『大地の歌』〜CMと映画

 
 第6番を演奏したわずか2ヶ月後の2012年12月に『大地の歌』の本番を迎えました。第10番を演奏したオーケストラが間にエルガーの1番を挟んで再びマーラーの交響曲に挑んだことになります。なんて贅沢と思う余裕は全くなく、音符を追いかける日々が続いたことを覚えています。

 この曲で思い出されるのはバブル経済が始まる頃の2つのこと。1985年頃でしたかサントリーウィスキー『ローヤル』のなかなか良くできたCMで取り上げられたことと、1988年に公開された映画『仮面の中のアリア』です。前者は、CMで使用されることが多くなったクラシック音楽としてはめずらしく曲名が画面に紹介されるばかりかマーラーの曲を「このところ良く聴く」とかマーラーが残した有名な言葉「やがてわたしの時代が来る」まで語られます。何やらクリエーターの言いたいことが垣間見られますが、曲は第3楽章「青春について」、発売されたばかりのジュリーニ指揮のベルリン・フィルで歌はテノールのフランシスコ・アライサ、私もCDでこの曲を買っていました。

 CMは山高帽を被った男が豪華な手回しオルガンを回すシーンで始まりますが、直ぐにモノトーンのアニメとなり中国の山水図を背景に仙人が登場、オデコがやたら長い七福神の福禄寿に似ていると思う間もなくと舞台は日本へ。風神と雷神が雨を降らし、雷を鳴らして平安時代とおぼしき服装の人々が逃げ惑う、という内容。音楽によく合っているとも言えます。しかし、改めて考えてみると中国の李白らの唐詩のドイツ語訳にもとづく曲にしては日本の風神雷神が何故出てくるのか、何故第1楽章の「酒の歌」でなく第3楽章の「青春の歌」なのか(歌詞には「朋友と盃を酌み交わす」とはありますが)等、色々と脇の甘さが目に付くCMでもありました。

 映画『仮面の中のアリア(Le Maitre de Musique)』はクラシック音楽を題材とし、実際の演奏家が演じためずらしい作品。カラヤンに重用されていた現役のバリトン歌手のホセ・ファン・ダムが引退を控えた歌手役として弟子を育てるというベルギーの映画(ホセ・ファン・ダムもベルギー人)です。最初のシーンで肺活量を鍛えるために池で若者が水泳の特訓を受けるシーンでこの曲(サントリーのCMと同じく第3楽章)が使われます。他にも交響曲第4番の第3楽章が馬車に乗るシーンで使われ、さらには主人公の亡骸が薄靄の中、川を下って遠ざかっていく最後のシーンで歌曲集『リュッケルトの詩による5つの歌曲』の第3曲「私はこの世に忘れられて(Ich bin der Welt abhanden gekommen)」がしんみりと歌われています。とりわけこの「私はこの世に忘れられて」から漂う絶望を通り越した悟りの世界は主人公だけでなくマーラーの心境を見事に表わしていたのが印象的でした。

         仮面の中のアリア    仮面の中のアリア    仮面の中のアリア

 『大地の歌』は副題として「テノールとアルト(またはバリトン)とオーケストラのための交響曲」が付いていますが、5楽章すべてにおいてひとりずつ独唱が主導的な役割を果たすことからむしろ歌曲集としての性格が強く感じられます。但し、マーラーの他の歌曲集よりははるかにオーケストレーションの厚みがあり、演奏する側としては交響曲並みの技術力と集中力を要求される作品です。とりわけ終曲の第6楽章「告別」でのオーケストレーションは精緻を極め、これぞマーラーというフレーズの連続にぞくぞくしながら弾いていました。後に演奏する交響曲第8番での歌の伴奏における「軋み」を感じることはありませんでした。

 この曲は1回だけ、プロ・オーケストラの演奏会で聴いています。1986年11月19日、サントリーホールのオープニング記念演奏会の一環として単身来日したケント・ナガノ指揮の新日本フィルハーモニーで、友人が行けなくなった代わりに聴きに行った演奏会でした。伊原直子のアルト、エルンスト・ヘフリガーのテノールという豪華な顔ぶれで、当時67歳だった名歌手ヘフリガーの声を聴くことができたのはいい思い出になりました。

 この曲のLPレコードを初めて買ったのは社会人3年目1983年の夏、コリン・ディヴィス指揮のバイエルン放送交響楽団、ソプラノ独唱がジェシー・ノーマン、テノール独唱がジョン・ヴィッカーズでした。よく行った米国の出張先がシカゴからミシガン湖を挟んで飛行機で20分飛んだところにある田舎街だったためなかなかシカゴに出るチャンスがなかったのですが、1984年の秋にやっと2日間の滞在ができて念願のオーケストラホールに行くことができました。初日はショルティ指揮のシカゴ交響楽団でヘンデルのメサイア。2日目がこのジョン・ヴィッカーズの独唱によるシューベルトの『冬の旅』だったのです。カラヤンが振るオペラにしばしば起用された「だみ声」の名テノールの歌をまさかドイツ・リートで聴くことになるとは思ってもみませんでしたがとてもいい思い出になりました。カナダ出身のヴィッカーズの人気はここシカゴでもたいしたもので、曲の合間に何やらヴィッカーズが喋る度に会場は大受けでした。ヴィッカーズが歌う『大地の歌』のLPを買った翌年に実際の演奏を聴くという奇縁には驚かされましたが、実はその2年後の1986年の出張の時にもシカゴでヴィッカーズの演奏に出会うことができました。ワーグナーの楽劇『パルジファル』の題名役を演じたのですが当時60歳だったヴィッカーズにはさすがに酷な役だったのか終始疲れ気味で槍を投げるシーンで一瞬声が出なかったことを憶えています。しかし彼は元々美声のテナーではないため年齢からくる声のかすれは聴き手にとってそれほど違和感はなかったと思います。

 右下がジョン・ヴィッカーズが歌うシューベルトの『冬の旅』のCD。1983年10月2日のトロントにおけるライヴ録音( VAI Audio 1007-2 ピアノ伴奏:Peter Schaaf )です。なお、同じ年にEMIのスタジオで録音したCDが2015年に発売されました。その年に亡くなったヴィッカーズ追悼盤でした。私が聴いた演奏会はスタジオ録音も済ませ、各地で歌っていた時期だったことになります。
     コリン・ディヴィス指揮マーラー大地の歌     ジョン・ヴィッカーズ   ジョン・ヴィッカーズ 冬の旅


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