プーランク : バレエ組曲『牝鹿』

プーランク  レーシングチーム・ラルースのスポンサーでもあったローヌ・プーラン(リア・ウイングにPOULENCの文字)  プーランク

 1899年1月7日パリに生まれた我らがフランシス・プーランクの父親は、現在でもフランスを代表する化学薬品メーカーRhone-Poulenc(ローヌ・プーラン)の創始者のひとりでしたが、音楽好きでコロンヌ管弦楽団のパトロンにもなっていました。母親はアマチュアながら優れたピアノ奏者で、プーランクは彼女からピアノの手ほどきを受けています。こうした音楽的環境に育ったプーランクはストラヴィンスキーの『火の鳥』(1910年)、『春の祭典』(1913年)の初演にも立ち会ったとされています。今でいえば小学4年から中学3年くらいでしょうか。(なお、この間ドヴォルザーク、マーラーらが相次いで世を去っています。R.シュトラウスが歌劇『ばらの騎士』を書いたのもこの頃です。)


 父親の反対でパリ音楽院には行かずリセ・コンドルセに入学したプーランクは、ピアノをリカルド・ヴィニエス、作曲をシャルル・ケクランに学びます。この間、「フランス6人組」と呼ばれるグループにプーランクは名を連ね(オーリック、ミヨー、タイユフュール、デュレー、オネゲル)、コクトーなどとサロンに出入りするようになります。この6人組の作品『エッフエル塔の花嫁花婿』に熱狂したのがクリスチャン・ディオールで、その両親の反対を押し切って作曲を学び、コクトーらのサロンに顔を出すようになります。しかし、ディオールやがてその志を捨ててしまいます。のちに彼は「友人たちの中でとりわけプーランクの才能に圧倒されて、自分は作曲する意欲を失ってしまった」と述べています。この二人の出会いのおかげでディオールは1947年パリのモード界で衝撃的なデビューを果たすのです。もちろん、ふたりの親交はその後も続き、ディオールは1950年「プーランク」という名の舞踏会用ドレスを発表しています。

 1917年20歳のプーランクはアポリネールの詩集『動物小品集』に曲をつけます。当時、詩人アポリネールの妻だった画家マリー・ローランサンから絶賛されますが、このことはのちの『牝鹿』成立のひとつの契機とされています。


マリー・ローランサン(1883〜1956)1909年頃  マリー・ローランサンの作品(自画像)  初演当時の踊手  初演当時の踊手(女主人)


 1922年に第1次世界大戦が終結するとプーランクは仲間の作曲家ミヨーとウィーンへと旅立ち、マーラーの未亡人アルマ・マーラーの紹介でシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンと会います。14歳のとき既にシューンベルクの楽譜を持ちその音楽に精通していたプーランクはシェーンベルクの家に招かれ、彼から十二音の音楽理論を聞いたとされています。パリに戻ったプーランクはピアノ協奏曲第2番の初演のためパリに来ていたバルトークを自宅に招いたりしています。
 
 この頃、ストラヴィンスキーの『火の鳥』、『春の祭典』などでパリを席巻していたロシアバレエ団のディアギレフからバレエ曲の依頼を受けます。1923年、再びミヨーと旅に出たプーランクはイタリアで多くの作曲家達と交流を深めた後、モンテカルロに落ち着きます。ここで依頼を受けたバレエ曲の作曲を開始します。この年の6月頃、タクシーに乗っていた最中にタイトル『牝鹿』がプーランクの頭に閃いたとされています。曲はその年のうちに完成されました。ときにプーランク24歳でした。翌1924年1月6日、モンテカルロでロシアバレエ団によって初演されます。コクトーの脚本、ニジンスカの振り付けと主演、ローランサンの舞台と衣装という豪華な顔ぶれでした。プーランク25歳の誕生日の翌日だったわけです。

 このバレエ曲はショパンの『レ・シルフィード』の現代版として考案され、特にストーリーはありません。題名の『Les Biches牝鹿』は文字とおりの意味の他に「若い娘たち」「かわいこちゃん」といった意味があります。初演時の舞台は1920年代の優雅な宴の気分を舞踏化したもので、白い部屋に大きな青いソファが唯一の家具として置かれ、夏の午後、3人の水着姿の青年が16人の娘たちと無邪気にときには不道徳にパーティーを楽しむといった内容のものでした。当時の記録に、「ローランサンのデコール<背景と装置>はホワイトを基調とし、淡いブルーその他の淡い色を配合したものでコスチュームも同様だった。このバレエ全体としては非常に深いものはもっていないが、たいそう愉しく、お客をしんから喜ばせた。」と書かれています。別の資料によると、男らしさを競い合うかのごとき3人の男性客に、不思議な雰囲気のボーイッシュな美女を風刺的に描き、思わせぶりな女たちの踊りと、宝石に飾られ長いシガレット・ホルダーをくゆらす女主人などが、まさに当時の上流社会のハイカラさとデカダンスを巧みに表現している、とあります。

ローランサンの Les Biches と題する絵画  ローランサンの Les Biches と題する絵画  ローランサンの Les Biches と題する絵画  ローランサンの Les Biches と題する絵画


曲について

 曲は合唱を伴うナンバーがありましたが(歌詞はプーランクが選んだフランスの古いシャンソン)、実際に合唱付きで演奏されたのは初演の時だけで、後にパリで演奏されたときは歌を省いたとされています。さらにプーランクは序曲と歌付きのナンバーを削除して少々オーケストレーションを縮小した組曲版を1939年に発表しています。立川管弦楽団が演奏するのはこの版になります。

第1曲 ロンド
 パーティーの始まりです(全曲版では序曲があり、パーティーを予告します。)。明るく軽やかなトランペットがロンドを先導します。

第2曲 アダ−ジェット
 チャイコフスキーのバレエ『眠りの森の美女』を暗示しています。オーボエの旋律はトランペットへ受け継がれ、クライマックスを築いた後、再びオーボエに戻ります。この場面はブルーの衣装をまとった牝鹿(娘)たちが踊りますが、当時「振り付けに新しいスタイルを導入した」と評されています。

第3曲 ラグ・マズルカ
 ポーランドの「マズルカ」のリズムとアメリカの「ラグタイム」のシンコペーションとを混ぜ合わせています。舞台では女主人がソファに身を投げ出して誘惑的な踊りを青年二人と演じます。

第4曲 アンダンティーノ
 バス・クラとチェロ、チェロとファゴット、フルートとオーボエ、ヴァイリンと組みあわせの妙を聴かせます。

第5曲 終曲 
 タランテラのリズムでキビキビと進行するプレストです。


牝鹿 CDリスト


指揮者・・・・・・・・・・・・管弦楽団・・・・・・・・・・・・録音年月・・レーベル
デゾミエール・・・・パリ音楽院管弦楽団・・・・・・・・・1951.6 DECCA 組曲
フィストラーリ・・・・ロンドン交響楽団・・・・・・・・・・・1954.1 Dutton 組曲
プレートル・・・・・・パリ音楽院管弦楽団・・・・・・・・・1961.9 EMI 組曲
マルケヴィッチ・・・モンテカルロ歌劇場管弦楽団・・・1972 Ades 組曲
フレモー・・・・・・・・バーミンガム市交響楽団・・・・・・1973.8 EMI 組曲
フレモー・・・・・・・・ルクセンブルク放送管弦楽団・・・? VOX 組曲
ハイティンク・・・・・・ロイヤル・コンセルトヘボウ・・・・? Q DISC 組曲
プレートル・・・・・・・フィルハーモニア管弦楽団・・・・1980.11 EMI. 全曲
ヴァーレク・・・・・・・チェコ・フィルハーモニア・・・・・・1985.1 Supraphon 組曲
ヴィオッティ・・・・・・南西ドイツ放送管弦楽団・・・・・・1989 claves 組曲
ビシュコフ・・・・・・・パリ管弦楽団・・・・・・・・・・・・・・1991.4 Philips 全曲
Y.P=トルトリエ・・・・ウルスター管弦楽団・・・・・・・・・1991.5 CHAMDOS 組曲
デュトワ・・・・・・・・フランス国立管弦楽団・・・・・・・・1995.12 DECCA 組曲
広上 淳一・・・・・・ロイヤル・リヴァプール・・・・・・・・? RLPOLIVE 組曲
ワーグナー・・・・・・オーデンセ交響楽団・・・・・・・・・1998 CLASSICO 組曲

(2002年現在)

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