この7番の成功の翌年、既にレニングラードを脱出してクイビシェフに移ったショスタコーヴィチは交響曲第8番に着手します。交響曲第8番は、ショスタコーヴィチの15曲の交響曲の中でも演奏時間の長い方に属する曲にもかかわらず、わずか2ケ月で書き上げられました。ピアノスケッチはわずか1日で出来上がったとされています(1943年7月7日)。しかしちょうどその頃、ソ連社会主義共和国連邦の新しい国歌を選ぶコンクールが開催され、ショスタコーヴィチはその審査員として参加します。エントリーされた曲のすべてを聴き、同じ曲の様々な編曲を聴くといった激務をこなしていたため、第1楽章が完成されたのは同年8月31日にずれ込みます。その数日後、家族を連れてモスクワの北西300kmに位置するイヴァノヴォにある「創作の家」に移り住み(のちにプロコフィエフもこの住居で交響曲第5番を完成させています。)、作曲に専念します。唯一筆を止めたのは、毎日5時から他の作曲家達とバレーボールの試合をした時だけでした。ショスタコーヴィチはスポーツマンと言えるほどではなかったようですが、1920-30年代にレニングラード郊外で行なわれたバレーボール大会のレフェリーをしたことがあったそうで、音楽家としてはめずらしくスポーツにはかなりの関心を持っていたようです。(Shostakovich:
a life : Laurel E. Fay Oxford University Press)同年9月9日、交響曲第8番は完成します。その頃、交響曲第5番初演の指揮をしたレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキーがショスタコーヴィチを訪ねます。作曲家は交響曲第8番のスコアを彼に見せ、初演の指揮を委ねることを決めます。
第1楽章 Adagio - Allegro non troppo
第2楽章 Allegretto
第3楽章 Allegro non troppo
この中間部でオール・ダウンボウの弦楽器による下降半音階がありますが、これはこの曲の作曲中にソビエトの国歌を選ぶコンクールの審査員として参加した際、同じ審査員をしていたハチャトリアンの代表作『ガイーヌ』の「剣の舞」(1942年)の借用と考えられます。
第4楽章 Largo
第5楽章 Allegretto
参考文献:
Cincinnati Symphony Orchestra Programme notes October 2008 by Jonathan D. Kramer
London Shostakovich Orchestra - November 2000 Programme notes by Kristian
Hibber
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