儀礼的な格好、あるいはその時 代に流行している様々の奇妙な格好で劇場にやってくるはずである。
 芝居が始まる前にさえ、心を反映した客の服装の中に異界は影響を及ぼし始 めている。

 ・それは現実ではない。
 劇場は異界であり、舞台上のできごとは現実ではない。だから、舞台上ので きごとが信じられないような摩訶不思議なものでも怒ってはいけない。しかし、 舞台上のできごとに感動してしまったのなら、それこそ不思議なことだが、その 舞台は現実と同じか、場合によっては現実より重い価値を持つ。反発を覚える劇 場の外の現実より、舞台上のできごとの方へ、より引き込まれてしまい、どちら が確かな世界なのかさえ判断に困る人もいるかもしれない。
 しかし、舞台上のできごとはけっして現実ではないのだから、現実の世界か らやって来た観客は、舞台上の異界を生きる人間であろうとしてはならない。「 シコミ」や「バラシ」「ナグリ」「ガチブクロ」などという隠語を口にしてはな らないし、あまっさえ手伝ったりなんかしてはならない。受付・音響・照明・舞 台美術・舞台監督などに手を染めてはならない。まして役者や演出家、劇作家な どになってしまってはならない。観客が劇場を異界として認識し続けるには、劇 場の外の現実に帰ることがどんなにつらくても、異界から現実への生還を果たさ なければならないからだ。観客は劇場にやってきた時と同じように異界から遠ざ かっていかねばならない。

 ・渡辺えり子の作品に耳をそばだてる。
 渡辺えり子の作品は、以上のような異界の中の舞台の上で展開される。異界 だからこそ過去が未来になり、男が女に、女が男になり、乞食が王子になり、木 偶や動物が歌を歌いもする。
 そんなシステムを巧みに使いながら、作品の実体は、実は神話や叙事詩の伝 統を受け継ぐ、口で語って聞かせる「物語」である。口承された神話や叙事詩は 、人形浄瑠璃などが色濃く伝統を残しているように、人の「死に方」の伝承とし て存在している。渡辺えり子も「人の死」の様々を舞台上に構成する。
 初期の作品、例えば「タ・イ・ム」(「改訂版タ・イ・ム」)でも、薄幸な 娘が死の直前に見る夢という展開であり、雪の夜にいろり端で語られる昔話のよ うな構成であった。思いつくまま例をあげれば、「夜の影」でも死んだ姉とそれ を想う人々の話であったし、「オールドリフレイン」の老婆も、今まさに死を迎 えようとする人の追憶による物語であった。最近の作品でも、「月に眠る人」で は、何人の登場人物の死を描いていることか。その中でも、年老いた夫が語る家 族の歴史を聞きながら死んで行く老婆というモチーフは、実は渡辺えり子が作品 に描く、「死と物語」という芝居に対する考えそのものであるように思う。 と ころで、物語の伝承は、その伝承すべき「死」を見た人々によってなされる。ど んな悲劇的な死であっても、どんな悲惨な災害でも、戦闘でも、常に生き残った 人々の観点から「死」を語る訳で、物語を作る人は、人間の歴史が始まってから 死んだことがない。だから、死を語る物語は、その物語作者のように楽天的で孤 独である。(「クレヨンの島」の「蛍鳥」のように。)

 ・そして腕いっぱいの花束を。
 異界と観客を現実の上で結び付けるのはチケットだが、異界の人間も現実の 人間もその金額を異界の対価と思ってはいけない。それは、お布施・お賽銭・ご 喜捨といった類のものだ。その証拠に、チケットの売上だけで食っている役者は いないし、観客が自分が払うチケットの金額に対して、芝居にかける望みは呆れ るほど高い。
 芝居の終わるまでの2時間、現実の時間から離れ、異界の時間を生きること に成功した人たちに、現実の時間から訪れた観客から、せめて腕にいっぱいの花 束を送りたいものだ。
 しかし、役者が述べるお礼の口上にアンコールの拍手をし、芝居の余韻にひ たりながらでも、観客が気に留めておかなければならないことがある。「夏の夜 の夢」の「パック」や「あらし」の「プロスペロー」が、それぞれエピローグで 媚びるように述べている、「観客が舞台の登場人物を存在させる」ということば をうのみにしないということだ。だまされてはいけない。それらは、観客に対す る彼らの巧みなお世辞である。異界は観客がいなくても常に異界の住人と共に、 劇場に、舞台の上に、存在しているのである。だからこそ、観客は意を決して異 界にやってくるのである。


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9.− 酸っぱいビワの実は時々はき出してみよう −

(「ゲゲゲのげ」あとがき 白水社 より)

 誰でもそれぞれ過去を持って現在に生きている。どんな人間でも、自分の過 去を変えることはできない。ただ、その過去とは、いくらその過去の時点ではは っきりした事実ではあっても、現在では記憶として残っているに過ぎないのであ る。そして、記憶としての過去は、現在のそれぞれの人間達の意識や行動にさま ざまな影響を与え続けているにちがいない。自分の記憶は、自分自身だけのもの のように思える。
 しかし、記憶としての過去によってさまざまに影響されたそれぞれの個人の 行動は、また、他人に対してもさまざまに影響を与えている。
 そう考えてみると、ある個人の過去も、決してその個人だけのものではない ことになる。他人にとって、はた迷惑な過去、ありがたい過去、どうでもいい過 去があるのだ。私の行動に影響を与える私の過去は、もはや変えることができな いが、私が他に与える影響は、私が私の行動を変えることによって変えることが できる。
 『ゲゲゲのげ』のマキオは、自分自身の過去と現在の自分自身の行動とを切 り離すことができない。そして、マキオをとりまく他の登場人物達は、マキオに 、おまえの過去ははた迷惑だ、もっと現在に生きろ、とささやき続ける。

佐藤 ……誰もが意味なく君をいじめるんじゃないと思うぜ。皆んなはそれぞ れ心の中にもっている、やっかいな黒いものを振り払おうとしているのさ。……

少年 またまた、そんな目をするなよ。そりゃ妄想をまさぐってる目だ。その 橋を早く渡れ、そして早くこちら側へ来るんだ。さあ、マキオ君。

 こちら側へ……。マキオのように、自分自身の感情や意識や過去だけを信じ るのではなく、他の人間の感情や過去も真実として認識する世界へ、というささ やきは、「逆もまた真なり」という叫びになる。その言葉は、自分自身の感情や 過去を信じられず、自分がどう見られているか、他に対してどんな影響を与えて いるかを意識しすぎている人間に対しても、自分自身を認める、という言葉とし てとることができる。
 しかし、マキオは変わることができない。自らのことばとして客観的に意識 の上にのぼらせることができない。既に飲みこんでしまった「すっぱいビワの実 」を手にとって見つめることができないのだ。 結局、ビワの実をはき出してみ ることのできないマキオには自分自身の不幸の理由さえもわからない。
 人間はことばという記号に自分自身の感情や記憶などを象徴させ、それらに 秩序を与えている。ことばにできない感情や記憶があると思った瞬間、人間は他 の人間との接点も自分自身の理性との接点も失っている。マキオの過去は、誰の ものでもない変わりに、マキオ自身のものでもないのだ。
 源二の場合は、自分をだますために作りあげてきた過去に、「否」という秩 序を与え、自分のものとなった自らの過去の中へとあえて自らを消し去ってしま う。彼の過去は彼だけのものになってしまった。

鬼太郎 君は変わらないな……辺りは薄暗く、もうすぐ豆腐屋のラッパが角を 曲がってやってくる……神社で隠れんぼをしていた子供達がやっと鬼に見つかっ て母さん達がイライラしながら夕ごはんのしたくをする。もうおしまいだよって 、五時の時計が迎えに来る。君はまだ帰りたくないんだろ?神社の縁の下にうず くまって、目かくしをしながら、終わってしまったかくれんぼの鬼の振りをして 、いつまでも、いつまでも夕方の向こうの「まあだだよ」の声を、耳の奥で聞い ているんだな。

冒頭、眠り続ける老婆を、七恵がなじる。

七恵 ……わがままなのよこの子は。とるに足らない細かな事にひどくこだわ っているだけに違いない。私たちが血を流しながら我慢しているものを我慢しき れずにこうしてだだをこねているんだわ。私達の人並みな夢もなにもかも犠牲に して。飛びもしない、堕ちもしない。ただ醜悪な天使。あたしたちにはなにもも たらさない、ただ夢だけの天使、嫌だわ、もう。

 あちら側で眠りつづける老婆と同じく、こちら側にいるマキオも、ただブラ ンコをずっとこぎつづけているだけなのだ。
 生きることに忙しいぼくたちの、はた迷惑な「すっぱいビワの実」は、秩序 の昼と混沌の夜との間のたそがれの中でマキオの乗ったブランコのようにゆらゆ らとゆれつづけてはいないだろうか。時々ははき出してみないと、まさかまさか の目にあうかもしれない。

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13.「瞼の女」 −二役と単一の役から述べる試み−

 普通、劇では、劇中の時間の経過が主人公や他の登場人物に何らかの変化を もたらし、緊張を高め、結末へとなることが多いはずである。観客は、登場人物 たちと芝居の上の時間を共有しながら芝居を見るものだろう。しかし、渡辺えり 子の作品は、舞台の上に様々の時間や空間を作り出してゆく。舞台の上の、世界 も人物も目まぐるしく変化をとげていく。美しい演劇的な時間や空間に目を奪わ れていると、確かなのは、開演から終演まで現実の時間が2時間ほど経過してい るということだけだ、と思いたくなる。芝居の中で現れる美しいモチーフは、花 火や音楽のようで、感動を終わった後で再現することが難しい。美しかった印象 や、部分部分のセリフが心に残るばかりなのだ。
 「瞼の女 まだ見ぬ海からの手紙」の場合もまた同じである。目まぐるしく 展開する様々な世界の話の主たる筋を追っていこうとすると、うまくはぐらかさ れてしまう。この芝居では、ラストで青年は存在せす、また、既に死んでしまっ ているということが告げられて、主人公の変化を追っていたはずの観客は別の観 点から、今まで見ていた芝居を思い出してみなければならなくなる。
 青年が何物であるかを追うために図にしてみた(図1・2 省略)。渡辺の 芝居では二役が多用されているので、整理してみる。(歌舞伎、例えば鶴屋南北 「東海道四谷怪談」では、お岩・小仏小平・佐藤与茂七を一人の役者が演じ、一 つの世界で、スターが複数の役を演じることで舞台上の効果をねらっている。渡 辺の場合は、無名に近い役者が演じることで、そのパロディを意識しつつも、違 う世界で、違う登場人物を同じ役者が演じることで、世界同士を結びつけるとい う、構成上の意味合いがある。)
 配役の上からと、他の登場人物からどう規定されているか、主人公本人が自 分をどう思っているのかを見てみる。場面で見ると、青年は登場する時、父→圭 一、母→寝ている、妹→死んでしまっている、という状態にいる。しかし、すぐ 父から「原口」のようなキライなタイプと断言され、鬼が登場すると、青年は鬼 の子であり、圭一からは他人だと言われる。次に老婆が昔の圭一を登場させると 自分の生まれる以前の場面になり、登場人物から原口と呼ばれる。また、青年が 受け取った手紙を書いたという少年が登場するが、その少年は青年と同じ記憶を 持ち、青年と同じ布団に寝ている。最後に、青年が恋をした孕んだ女は青年の母 であり、母の子供が生まれず、昔の場面が終わると、圭一と母の間に生まれた男 の子は病気で以前に死んでおり、妹の方が成長している場面になる。ラストシー ンの世界は、青年(少年)→死んでいる、妹→生きている、父→圭一、母→中年 の園花である。
 青年は、青年をとりまく登場人物から色々に定義されている。しかし、図表 を見てみると、他の登場人物が二役以上を兼ねているのに対して(自分自身の老 若を含む。また、すぐに死んでしまう三浦先生を除く)、青年は一役である(ホ クロの原口と言われても、本人に自覚がなく、ホクロの原口本人も別人で登場す る)。また、冒頭の少年も一役である。他の登場人物から様々に定義されても、 見ている観客にとって、少年は少年のまま、青年は青年のままなのである。一つ の役に固定されているということは、世界を自由に行き来することができない、 ある世界に固定されている役と言えるだろう。少年と青年は、手紙でつながる、 互いに行き来できない一つの役である。 少年は青年の布団に寝、青年は少年と 同じ記憶を持っている。ラストでは妹は成人しており、少年は既に死んでしまっ ている。少年が一人で登場するのは、観客に向かって手紙を差し出すラストシー ンだけで、必ず死んだはずの妹と登場する。様々な体験をするのは青年で、少年 は妹と二人でしか登場せず、手紙にこだわっている。
 芝居は青年が少年の書いた手紙を受け取る場面から始まる。二つの固定され た世界は、少年から差し出された手紙でつながり、兄妹が二人そろった世界から の手紙が青年に届いたとき、死んだのは妹の方だという前提に立った世界が展開 する。消え去ってしまった過去から、私はここにいると、死んでしまって今はい ないはずの青年に手紙が届く。その、いないはずの青年が芝居の中心になるので ある。記憶に潜む、今はいないものが手紙を出してよこすと、現実ではいないも のが実体として動き出す。
 芝居の中で青年(=実体化したいないもの)を求めているのは、幸福とは思 われない母親と老婆である(母の独白→猩紅熱で死んだ息子が育っていたなら、 母親思いであったろう。老女→あんたを出したのだってこの私なんだから。)。 一見現代の気弱な人間を象徴しているような、いかにもリアルな青年が芝居の中 で体験する世界が、二人の求めた世界である。現在の不幸が、「実体化したいな いもの」の目を通して、あったかもしれない過去を夢見たがっている。夢見たが る人物は、見事にその夢見た世界の登場人物になり、夢見られた青年は一つの役 に固定されている。
 そして、2時間の芝居が終わっても、芝居の時間はまだ終わらない。いない もの同志をつなぐ手紙は、ラストシーンで観客に向かって差し出される。その時 、観客もまた、己が、青年と同じように、誰かに夢見られ、一つの役に固定され てしまった実体化したいないもの」であるかのような不安を感じないだろうか。 芝居のせつなさは、見終わっても残る。
 「瞼の女(まぶたのめ)」は、青年自信のまだ見ぬ恋人という意味と、目を つぶったままでも見える、現実でない世界を見る目という意味を掛けているのか もしれない。また、この芝居の1シーン1シーンの美しさは、現実でない世界を 求める弱さは、同時に、現実にもない美しい世界を見ることのできる心の豊かさ だと、元気づけてくれる。

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24.「月に眠る人」についてのメモ

◎「役」の出現
 劇場による「劇」の発生とも言うべきか。そこから虚構は開始する。その発 生は観客の承認による。(佐々木建一「せりふの構造」)
◎「二役」
 「役」を承認するのは観客だから、逆に、観客は二役を疑うことができない 。「劇」が発生している以上、それを承認しているのは観客だからである。
 一人が演じる複数の「役」が発生しているということは、一人の役者が演じ ていようが、二人がそれぞれに演じていようが、登場する劇中の人物は独立した 人格として二人いるということだ。だから、登場人物は現在演じている「役」と してしか、その場に存在できない(他の「役」の記憶を持つことはできない)。 唯一他の「役」の記憶を持っているのは観客である。(例→鶴屋南北「四谷怪談 」。一人の役者が与茂七・お岩・小平を破綻なく演じる。そして、観客の記憶の 中で、被害者のお岩・小平と加害者伊右衛門、敵を討つ与茂七と討たれる伊右衛 門の関係が再構成される。)
 しかし、また、観客には「役」を承認しない自由(「劇」の発生を認めない 自由)も残されていることは、もちろんである。
◎「月に眠る人」
 最初から男の格好をした女優(根岸季江:重吉役)が登場する。この劇の前 提とも言える場面である。他の登場人物には、もちろんその役者が重吉に見えて いるし、観客も重吉に見えているはずである。少年役の女優(田根楽子:子供役 )も同様である。 ところが、その同じ舞台で少年役は、自分は主婦だ、あるい は、ラーメン屋の店員だ、と主張し始め、さらに、医者が衣装を脱いでラーメン 屋になり、病院がラーメン屋に転換してしまうと、他の登場人物達には重吉が重 子に見えてしまう。
 さらに、幕を使った舞台装置が象徴するように、登場人物たちを劇中劇の人 物として見ることも可能なのだ。
 観客は、そんなに不思議とも思わずひきこまれていった前場からの舞台が、 実は、観客自身の承認による虚構なのだという、劇の発生の状況を目の当たりに するのだ。 そして、観客は最後まで、劇に対してその発生に積極的に参加しな くてはならなくなる。この劇を観終わったあと、作者の意図したように観客が「 悪い夢を見たような気分」(談)になったとしたら、それは、観客が、自ら劇を 承認する作業を繰り返したからだろう。
 実は、社会そのもの(最小単位は「家族」)が、様々の規則や法律などの虚 構を承認することで成り立っていると考えれば、「劇」は常に我々の中で発生し ているはずである。

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26.TEMPO −夜よさよなら− についての覚え書き

1.見えないもの
 朝日新聞の「TEMPO」についての取材に対して、渡辺は、「今の若者は 見えるものにこだわり過ぎる。世の中で目に見えることと見えないことの境は何 なのか」を問いかける……。と語っている(1995年4月25日夕刊)
 見えないものについて、渡辺は記憶の総体としての人間を想定しているので はないだろうか。ある人間がどういう人生を生きてきたかは「他人」には「見え ない」のである。
 一人一人にはその人の人生があり、その人生は他人にとっては知ることので きない、まだ見ぬ物語と同じである。我々は、未読の物語がひしめく地球で暮ら していることを忘れているのだ。家族同士にさえ見えない物語はあり、マコトの 妻が、万引きに一家言持っていたり、ユウイチの妻が団結をアジテーションする のに長けていたり、また、同じ人物を愛した母とおばは若き日の恋のつらい思い 出を抱えていそうだ。そして、自分自身も例外ではなく、自分の知らない自分に つての物語があるかもしてない。自分を普通の会社員だと思っているマコトでさ え、自分の知らない出生の秘密を持っていたのだ。
 見えない物語が見え始めると、雨や家具が人間のように話し始め、今まで見 えていた家族が見えなくなり始める。それは消えたのではなく形をかえたのだ。 読まれることを待っている物語に姿を変えたといってもいい。それは読む人の意 志でページを繰らなければ先へと読み進むことはできない種類のものである。そ して、全てが見えたと思ったとき、家族は死を迎えるのだが、我々は、死んだ家 族が存在しなかったことと同質ではないことがわかるのである。
2.死者
 前述の朝日新聞の取材に、渡辺はこうも述べている。「今度の新作戯曲ほど 難産したのはなかったです。書きはじめたら阪神大震災。これ以上のリアルなも のはない。何を書いても負ける。神戸に住む芝居仲間もけがをした。でも初日は 迫ってくる。こりゃ書かなければ、と覚悟を決めるとサリンでしょう。」 
 渡辺は、湾岸戦争後(1991年7月〜8月)に上演された「クレヨンの島」の 場合も同様の発言をしている。そのときの、戦争という「リアルなもの」を目前 にした劇作家としての苦しさは、同劇中の登場人物「失語症の劇作家・田代」と して現れている。
 しかし、難産の末に初日を迎えた「クレヨンの島」は、作家五木寛之氏によ って、演技・歌唱・美術などの舞台の完成度とともに「権力者が形として残す『 記録』としての歴史ではなく、感情を持って永遠に語り伝えられる、『記憶』を 描いた。」と、絶賛されたのだった。(日刊ゲンダイ1991年8月13日〜22日)
 書けないという言葉と裏腹に、渡辺は演劇の持つ鎮魂の作用を熟知し、死な なければならない人間というものを「人間はこんなに美しい。」と舞台の上で再 生してみせる。舞台上に死者を登場させ、死者を慰めるという手法は、日本の伝 統的な演劇の形態である。しかし、渡辺は、たぶん無意識の内にかもしれないが 、旗揚げ以来の戯曲的なテーマとして、老い、死んでいくものの鎮魂ともいうべ き舞台を創造し続けている。
 二階のおばの世界に近づくにつれ、マコトの目には家族の姿が見えなくなっ て行くが、見えなくなり始めた時点で、すでに家族たちは、雨や家具と同様の見 えない世界の構成員たち、つまり死者へと変化したと見るのは、うがちすぎだろ うか。
3.エチュード
 「TEMPO」の舞台上では、見えるものと見えないものとの基準があいま いになる瞬間を連続的に描き出していく。演劇の持つ虚構性を遺憾なく発揮させ る演出である。パントマイム、早変わり、二役、着ぐるみの家具と、舞台上の役 者の肉体を酷使するものである。
4.成長
 思えば、劇評家扇田昭彦氏によって「三つの世代の男たちによってそれぞれ に深く夢見られた永遠の姉たちのドラマ」と評された「夜の影」(1981年初演)で 自分の恋心を見つめていた少女千草。優しい姉は、「……少年の泡男は少女のあ たしとあそこにいるけど、ここにいるのは中年のあたしだよ。あんたと一緒に年 取って、何年も社会を見てきたおねえちゃんだよ。あんたがあの日、生命を吹き 込む術を見つけてから、こうして一緒だったのを、忘れちゃったんだね、あんた 。あんたが、日々、十二時間の安眠と引き替えに、私にくれた美しいもの……な あんだ?」と言った。「TEMPO」のリクコは、自分の子を「これでやっと夜 と別れることができる。夜にしか生きられない自分を忘れ、自分にさよならする んだと、それは現実と別れること、やっとこれで私は、自分自身で書いた小説の 、単なる登場人物にもどって行けるのよ。さよならマコトちゃん。あなたはきっ と朝の街に暮らし続けてね。」と現実の世界に押し出して消えていく。
 この、千草とリクコの表現の違いの中に、渡辺自身の生きた14年の年月の隔 たりと表現を変えざるを得なかった「リアルな現実」があるのだ。

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27. 「風の降る森」について

 冒頭の場面となる「チベット」は、懐かしい世界として目に映る。動物がし ゃべり、空想の動物が登場し、四姉妹を男優が演じるという点も祝祭的な明るさ を感じさせる。伝説や神話や寓話は信ずるに足るものであり、歴史や生活の知恵 は物語によって伝承されて行く。今の日本人の感覚でその世界をのぞくと、そこ では過去がそのまま時間を止めて待っていたかのように見える。私は以前そこに いたのではないかと思わせる世界である。
 しかし、時間は流れて行く。入れ物としての社会が変わらず、中身の人間が 代替わりしていくのは、伝説や神話が、同じテーマを伝えて時代を越えて語られ ながら、登場する英雄の名を時代ごとの人の名に変えていくのにも似ている。ど んな世界の中でも、人は成長し老いて、生物としては死なねばならない。
 バランス良く成長し、老いるということは難しい。一見記憶の中の理想郷と 思われた「チベット」の四人の姉妹たちはオールドミスとなり、双子の兄弟も、 病弱な兄は、心は子供じみて体ばかり大きくなり、弟は充実した精神を持ってい るが体は子供のままなのである。村を救ういけにえとしてさえ役に立たない兄は 、いけにえとなって死んだ弟の後を追う。自分が「成長」する以前は等質だった 弟は、自分の良い方の半分なのである。
 死んだ兄は彼岸へとやって来る。長い間変質しなかった時代から見た彼岸は 、因習や迷信から解放され、科学的にも経済的にも文化的にも「成長」したはず の「現代の東京」だと渡辺は描く。明治維新があり、震災があり、敗戦があり、 円高があり、アジアからの労働者が増え、悪意のあるテロがあり……、という「 現代の東京」は、江戸=東京の未来の姿ではなく、記憶にある世界から切り離さ れた別世界のように見える。「チベット」のにぎやかでたくましいオールドミス だった四人姉妹も、弱々しく現実に対応できない四人兄弟になっているし、テン ジンギャボに至っては、どこから見ても妙な思春期のあつし少年である。
 人の存在すら、ここでは確証が持てない。豆腐でできたロボットが家族の代 用となり、兄自身さえも、実は、彼自身ではなく、彼や四人兄弟の母親であると いうのだ。
 気がつくと、母親の姿になって日常の中にいる兄は、それでも、自分の成長 のバランスをくずさせた「耳鳴り」を、逆に自分の進む方向として、なくてはな らぬ、自分の良い方の半分を探そうとする。
 「物語」の生きる「チベット」と、「テクノロジー」の「現代の東京」とい う、二つの世界に登場する人物たちの、家族に対する愛は同じ重みに描かれるの で、観客はどちらの世界にも感情移入することが可能である。その上で、渡辺は 負い目を感じながらも「耳鳴り」にひかれて探し続けようとする兄をその二つの 世界に登場させて、見る者に向かって挑発する。「成長」した我々は、体ばかり 大きくなったのではないか。過去に無垢な良い方の自分を持っていたが、現在は 失っているのではないか。そして、どこかに見失ってしまったそれを探している のではないか。実は自分自身の中に探すものの方向を教える「耳鳴り」が聞こえ てはいないか、と。
 渡辺は、探す者への慰めとも、自分自身の決意ともとれる台詞を彼岸に旅立 つ兄に投げかけ、方向を示す。「世界は無垢なるものの犠牲の上に立ち、思われ るものは思う者の愛を盗み、気付くものは気付かぬものの下にいて、……それで も宇宙は空の上に。そして、指先の小さな指紋の中にも。」
 もし、自分がいくらかでも無垢で、思うもので、気付くものであると自負す るならば、そして、「現在」に少しでも居心地の悪さを感じるならば、自分自身 の「耳鳴り」に導かれなくてはならない。自分に欠落してしまった良い方の自分 を探すために、良い方の自分がいるはずの場所の中を探し求めなければならない のである。
 ラストシーンによって、行く着くべき世界が暗示されるが、真に求めるもの は、自分自身の「指先の小さな指紋の中にも」探すべきものを認める、求めよう とするその「心」のようである。

※「風の降る森」 初演1989年5月、於下北沢ザ・スズナリ。 再演19 93年3月、夢人塾第2期生卒業公演於武蔵野芸能劇場(四人姉妹とザシーを女 優が演じる演出)。

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旅.「TEMPO」についての手帳に記されたメモ

1995年4月26日〜1995年12月13日
1995/4/26(水)
「テンポ」ゲネプロ(萬スタジオ)
朝日新聞夕刊(4月25日)に姉のインタビューで「今の若者は見えるものに こだわりすぎる。世の中で目に見えることと見えないことの境は何なのか。」を 問いかけたいとの旨が載っていた。
 その点はストレートに表現できているというか、その点でみれば内容は筋が 一本通じる。
 演劇のシステムとして、舞台上にある物も、ない物も、演技の上では皆等価 である。見えるか見えないかは演技者と観客の合意によるしかない訳で、同一の 舞台なのにせりふや演技によって「もの」が現れたり消えたりするのはそれだけ でおもしろい。また、同じように、雨粒や家具が人間だったり、描かれた絵から 人が飛び出してきたりするのもおもしろい。
 ただ、家族同士の気の使いようとか、描かれた絵が飛び出してくることでわ かる失った日々のせつなさとか、一人の人物の歴史の重さとか、劇が進行するに つれてわかってくる、一人一人の持つその人の個体史の持つせつなさとかがまだ まだ伝わってこない。
 それで、ラストの崩壊の悲しさが劇の主題につながらず、ただの時事を取り 入れただけの印象になってしまっている。もっと観客に感情移入させることが必 要だと思う。
 特に、初めの20分ほどの人物設定のホームドラマが、独立していない。3組 の夫婦が、互いに夫婦に見えないのが一番痛い。
・バス停の次に2階のリクコの部屋になるが、同じ家の食堂の2階であること がわかりづらい。少女Rの絵もなんだかマネキンに見え、ショールームかと思っ た。
・次の食堂のシーンで、家族が食べている物が見えなくなり、脚本家の意図し たことがわかるが、「あっ、そうか。」「やられた。」という楽しさがなくて、 みんな一所懸命だなあと、同情したくなるような感じだ。

1995/5/7(日)
「テンポ」千秋楽15:00の部 萬スタジオ)
 山形に帰ったとき、父に、「クレヨンの島」との比較で「テンポ」を解説し た。「クレヨンの島」の時は、湾岸戦争、「テンポ」の時は阪神大震災とサリン 事件。姉も「実際の大事件があると芝居は書けない。」と言う。似たような条件 だが、劇場の大きさ、舞台の間口、客演の役者の有無、凝った装置の有無、一人 一人が歌う華やかな歌の有無、など好対照である。
 そして、「テンポ」では「クレヨンの島」の時のような物語を伝える不死の 生命もない。登場人物は確実に老い、死ぬのだ。しかし、ラストの湯上の「あな たがいるじゃない。」という台詞のように、不確実な孤独な世界に、個体史を記 憶する自分は存在しているのだ。
 しかし、演劇的なおもしろさと言う点からは、「テンポ」は「クレヨンの島 」に決して劣らない。逆に「演劇的な仕掛け」のスペクタクルは満載で、豪華さ さえ感じさせる。
*見えないものが、登場人物の宣言によって、特定の登場人物に見えたり見え なかったりする。
*「絵だ」と宣言された物が、動き出す。
*舞台上には最初から最後まで本物の(本水の)雨は降らない。客は「見えな い雨」の位相の変化を心ゆくまで楽しむことができる。)
・舞台変換はゲネプロの時と比べて非常にスムーズになっていて、ちゃんと舞 台が変質していく段階がわかるようになっていた。
・家具、雨を演ずる役者たちの顔が、一度見たら夢にでてきそうな個性的な存 在感のある顔で、よい。(まだ見てないがディズニーの「美女と野獣」のポット やティーカップみたいか?)
・少女Rの久保内もちゃんと体重を感じさせない演技をしていた。
☆やっと見えるようになったのに、そこは厳しすぎる孤独の世界だった。しか し、ホームドラマの世界のような家族に囲まれていたときと違うのは、登場人物 一人一人に、それぞれの生き生きとした生活と歴史が存在し、雑踏に埋没する自 分自身にも自分自身の存在が確かにあることが認知されることだ。

1995/12/13(水)
「テンポ」山形公演(遊学館) ゲネプロ・初日
 朝、牡丹雪。だんだん細かくなり、一時激しく降る。父のゴム長を借りて出 かける。
 昨夜、自宅でくつろぐ渡辺えり子に「インタビュー」を敢行し、入り組んだ 人間関係の脚本を書くときには、下書きやチャートを作るのかときいたら、メモ だけで、ぶっつけで書くそうだ。「全部頭の中。だから何年かたつと、どうして この台詞を書いたかわからなくなることがある。」ということだった。ただ、台 詞は、赤系統、青系統などと色で分類しておくそうだ。あと、「誰がいつ何歳か 、と言う年齢については、つじつまが合わなくなるのでちゃんと気をつけて書く 。」とのこと。
 ゲネプロを見て、肉親や、兄弟という、家族としてのアンサンブルがよくで きていたと思う。初演の時は、食事が全部朝食のようにあわただしかったが、第 一の食事の場面もちゃんと夕食に見えた。
 後半、思わずなみだがでた。樋口の、「それでは、兄弟のように、その本を 読んであげよう」という台詞は、実は伯母である母を残して家族を失うシンジの 、新しく自らが発見した人間関係を象徴しているようだ。全てを失う訳ではなく 、新しく生まれるものも確かにあるのだ。
 死んでしまった「青木」と言う男をめぐる少女R(ルミコ)、リクコ、シマ コの関係が初演のときよりもはっきりした(強調された)印象。→☆女優の存在 感か?
 少女Rのモデルだったルミコの人生と死が語られると、ずっと絵の中にいて 雨も知らなかった少女Rは、ラストで、傘を手に微笑む。三人の女の思い出と人 生が再び一枚の絵に重なるのだ。その、三人が人生を重ねることのできる、作品 としての絵の存在は、見えないものを探求せざるを得ないシンジの一つの希望を 示すものになる。→☆創作の結果としての「作品」は残る
 作品として残る肖像画は読み解かれる日々を待ち、肖像は我々に術をかける 日を待っている。
・初演の時にはシンジの痛みしか感じられなかったが、山形で見た時には、希 望という面での解釈ができる作品になっていたと思う。

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28.「深夜特急」めざめれば別の国

−死者を語ること−
 もしも肉親が死んでしまったら、そして、その肉親が我が子で、しかも自ら 命を絶ったのだとしたら、親や家族の悲しみや悔恨はどれほどだろうか。石原家 の人々は息子である北斗の自殺という事実を認められない。北斗の死という事実 は、石原家にのしかかり、痛ましい生活が続く。
 劇の終盤で、北斗は、自殺という事実に苦しむ石原に「術」をかける。
「この心臓には術がかかってて、願い事が叶うのさ、だから僕は父さんを生か そうと思う。父さんはもう一度生きるのさ。」
北斗の術によって、石原家は死の呪縛から解かれるように見える。
 死者が生きている者たちにかける「術」とはなんだろうか。
 北斗の死後、北斗の死から逃れようと、その死を認めたがらない石原家の様 子について、北斗の姉のさくらは言う。
「・・・おじさん、あたし達あれからちっとも話をしないんです。・・・」
「ないのよ、話なんかもうないの。」
 石原家に現れる北斗の担任教師が言う。
「話さなくていいんですか?北斗君が学校ではどんな子だったのか。どんな風 に発言し、どんな時に笑い、どんな事に興味を示したか。誰と仲がよくて、クラ スのみんなにどう思われていたか。あの日の前の日、私が北斗君をしかったりし なかったのか。何か気に病んでいたような素振りはなかったのか・・・何か訊い て下さい。何でもお話ししますから。・・・」
その問いかけに母親の哲子は、
「聞いたって仕方ないわ、北斗はいないんだもの。聞いたらあなた、楽になる んですか?楽になってどうするの。何も変わらないのに。」
と対立する。
 そして、その対立は、北斗の「術」によって解決する。石原は初めて北斗の 機関車へのあこがれを聞き、自分の思い出と重ね合わせる。母親は北斗の思い出 を語り始める。北斗の作文が朗読され、創作の世界が語られる中で、母親は眠り から覚めたように口を開く。
「・・・いつだったか、私の枕元に花丸のついた作文が置いてあった。私は、 その作文をろくに見もしないで北斗の机に返したんだわ。そして次の日北斗が『 かあさんどうだった?』って聞いた時、私は『何が?』って言ったのよ。『何が ?』って。・・・北斗は黙ってニヤニヤしてた。そして『何でもないよ』って笑 ったから、私『うるさい子ね』って言ったのよ・・・。」
そう語り終えた時、北斗は作文の通り、カエル達やおじさんとともに空を駆け 、彼の思いは完結するのである。
 北斗を失った家族は死者を「語る」ことで死を認め、初めて新しい生活へ向 かって旅立つことができる。観客は理解する。死者が生きている者にかける術と は、「死者を思い出すこと。死者の思い出を語ること。」なのだと。
 渡辺の作品は舞台上で、登場人物によく死者について独白させる。例えば、 「TEMPO」(1995年4〜5月・12月)では青木力が、旅芸人の奥さんだった 母が、観客に殺された様子を、シンジに語る場面があった。「赤い靴」(1994年 8月)では一郎が、彼の一家の来歴と父親の死、母親の自殺について語る場面が あった。「月に眠る人」(1993年6月)では、亀治の語る、亀治の命名にまつわ る一家の歴史を聞きながら、病床のマツが息を引き取る場面があった。1995年8 月に再演された「風の降る森」では、オカラと化した遺体で村を救った英雄、テ ンジンギャボの生涯や、自らの命を捨てて人々を救った牛の伝説が、朗々と語ら れた。
 ではなぜ、渡辺はそのように死者について「語る」ことにこだわるのだろう か。
 歴史的に見て、劇場は異界への入り口である。別に劇場でなくても、例えば 大傘をさして辻に立ち、ささらをすりながら「説教」を語った芸能者は、広げた 傘の下がすでに異界であった。そこで語られる世界は、現実の体験をしたことと 同等の衝撃を、見る者にあたえたのだった。日本の伝統的な「語る」芸能は、「 此岸に彼岸を出現させるといった技術」(「説教とから傘」山本吉左右著平凡社 選書「くつわの音がざざめいて」より)であった。
 乱暴な言い方をすれば、伝統的な「語る」芸能は死者を語り鎮め、この世の 災いをなさぬように、無事彼岸へ立ち去ってもらうものであった。渡辺は伝統的 な作品の動機、(−舞台上に死者を、あるいはやがて死ぬべき人間を登場させ、 その無念を美しく再生すること−)によって劇を作っているように見える。伝統 的な舞台と渡辺の意図のと接点が、「語る」ことなのではないだろうか。
 「深夜特急」の冒頭の美しさ、懐かしさは印象深い。客席の電灯が落とされ た瞬間から、舞台の上では思い出が軽々と時間をこえてゆく。幼い心が「星の心 臓」に見立てた石(空の星への幼いあこがれとしての流れ星と、「血」を送り出 す内蔵としての心臓と、肉親の血脈や列車事故で飛び散る肉片や、解剖されてな お脈打つカエルの心臓が重ね合わされる。)を手に取る度、肉親にまつわる思い 出は生き生きと動き出し、死者たちは思い出の中の年齢のまま、語り合う。(幼 いまま死を選んだ北斗は、その思い出の死者の中では幼い役割を与えられる。) 観客は談笑する死者を見るのだ。
 時間を跳び越え生き生きと語り合うのは、死者でなくても観客各々の記憶の 中の幼い自分自身と、まだ年若い肉親の記憶であってもいっこうに差し支えない 。記憶の中の風景は、死者と同じく、現在は存在しないものだからだ。幼い自分 自身と若い父親を組み合わせても、若い父と今の年齢の自分を組み合わせて談笑 してもいいのだ。その美しさ、懐かしさは、現実の子を失った石原家の固くこわ ばった冷たさに対比される。
 前作「TEMPO」では、死は真摯に受け止められ、家族を失ったシンジは 何を見るのかという、家族を失う痛みや喪失感が描かれていた。そして、今回の 作品では、肉親を失う家族の痛みに「癒し」が与えられていると思う。
 死者を「語る」ことで死者に思いを致すことが、その「癒し」なのだと渡辺 は言いたいのではないだろうか。「星の心臓」を手にする度に時間を軽々とこえ る北斗、富士夫、与一の三世代の死者たちの懐かしさは、生き残るこの世の者た ちの冷たいこわばりに比べて暖かな伸びやかさに満ちている。その生き生きとし た様子は「死者」のものなのである。

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30.独断!「深夜特急」鑑賞のポイント

 「深夜特急」は1997年1月〜2月に、東京・大阪・山形で再演の予定である。 戯曲についてはファンクラブ通信創刊号に拙文を掲載していただいたので、ここ で再演のための鑑賞のポイントを独断的に述べたいと思う。
 私の場合、まずそれは、「場面転換の小気味よさに感動できるかどうか」で ある。
 たとえば、もともとは、若手実験公演として上演された「夜よさよなら」は 、見えない雨、見えない人物、見えない家具、動き出す肖像画などの、舞台の持 つ虚構性を重く用いた作品だった。舞台に登場するものが、それこそ「劇的に」 変化するのである。
 それに対して、「深夜特急」では、舞台に登場している人物に別の登場人物 が加わったとたん、会話だけで場面が別の人間関係へと転換を見せる、という場 面が多い作品である。日常的な会話を交わしている、舞台上の空間が、実はどん なことでも作り出せる虚構性を持った空間だったのだ、ということを改めて感じ させてくれるのである。幕や暗転の力を借りられない分だけ。後者の方が演技的 には難しいはずである。
 役者として会話で人間関係や場面を急転させられるかどうかが、作品のでき を左右する大きなポイントとなる。初演では自由自在に演じているように見える 渡辺に対して、若手に経験の差を感じる場面もあったようだ。今回の再演では渡 辺をくってしまうような魅力のある演技を大いに期待している。
 もちろん、その若手の成長も鑑賞のポイントのひとつである。

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