西島三重子物語その11
その後の「西島三重子物語」最終回
 副業(?)としてイラストや絵本などに精を出していた時期があった。これはNHKみんな
のうたに採用された曲「あいつのハンググライダ−」のイラストを担当した黒木健氏との
出会いから始まり、三重子の多才な一面が発揮された。
 この頃、マネージャーというべき人はいなかったが、TOEMIミュージックオフィスのちア
オイスタジオの河野昌二氏が担当になり、現在に至っている。
 プライベートな面では、平成4年に最愛の母を肺がんで亡くした。三重子はショックで、
しばらく何もする気がなく、つらい日々を過ごした。
 この時期に初のエッセー本を執筆している。題して『ヤクシ団欒物語』。出版は平成8年。
これは三重子の半生をたどった内容もので、都会では失われつつある大家族の生活など
を淡々と綴っている。かなりの時間をかけての力作である。今まであまり知られていなかっ
た私生活がのぞけて興味深い。
右端が、河野さん
 97年、東京・青山の読売カルチャースクールでシャンソン講座の講師を3カ月間勤めるこ
とになった。生徒は主婦中心の数人だったが、現役のプロ歌手に直接個人指導という形
で教えてもらえるとあって大好評だった。そのため講習期間が過ぎても延長する希望があ
り、現在も続いている。ほかに平尾昌晃ミュージックスクールの講師としても、プロ歌手を
目指している若い女の子に指導している。三重子自身にとっても一緒に発声訓練ができ
て、とても有意義な時間になっている。
 もう10年近くオリジナル曲を出していない。たまにあるライブでも昔の曲ばかりで、マ
ンネリ化してしまった感があった。
 しかし97年になると、憂歌団の木村充揮(あつき)氏、北海道で音楽活動している福
沢恵介氏とのデュエットの話が持ち上がった。彼らのCDにそれぞれ数曲参加する頃か
ら再び上潮の気配がしてきた。
 そして、98年、スキー仲間でもあるワーナー時代の友人との交際がきっかけになりC
Dを制作することになった。特筆すべきは、かつて名コンビを組んだあの作詞家門谷憲
二氏との作品があることだ。10数年振りのコンビ復活である。
 98年11月、本当に久しぶりに、ファン待望のオリジナルCDがメディアリングから出た。
題して「つまんないものよ私の心」。マネージャー河野氏の積極的な売り込みにより、
雑誌、ラジオ番組などに出演する機会が増え、一気に活気づいた。
 そして99年1月、MANDALAライブに出演。これを待ち望んだ我々ファンも嬉しい限り
であった。まさに復活という言葉が適切だった。

                             (おわり)
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