村上隆展「サトエリKo2ちゃん」
展覧会名:村上隆展「サトエリKo2ちゃん」
会場:小山登美夫ギャラリー
日時:2004年5月25日
入場料:無料



 道化であり神。それが村上隆なのだ。小山登美夫ギャラリーで2004年5月24日から始まった「村上隆展『サトエリKo2ちゃん」』を見て日本では、おそらく多くの人がその活動ぶりを嘲笑したくなるに違いない。曰く「なにがアートなんだ」「サトエリのコスプレじゃないか」「またまた他人の褌で相撲をとってる」等々。なるほどギャラリーに掲げられた佐藤江梨子にさまざまな扮装をさせた写真作品を見れば、そう思いたくなる人が大勢出ても不思議はない。

 かつて「プロジェクトKo2」というものがあってそれは、村上隆が日本で独特の発展を遂げたアニメ絵美少女を3次元の人形に立体化してみせる「ガレージキット」に驚きつつもその技術と、そーしたものにファンがついて取引されている状況を取り入れこれをアートの分野へと引っ張れないかというもので、そーしたアプローチを面白がったガレージキットの側からも参加者を得てプロジェクトは進行し、やがてオタク文化とアート文化のラインが結節する場所に、3段階変形美少女フィギュアとゆー完成形を見た。

 もっとも当時はオタクはオタクで虐げられ、村上は村上でアート界にもメディアの中にも認知している人はそれほどおらず、どこか世界の片隅で繰り広げられている出来事と捉えられていた節があったが、これが一変するのが例のクリスティーズでの6500万円落札事件。海外で認められたアーティストとして逆輸入された話題からその後は、為すことすることのすべてが有名アーティストのお墨付き的なアート活動として認知されるに至った。

 けれどもメディアが煽ったブームの怖いところはそれがブームだから盛り上がっているということ。いったん躓けば、あるいはブームが下火になれば上へと向かっていたベクトルの矢印は縮み、水平方向へと伸びやがて下へと向かって伸びていくことになる。話題の「六本木ヒルズ」のキャラクターをデザインしたまでは良かったが、玩具菓子につけたおまけをアートと言い張り、アートずれした人を喜ばせた一方で「それはちょっと言い過ぎなのでは」とささやかな疑問を招き、また度重なる露出が見ている人たちに満腹感を覚えさせてしまっていた。そしてサトエリのコスプレ写真へとたどり着く。

 村上隆に佐藤江梨子。ネームバリューはそれぞれにそれなりのものがある2人が組んで何かをする。そのこと事態は悪くはない。が、方法がちょっとマズかった。かつて手掛けた「プロジェクトKo2」で制作したフィギュアそのままの扮装とポーズをサトエリにとらせて写真に撮るとゆーコンセプト。それは村上隆にとって「Ko2ちゃん」とゆーキャラクターに生身の人間のそれも有名人を起用し、アニメとゆー架空の存在が立体化し、実体化してしまった等身大フィギュアに実在する人間をあてはめ、これを写真とゆー架空の世界へと落とし込むタクラミによって、現実と架空の垣根をゆさぶりリアルとバーチャルの狭間に人間を叩き込んで惑わせよーとするものだったと想像できる。

 けれども現実、「Ko2ちゃん」の格好をして台に立つサトエリを撮った写真を日本人が見て覚えるのは「イメクラ?」といった感情だろう。コスプレを見慣れていない目に奇矯な格好をして台に立つサトエリはひたすらにグロテスクで、美や媚を覚えながらも一方で猥雑さを感じて目をそむけたくなる。サトエリとゆーモデル自身にも問題があって真摯な表情をした時の彼女は知性とクールさをはちきれんばかりの肉体に秘めた美の象徴となるのだが、笑って頬を引き上げると決して筋が通っているとは言えない鼻の横に、ふくらんだ頬が並んでクールさとは正反対の純朴さを醸し出してしまう。それがウェイトレスだかナースだか、悪魔だかの格好をして立っている。場末のイメクララの看板かと思い引いてしまう人も多いだろう。

 同じ会場にはかつて村上隆が仕掛けたBOME原型による「Ko2ちゃん」とそして新作の「ナースKo2ちゃん」のフィギュアも展示されているのだが、これらがとにかく素晴らしい。姿態に表情にポーズに色彩のどれもが完璧で一分一毛の隙もなく、これぞ日本が誇る美少女フィギュアといった凄味を秘めつつ場内に輝きを放っている。これを見て壁に貼られたサトエリのコスプレ写真を見た時に、隅々まで突き詰められた人造の美を前にしていかなサトエリでも及ばない事実を突きつけられる。埋もれた首。ゆるんだ大腿部。単独で見れば、目の当たりにすれば究極と思えた天然の美の至らない部分が次々に浮かび上がる。

 そんな作品を「アート」と言い張り「メジャーと組んでアートをメジャーにする」と言い張った時、返ってくるのは「これのどこがアートだ」といった率直な反応だ。サトエリに不細工な扮装をさせて撮ったイメクラ嬢のポートレートがまずアートには見えず、それをアートと言い張る男の滑稽さに苦笑が沸き立つことだろう。サトエリとゆー存在を存分に知り、イメクラといった風俗への知識があり、メディアで持てはやされ続けてきた村上隆の舞い上がり方を見てきた日本人の目にはもはや驚きや新鮮さは浮かばない。滑稽さ。可笑しさ。彼を道化といったのはそういうことだ。

 しかし、これが外国に持って行かれた時にはまるで評価が違ってくる可能性がとても高い。アニメとゆー素材を立体化してなおかつ等身大にしてみせよーとするコンセプト。その行為自体をアートと理解し評価し、6500万円なりの値段をつけて取引している外国の「アートシーン」においてはそれが場末のイメクラ的なポーズ写真に見えても、またモデルが日本でも屈指のタレントであっても、なおかつそのタレントが美のミューズと呼ぶにはいささか外れた表情をしていたとしても、まるで関係のないことだったりする。

 「あのムラカミがアニメをフィギュア化したコンセプトを逆にたどって人間をアニメフィギュア化して写真に収めた」と理解しそこに日本で独特に発達した「コスプレ」とゆー文化も盛り込まれていることを認識し、「なるほどアートだ」と考えられ購入されていく。彼のなすことを知覚し理解に務めて認知することを至福と任じる外国のアートシーンにおいてもはや村上隆は神なのだ。国内でいくら道化と嘲笑されても関係ない。そうした嘲笑を超えたところに広がる世界に向かって村上隆は作品を作っているのだ。サトエリ起用は国内向けにおどけてみせただけ。それで騒ぐ輩は目先足下しか見ていない。本当の事は別にある。行こう。小山登美夫ギャラリーに。見よう。村上隆の見ている遠くを。


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