ショスタコーヴィチ:交響曲第8番


             Kazimir Malevich(1878-1935) Head of a Peasant(1928-32)


Ⅰ 作品の成立と背景

 交響曲第8番の解説を行なうにあたり、その作曲から7年前に遡ることにします。
 1936年1月、それまで好評だったショスタコーヴィチ2作目の歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の公演を観に来ていたスターリンが、その内容に激怒して途中で退席、『プラウダ』紙に「音楽のかわりに荒唐無稽」と題した無署名の批評が掲載されます。

 しかしこれは単にスターリンの気まぐれに発したものではなく、当時の芸術に対する統制下における象徴的な事件といえます。1932年、いくつかの音楽組織を統合してソ連作曲家同盟が設立され、アンドレイ・ジダーノフが1934年、社会主義レアリズムの手法の創始者であり、社会活動家でもあった作家マクシム・ゴーリキーの思想を取り入れ、芸術作品は時代に同調すべきで、「社会主義革命が発展しているという現実を真実と歴史的具体性をもって表現」しなければならない、と要求します。共産主義のイデオロギーと政権をサポートすべく、愛国的であることが第一に求められ、なるべく話題性と民族音楽の要素を加え、シンプルであり同時に大衆に受け入れられることとされたのです。ショスタコーヴィチは、血に飢えたジダーノフとその一派によってまさに絶好の餌食になってしまったと言えます。

 これ以後ショスタコーヴィチは、「人民の敵」というレッテルは貼られ、作曲家生命と家族の生活まで危機に直面することになります。この批判に応えて作曲されたのが1937年の交響曲第5番『革命』で、ソ連政府が強制する社会主義リアリズムへと作風を大きく転換させた作品となります。この曲は、熱狂的な聴衆の支持を得ると同時に当局の歓迎を受けることになり、1939年、ショスタコーヴィチはレニングラード音楽院の作曲科の教授に任命というかたちで名誉回復を勝ち取ります。しかし、安定した作曲家としての活動の場を得たのもつかの間、1941年6月に勃発した独ソ戦により、ナチス・ドイツによるソ連への侵攻が開始され、ドイツ軍の北方軍集団はレニングラードに迫り、同年9月8日、レニングラードは完全に包囲されます。この緊迫した情勢下、レニングラード包囲直前の1941年8月頃から作曲が開始されたのが交響曲第7番で、同年12月17日に完成されます。

 1942年3月5日に臨時首都・クイビシェフで初演後、「国家機密」扱いとされクイビシェフでスコアがマイクロフィルムに収められた後、陸路でテヘランに運ばれカイロ経由で連合国側国家に運ばれます。1942年7月19日、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団による米国初演が全世界にラジオ中継され、連合国側の反ファシズム運動の象徴としてショスタコーヴィチの名は一躍国際舞台に踊り出ます。レニングラード市内で作曲されたこの曲は、死者67万人とも110万人ともいわれる防衛戦に苦しむレニングラード市民にささげるために書かれた曲であって、そのような政治的な意図を持って書かれたのではないとする説があるように、ショスタコーヴィチは国家間の覇権・利権をめぐる巨大なうねりのただ中に放り込まれ、毀誉褒貶の嵐に翻弄されながら、作曲活動を続けていました。

 この7番の成功の翌年、既にレニングラードを脱出してクイビシェフに移ったショスタコーヴィチは交響曲第8番に着手します。交響曲第8番は、ショスタコーヴィチの15曲の交響曲の中でも演奏時間の長い方に属する曲にもかかわらず、わずか2ケ月で書き上げられました。ピアノスケッチはわずか1日で出来上がったとされています(1943年7月7日)。しかしちょうどその頃、ソ連社会主義共和国連邦の新しい国歌を選ぶコンクールが開催され、ショスタコーヴィチはその審査員として参加します。エントリーされた曲のすべてを聴き、同じ曲の様々な編曲を聴くといった激務をこなしていたため、第1楽章が完成されたのは同年8月31日にずれ込みます。その数日後、家族を連れてモスクワの北西300kmに位置するイヴァノヴォにある「創作の家」に移り住み(のちにプロコフィエフもこの住居で交響曲第5番を完成させています。)、作曲に専念します。唯一筆を止めたのは、毎日5時から他の作曲家達とバレーボールの試合をした時だけでした。ショスタコーヴィチはスポーツマンと言えるほどではなかったようですが、1920-30年代にレニングラード郊外で行なわれたバレーボール大会のレフェリーをしたことがあったそうで、音楽家としてはめずらしくスポーツにはかなりの関心を持っていたようです。(Shostakovich: a life : Laurel E. Fay Oxford University Press)同年9月9日、交響曲第8番は完成します。その頃、交響曲第5番初演の指揮をしたレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキーがショスタコーヴィチを訪ねます。作曲家は交響曲第8番のスコアを彼に見せ、初演の指揮を委ねることを決めます。

 作品は1943年9月21日にまず芸術問題委員会のメンバーに紹介されたうえで、同年の11月14日に、モスクワ音学院大ホールでエフゲニー・ムラヴィンスキーの指揮するレニングラード・フィルハーモニー交響楽団によって初演されました。国外では、翌年の1944年の4月2日にアルトゥーロ・ロジンスキー、4月21日にボストンでセルゲイ・クーセヴィツキー、5月26日にメキシコでカルロス・チャベス、7月23日にロンドンでヘンリー・ウッド卿の指揮でそれぞれ行われました。


          

II 初演後の評価とジダーノフ批判

 ショスタコーヴィチは、勝者が誰もいない時にとても勝利の交響曲を書くことはでないとして、この作品では戦争での恐ろしく悲惨な体験に基づく人々の感情を表現しようと試みました。音楽学者ボリス・シュワルツは「この8番の交響曲は、悲惨さ、諦観、真の平和への強い願望といった作曲家の成熟した考え方が表現されていて、決して騒々しい勝利の祝典ではない」と述べています。

 こうした重苦しい抑鬱された作品は当局を喜ばせることは到底無理だったのですが、当時独ソ戦にかかりっきりのスターリンとその部下たちはショスタコーヴィチによる党方針へのあからさまな嘲りともいえる行為に構っている余裕がなかったことも事実でした。また、前作の7番において世界的に知れ渡ったことも彼の一時的とはいえ身の安全を保障していました。世界中が次なる戦争交響曲の作曲を期待する中、アメリカのCBSラジオはソ連政府に最初のアメリカでの放送権として$10,000を約束していたという説もあります。

          
 しかし、党としては勝利を謳い上げる愛国的な作品とは程遠いこの8番の交響曲は受け入れがたいものでした。一方では、ソビエトではあからさまなペシミズムとして糾弾されるべき作品であっても、西側では反戦を推し進める作品として歓迎されていきました。このようにして後のいわゆる「ジダーノフ批判」の種は確実に捲かれていったのです

 戦争が終結するとスターリンは反米・反西側の立場を鮮明し、西側に通じる人々への弾圧を強めました。西側で評価が高いショスタコーヴィチの立場は急転します。西側の聴衆は、第1楽章冒頭の長い憂愁、第2楽章の皮肉や嘲笑、第3楽章の脅迫観念、第4楽章の容赦ない繰り返し、時に穏やかで時に力強く時に刹那的な希望に満たされる終楽章をよく理解していました。スターリンとその取り巻きは、西側でその交響曲を理解され、ソビエト国内でも誰もその批判を表明するものがいないという事実を知っていました。当局としてはまさに、その作曲家がソビエトの絶望を世界に伝えることを阻止するために、何らかのドラスティックな手を打つことが急務だったのです。こうして事態は1948年のパージへと必然的に展開していきます。

 1948年、スターリンは1934年まで遡って党としての芸術に対する立場を明らかにしてきたジダーノフを登用し、いわゆる「ジダーノフ批判」と呼ばれるパージが開始されます。かつては讃えられた作品も批判の対象となり、ジダーノフはソビエト人民の精神に反する作曲行為を犯した作曲家のリストを作成します。ショスタコーヴィチとプロコフィエフはその最初の行を飾ったのでした。実際にこの二人に手を下したのは、ジダーノフによってソ連作曲家同盟の書記長に任命された作曲家のティホン・フレンニコフで、同年のソ連作曲家同盟総会の席上でプロコフィエフとショスタコーヴィチに名指しで「形式主義者」の烙印を押したのでした。ここでは、許可なく作曲をするなど反抗する作曲家は3日間の査問でその罪を列挙され、人民に謝罪を強いられました。

 こうして交響曲第8番は厳しい批判に晒されることになり、「この8番の交響曲について、いい作品か悪い作品かの議論はまだあるかもしれないが、そんな議論は無意味である。人民の観点から、8番は全く音楽的な作品ではない。芸術とはおよそ無関係な『コンポジション』にしか過ぎない。」と宣告されます。

 1948年から続いたパージは、同年8月のジダーノフの死(スターリンの有力な後継者の一人として脚光を浴びていましたが、1948年8月31日モスクワで急死。)にもかかわらず1953年のスターリンの死まで継続されます(宣言が解除されたのは1958年5月28日)。その間、ショスタコーヴィチは1曲の交響曲も書いていません。その代わり、彼は生き残るべく社会主義リアリズムの協議に従い、強制的に書かせられた映画音楽や愛国的な小品を作曲し続けました。この間の彼の作品は、単純で、直接的、色彩豊かで、とっつきやすいものとなっています。
 

III 作品について

 ショスタコーヴィチは、交響曲第8番について以下のように語っています。
 ・・・戦争は途方もない悲しみと厳しい、本当に厳しい生活を我々に強いた。さらなる悲しみと、とめどもない涙。しかし、戦争の前はもっとひどかった。なぜなら、誰もが孤独で悲しみに打ちひしがれてからだ。レニングラードでは戦争の前でさえ、家族の一員、父親、兄弟、親戚、親しい友人、を失わなかった家は一軒もなかった。大声で泣きたくても、誰にも見られないように毛布を被って静かに泣かなければならないのだ。誰もが他の誰かを恐れ、悲しみは我々を圧迫し窒息させていた。私も窒息寸前だった。これについて書かねばならない、それが私の責任であり義務だと思った。私は、死んでいった人や苦しんでいる人たちのためのレクイエムを書かねばならない、と。この恐ろしい殺戮マシーンを描かなければならないのだ。7番と8番の交響曲は私のレクイエムだ。・・・・これらの作品にまつわる大騒ぎがいつまでも続くことは願い下げだ。私の人生で最も知られた事柄について多くのことが書かれてきた。・・・私の作品が西側で演奏されるのは嬉しかったが、皆がほとんど関係のないことではなくもっと音楽のことを語ってくれるほうがよかった。・・
 

第1楽章 Adagio - Allegro non troppo  
第2楽章 Allegretto
第3楽章 Allegro non troppo
 この中間部でオール・ダウンボウの弦楽器による下降半音階がありますが、これはこの曲の作曲中にソビエトの国歌を選ぶコンクールの審査員として参加した際、同じ審査員をしていたハチャトリアンの代表作『ガイーヌ』の「剣の舞」(1942年)の借用と考えられます。
第4楽章 Largo
第5楽章 Allegretto


参考文献:
Cincinnati Symphony Orchestra Programme notes October 2008 by Jonathan D. Kramer
London Shostakovich Orchestra - November 2000 Programme notes by Kristian Hibber     


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