ファリャ : 三角帽子 

   
 この曲はバレエ音楽で、全曲の他に、第一組曲、第二組曲とがあります。今回取り上げるのは以下の通りです

第一組曲
「粉屋の女房の踊り(途中カットあり)」
第二組曲
「近所の人々の踊り」
「粉屋の踊り」
「フィナーレ」

 バレエ曲ということはストーリーがありますので簡単にご説明いたします。

 1919年にアンセルメの指揮、ピカソの舞台装置および衣装で初演されたこの曲はかのディアギレフの依頼による2部構成のバレエ曲で女声の独唱がつきます。題名の「三角帽子」は登場人物であるドジな市長がかぶっている帽子のことで、さしずめ権威のシンボルということになります。

 粉屋の前を通りがかった市長(いつも夫人に尻にひかれているのですが)がそこの美人の女房に一目惚れしたことが話しの始まりです。

 「粉屋の女房の踊り」 市長の前で女房が踊るファンタンゴで、精力的で激しくかつ官能的な踊りです。市長が彼女に接吻を迫ってころんだり、粉屋の亭主が出てきて市長についた埃を払うふりして市長を殴ったり、市長がその場を取り繕って帰るシーンをカットします。その先は二人きりになって再度ファンタンゴを踊る場面となります。ファンタンゴは、アンダルシア地方の踊りでギターとカスタネットの伴奏で2人で踊られます。アルベニスの「イベリア」、モーツァルトの「フィガロの結婚」第3幕のフィナーレ、R=コルサコフの「スペイン奇想曲」で採用されています。また、プッチーニの「ボエーム」の終幕でショナールが「ファンタンゴ!」と叫んでステップを踏むのを覚えていますか?オケもその一節をかき鳴らしましたね。

 「近所の人々の踊り」 その夜はサン・ホアン(聖ヨハネ)の祭りです。村人が粉屋の家に集まってセギディーリャを踊ります。

 「粉屋の踊り」 女房に促されて亭主がファールカを踊ります。ファールカはアンダルシア地方の踊りで「向こう見ずな」という意味があり、とどまることを知らぬ勇敢さと激しい情熱を表現するもので男性ソロで踊られます。この曲が終わると我々はフィナーレに飛びます。

 その間、舞台ではベートーヴェンの運命の動機が鳴って警官が扉に現われ、いきなり粉屋の亭主を引っ立ててしまいます。ひとりぼっちになった女房のところに市長が訪ねてきます。そう、警官がきたのは市長の企みだったのです。粉屋の女房に今度こそ言い寄ろうと準備万端整えた市長でしたが、粉屋の前の橋を渡ろうとして足を踏み外し、川にザブンと落ちてしまいます。女房が亭主を探しに出かけた後、寒さに震える市長は帽子と服を脱いで粉屋のベッドにもぐりこみ、寝入ってしまいます。

 やっとのことで逃げてきた粉屋の亭主は自分の家に帰ってびっくり。三角帽子と服が部屋に置いてあり、市長がベッドの中に! 亭主は怒って壁に「復讐してやる」と書いて市長の夫人のところへ飛び出していきます。目が覚めた市長は壁の言葉を読むと大慌てで粉屋の服を着て出かけます。ここから「フィナーレ」となります。

 「フィナーレ」 冒頭は粉屋を逃がした警官が走ってくる様子を表わしています。練習番号1番のテーマはホタという踊りです。ヴァイオリンの方ご存知でしょうが、サラサーテやファリャの名曲がありますね。シャブリエの「スペイン狂詩曲」でも使われています。

 粉屋の服を着た市長と警官がもつれ合っているところに粉屋の女房が帰ってきて自分の亭主がやられていると勘違い。近所の人々も加わって大騒ぎになります。さらに復讐を果たせなかった粉屋の亭主が戻ってきて自分の女房が市長を助けているのを見て仰天。騒ぎはますます大きくなります。

 結局最後は誤解が解けてすべては市長が悪いということになり、仲直りした粉屋の夫婦を中心に一同踊ります。三角帽子は踏みにじられボロボロになって幕となります。

 余談を三つ。若い頃、ファリャは作曲コンクールに優勝してもマドリードで演奏してもらえないため、パリに出かけます。まず尊敬するドビュッシーを訪問して「ボ、ボクは、フランス音楽が大好きです。」と言うとドビュッシーは「オレはフランス音楽は大嫌いだ!」と言われてすごすご帰ったそうです(もっとも後になってドビュッシーはファリャの音楽を高く評価して支援したそうです)。そう言えば、パリに出かけたもうひとりの作曲家、我らがガーシュイン(今回のプログラムで取り上げます)もラヴェルから「どうして二流のラヴェルになりたいのか、君はすでに一流のガーシュインではないか」とやんわり言われ、ストラヴィンスキーに教えを請いに行ったら「君は年にいくら稼ぐのかね?」と聞かれ、「えーと、5万ドルくらい・・・」と答えると、「それじゃ、こっちが教えてほしいくらいだよ!」と皮肉たっぷりに言われたそうです。この世界は厳しいですね。

 もうひとつ。ガーシュインは同時代の作曲家の作品を幅広く研究した時期があり、ファリャについて「デ・ファリャはいわばスペインのガーシュインだ」と評したそうです。ちなみにファリャはガーシュインより22歳も年上です。

 最後は、ファリャとハイドンの関係について。オーストリア/ハンガリーのハイドンとスペインのファリャとでは場所も時代もかけ離れているのですが、意外なところに接点があります。

 ヨーロッパ中に名声が広がった頃、ハイドンの元にスペインのカディスという町のカテドラルから作曲の依頼がきました。司祭がキリストの最後の7つの言葉を読み上げる際、ひとつ終わって人々がひざまづいている間に演奏される器楽曲を書いてほしいという内容でした。こうしてハイドンはゆっくりした7つの楽章と序奏と終曲を比較的大きな編成の管弦楽曲として作曲しました(1785-1786 「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」)。実はファリャが生まれ育ったのがまさにこのカディスだったのです。それだけでなくファリャはこの曲を聴いて作曲家になることを決意したとされています。ファリャの遺した作品には宗教的作品はなく、情念にまかせた人間そのものを扱った曲が多いのですが、ファリャ自身は非常に敬虔深い人物だったそうです。ハイドンのこの曲は当時ヨーロッパ中で好評だったらしく、ハイドンはすぐに弦楽四重奏版を、さらにオラトリオ版も作曲しています。是非機会がありましたらお聴きください。

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