バルトーク : 『ハンガリーの風景』

バルトーク 1907年 初めてトランシルヴァニアへ民謡採集旅行に出かけるバルトーク 採集した民謡を聴くバルトーク 1927年 この曲を書く4年前のバルトーク
 この曲は、主に2種類の呼び方があります。原題はMagyar kepek Sz.97(BB103)ですが、英語訳では、Hungarian Sketches とされる場合と、Hungarian Pictures とされる場合があり、これに準じて邦訳も『ハンガリアン・スケッチ』、『ハンガリーの風景』とされます。もちろん、どれも同じ曲を指していて版の違いなどはありません。

 ベラ・バルトーク(1881〜1945)は、ピアノやチェロ演奏を嗜む学校の校長先生の父親とピアニストの母親の間に誕生しました。ハンガリー人ではありますが、生まれは現在のルーマニア領ナジュセントミクローシュ(「偉大なる聖ミカエル」の意)でした。ベラ・バルトークは幼い頃から音楽の才能を示し、とりわけピアノ演奏に優れていました。1894年、家族がウィーンに近いブラティスラヴァ(現在のチェコ領)に移ったことから、カトリック・ギムナジウムで音楽の教育を受けます。13歳のバルトークはこの頃に31曲ものピアノ曲を作曲していますが、どれもモーツァルトやベートーヴェンを手本にした作品と言われています。次いでエルネー(エルンスト)・ドホナーニと知り合い、当時まだ存命中だったブラームスの影響を強く受けた室内楽作品も書いています。

 1899年、ギムナジウムを修了した後、当然のこととしてウィーンへ赴きウィーン音楽院の入学の許可を得ますが、意を翻してブダペスト音楽アカデミーに入学し、リストの弟子イシュトヴァーン・トマーンに師事します。ここでもドイツの伝統に根ざした教育が施され、当時の学長エデン・ミハロヴィッチは熱烈なワーグナー崇拝者で、マーラーをブダペスト王立歌劇場指揮者に任命してワーグナーの作品を演奏させた(1888〜1891)人物であったことから、バルトークもここでワーグナーの洗礼を受けます。しかし、後年バルトークは「ブラームス風のスタイルから脱した後、ワーグナーやリストを通じても自分の手法を見出せなかった」と語っています。

 バルトークが最も影響を受けた作曲家はR.シュトラウスで、『ツァラトゥストラはこう語った』の1902年ブダペスト初演に「まるで雷に打たれたような」衝撃を受け、スコアを熱心に研究したとされています。翌年には『英雄の生涯』をピアノ版に編曲をして、ブダペストやウィーンで演奏して注目を集めています。しかし、この頃からハンガリー人としての意識を強く持つようになり、ドイツ語でなくハンガリー語によるリートを作曲するようになります。

  1904年、トランシルヴァニア出身のハンガリー人の中でもセーケイ人と言われる子守りの女性が歌う民謡を聴いて強く興味を惹かれ、民謡の採集・記譜を始めるようになります。さらに、ゾルターン・コダーイと知り合い、円筒式録音機を携えての民謡の採集を本格的に始めます。二人は別々にハンガリーの様々な地域に採集旅行に出かけ、集めた資料を持ち寄ってピアノ伴奏つきの民謡集を出版します。バルトークはさらに採集した民謡に基づいたピアノ曲を作曲し始めます。なお、1918年までに彼らが採集した民謡の数は、ハンガリーが2700、スロヴァキアが2500、ルーマニアが3500にものぼります。

 アカデミーを卒業したバルトークは民謡の採集では生活できませんので、アカデミーのピアノ科教授やコンサート・ピアニストとして生計を立てます。ヨーロッパ各地を演奏旅行する傍ら、作曲はピアノ曲から管弦楽作品や協奏曲といった分野へと広がります。1907年にはドビュッシーの影響を受け、1910年にはディーリアスと知り合い、翌年『人生のミサ』に接して感銘を受け合唱曲への関心を高めます。さらに1912年にはシェーンベルクやベルクの影響を受けた作品『4つの管弦楽曲』を作曲しますが、「作曲家として私に死刑の宣告が下された」と自ら手紙を書いているように当時のハンガリーの音楽界からは異端児的存在となっていました。当時のハンガリーでは愛国的な雰囲気が強く、バルトークの作品が「ハンガリー的でない」という批判にも晒されていました。バルトークがルーマニアのトランシルヴァニア地方の民謡を取り上げることは、本来自国領と主張するハンガリー人にとって、反愛国的と見なされたのです(第一次世界大戦で両国は敵対関係にありました。)。

 1910年代になると、バルトークは独自のスタイルを築き始め、歌劇『青ひげ公の城』、バレエ『かかし王子』、パントマイム『中国の不思議な役人』、ピアノ協奏曲第1番、『ルーマニア民族舞曲』、弦楽四重奏曲などを次々に生み出します。しかし、それらは直ちに人気が出るような曲ではないことはバルトーク自身自覚していたようです。1924年ストラヴィンスキーの『春の祭典』を聴くとその叩きつけるような拍動に感銘し「過去30年のうちで最も壮大な音楽作品」と評していて、自らのスタイルに自信を深めている様子が窺えます。

 1931年から33年にかけてバルトークは自作の編曲をいくつか行なっています。財政的な必要性に迫られて出版社の求めに応じたという説もありますが、それらはバルトーク独自の作曲手法に基づいていて決して大衆受けする類のものではないだけに、どのような意図で編曲したのかはわかっていません。この中に、『ハンガリーの風景』(1931年)が含まれています。この曲は、5曲の小品からなりますが、すべて1908年から1911年までに作曲した自作のピアノ曲を管弦楽に編曲したもので、小節数の変更もごく僅かで、3曲目を除き、タイトルは原曲のままです。従って、民謡を採集していた頃の(まだ穏やかだった頃の)バルトークの作風を反映した作品となっています。

第1曲 「トランシルヴァニアの夕暮れ」
 『10のやさしいピアノ曲』(1908年)から5曲目(別名「セーケイ人との夕べ」)。バルトークお好みの曲だったらしく、4種類ものバルトーク自作自演のレコードが残されています(その4種とも冒頭で驚くほど異なるリズムとルバートで弾かれているそうです。)。この地方特有の五音音階によるバラッドと舞曲からなります。

第2曲 「熊踊り」
 同じ曲集の10曲目。この曲も、バルトークにとってピアニストとして名刺代わりの1曲だったようです。

第3曲 「メロディ」
 『4つの挽歌』(1910年)から第2曲目アンダンテ。この曲のみ、管弦楽編曲時にタイトルが与えられました。この曲における囁くような和音を聴くとドビュッシーをはじめとするフランス音楽の雰囲気を感じられます。トリルを伴う7連音符の多用に特長があり、またハープはこの曲のみ使用されていて、アルペッジョやグリッサンドで独特な響きを作り上げています。また、専門的には、冒頭の旋律で6つの音のみで典型的なマジャール風4度を使用している、と説明されています。

第4曲 「ほろ酔い加減」
 『3つのブルレスク』(1911年)から第2曲目。農民スタイルの曲で、しゃくりのような前打音や突然のアクセントなどによって、千鳥足で歩くさまやロレツが回らない酔っ払いの様子をユーモアに描いています。今日まであまり知られていないバルトークのユーモアのセンスを垣間見ることができます。なお、「ブルレスク」とは「冗談」を意味するイタリア語の「バレラ」を語源とする音楽形式です。

第5曲 「豚飼いの踊り」 
 『子供のために』(1909年)第2巻19曲目。1907年はブダペストの南にあるトルナ地方で書き留めた旋律に基づいています。しかし、この曲集『子供のために』の他の曲ではドビュッシー的な響きも聴くことができます。

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 以下は、コダーイ音楽院のRoland Hajdu氏にこの曲の説明をいただき、その英文を翻訳したものです。

 第1曲目Este a szekelyeknel(エシュテ・オ・セケーイエクネール) は、トランシルヴァニアの村での夕べの気分や雰囲気を描写しています。トランシルヴァニア地方に住むハンガリー人をszekely (セーケイ人)と呼んでいました。

 第2曲目Medvetanc(メドゥヴェターンツ)。トランシルヴァニアのカラパチア山脈には野生の熊がたくさん住んでいて、そこに住む人々にとって熊はいわばごく近い隣人のような存在でした。人々が熊狩りに出かけることは全く珍しいことではなく、その際よく赤ん坊の熊を見つけて村に連れ帰ることがあり、小熊を飼いならして家の番犬代わりにしたり、ペットにしたりしました。また、生活のために飼いならした小熊を鎖に繋いで村から村へと連れ歩き、本人は何かの楽器、たとえば笛とかを吹きながら、小熊に踊らせたり後ろ足で立たせて音楽に合わせて歩かせたりしました。このように一種の見世物みたいなことをしてお金を稼ぎ、次の村へと渡り歩いていました。現在はもういないとは思いますが、バルトークはこの熊の踊り(Medvetanc)を見た可能性があります。
* 訳者注:同じ1931年にバルトークが編曲した『トランシルヴァニア舞曲』(自作のピアノ曲『ソナチネ』の編曲)の第2曲目も「熊の踊り」という題名がつけられています。

  第3曲目Melodia(メロディア) {この意味は難しくないのでコメントはありません。}

  第4曲目Kicsit azottan(キチット・アゾッタン) は「少し濡れて」又は「少し雨に濡れて」という意味ですが、「酔っ払って」という意味で使われることもあります。バルトークはここでその意味として使い、よろよろ歩く酔っ払いを描写しています。最後の分散和音(訳者注:終わり4小節)は実際のしゃっくりなのです。

  第5曲目 Urogi Kanasztanc(ユレギ・カナースターンツ) の Urog はハンガリー西部、バラトン湖とドナウ川の間のどこかにある小さな村のことです。Kanasz は豚飼いのこと。この曲名の題名は、「ウログの豚飼いの踊り」となります。
* 訳者注:ハンガリーの民族舞踊は大きく3つに分類されるそうです。

1. 豚飼いの踊り
2. ヴェルブンコシュ
3. チャルダッシュ

  「豚飼いの踊り」が最も古く、武器を持って荒々しく踊るものもありました。他のふたつは共にこの踊りから派生し、「ヴェルブンコシュ」は別名「募兵の踊り」ともいい、村々をめぐって兵士を集める際に踊ったものです。「チャルダッシュ」は村のチャールダ(居酒屋)で男女のカップルが踊るものです。

  Roland Hajdu (ローランド・ハイデュ) ピアニスト:1946年ブダペスト生まれ。バルトーク音楽院、リスト音楽院を作曲科と理論で卒業後、旧東独ワイマール音楽院へ給費留学。ピアノ、室内楽、声楽教育法を学ぶ。リスト音楽院(74年〜98年)、コダーイ音楽教育研究所(75年〜)で主に室内楽、声楽伴奏で教鞭をとる傍ら、米国、欧州各国などでもリサイタルを行なっており、室内楽ピアニスト、特に声楽伴奏者として知られている。

 *訳者注:ローランド・ハイデュはピアニスト、イシュトヴァーン・ハイデュの息子。イシュトヴァーン・ハイデュはベルギーの名ヴァイオリニスト、アルテュール・グリュミオーの伴奏者として有名で、数々のCDを残しています。




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