縮刷版2015年4月中旬号


【4月20日】 そしてFAカップのアーセナルの対戦相手はアストン・ヴィラに決まったようでプレミアリーグの順位でいうならアーセナルよりずいぶんと下、降格圏ではないけれどもこれからの戦いによってはそういう可能性も皆無ではないチームにとってFAカップという“おまけ”は負担になるのか、それともモチベーションを高める燃料になるのか、その辺りは監督のマネジメント次第になるのかなあ。アーセナルのヴェンゲル監督はまだ可能性があるといってもやっぱり厳しいプレミアリーグより、FAカップでの1冠を狙って力を集中させることができるからその意味では有利なのはアーセナルか。でも時々ポコッと下のチームに落とすこともあるんだよなあ、アーセナル。決勝は5月30日か。プレミアリーグの結果とともに見守ろう。見られないけど。

 というか、イングランドのチームなんか心配している場合じゃなかった。J2では我らがジェフユナイテッド市原・千葉が愛媛FCに敗れて順位で首位から3位へと落ちてしまった。ある意味で定位置でここからプレーオフに出てまた敗れるという繰り返しを味わいそうな予感もあるけど、今年はひと味違うというならこの負けを取り返す大勝をこれから重ねてぶっちぎりの1位を獲得して欲しいところ。一方のなでしこリーグでジェフユナイテッド市原・千葉レディースはスペランツァFC大阪高槻に2対0で勝ったようで順位でも4位に上がった。なんだ4位かってこっちはこっちでレディースのトップリーグでの4位。上位チームだけが出られるシリーズへの権利を確保している訳でJ2に足踏みしている兄貴分とは立場が違う。

 このまま調子を上げては代表メンバーになっている山根恵里奈選手、菅澤優衣香選手にワールドカップでの活躍を期待したいところ。とはいえやっぱり代表メンバーがそれなりにいる浦和レッドダイヤモンズレレディースの調子が悪いのが気にかかる。相手がやっぱり強くなったアルビレックス新潟レディースとはいえ零封で敗れてしまうのはちょっと…。一方でINAC神戸レオネッサは代表メンバーを並べて伊賀FCくノ一に解消し、日テレ・ベレーザもこっちは宮間あや選手がいながらちょっと良くない岡山湯郷Belleに大勝。個々には気になるけれどもまあ、中心となるメンバーは調子を維持しているようなのでワールドカップに期待して良いのかな。世代交代がないのは心配だけれど…。それを言っても仕方がないか。今は勝つこと。そしてリオデジャネイロ五輪への調子を整えること。世代交代はそれからだ。

 前と後ろにホワイトちゃんとの会話を挟むことによって、シリーズが短編の連作ではなく地続きの物語なんだってことを見る人に意識させて関心を引きつけようって考えなんだろうか「血界戦線」のアニメーション。加えてハチャハチャになったりドンガラガッチャンになったりする本編の前後を静かに暖かく柔らかい雰囲気にして気分を落ち付かせ、作品への意識を高めようって判断があるのかもしれない。実際にそういう効果はあってしっかりと余韻はあるんだけれどひとつ言うなら第3話の終わりはあと1秒、ホワイトとレオとの会話の後に間が入っていて欲しかった。あれでストンと落ちてからエンディングへと行くと気持ちもぶわっと盛り上がるんだよなあ、僕のリズムでは。僕だけかもしれないけれど。

 あとやっぱり気になるのはチェイン・皇の声かなあ。ああいうちょっぴりお転婆でイケズな女の子って設定なら小林ゆうさんはピッタリなんだけれど、漫画で抱いていたもうちょとt寡黙でそれでいてやることは酷いツンツンツンデレ系だともうちょっと冷たくて固い声の人でも良かったって気がしている。そこもまあ、僕のリズム感での話なんで見てピッタリだと思っている人も多いだろうし、音響監督の人もそう判断したんだろう。そして絵を描く人もそんなチェインに合わせたかのうようにエンディングでは、身振り手振りを交えて踊るチェインを描いている。あの可愛らしさは抜群。スパンと足を上げるK.Kも良いけどやっぱり可愛いチェインが良い。人狼集団潜入作戦の話までちゃんと描いて欲しいと願おう。K.Kは折笠愛さん、ピッタリだ。強い母ちゃん。最高だ。

 とりあえずやっぱり行っていこうかと新宿は歌舞伎町にできたTOHOシネマズ新宿へ。真正面からゴジラの頭が見えて写真を撮っている人もいっぱいいて、早速名所になっているけどゴジラといえばやっぱり有楽町にある銅像の方が本家であって原点。そっちが蔑ろにされそうなのがちょっと辛い。周辺の改築もあるしどうなっちゃうんだろうあの銅像、そして手形たち。さてTOHOシネマズ歌舞伎町の方は新宿アルタ裏からつづく道が小綺麗になって真正面へとドンと繋がり安心は安心だけれど、周囲に入ると未だ歌舞伎町的で、最近はぼったくりなんかも問題になっていて治安面でいろいろ不安。そのあたりもひっくりめて“浄化”するのか古い興行の街並みに溶け込んで紊乱とした雰囲気の劇場になるのか。新宿区と新宿警察署次第かなあ。僕は近いんでTOHOシネマズ日本橋を利用させてもらいます。

 そんなTOHOシネマズ新宿では「アニメミライ2015」の2回目を。印象としてはTARAKOさんによる「ハッピーカムカム」の脚本がやっぱり上手すぎるなあと思った。母親面するロボットがウザくなる寸前にすっとすらして笑いとトボけに持っていって安心させつつ、そんなロボットを相手に御託を並べる男性の大人になれないっぷりの、それも仕方がないところもあるけどやっぱりガキっぽい面倒くささが、だんだんととれていく感じがうまく出ていた。ラストに添えられた1枚の絵が未来の幸福を示していて、頑張ったんだなあと思いつつ頑張っているなあと安心した。これは良い作品だ。

 太鼓を叩く描写のそれはそうなんだけれどグッと来る感じもあれば良いけどそれってどうやって出すんだろうとも思った「アキの奏で」はそれでも抜群の安定感で、そしてブラのホックが外れると何が起こるか見せてくれた「音楽少女」の勢いと、あとはやっぱり「クミとチューリップ」の総監督手塚眞さんキャラクターデザイン杉野昭夫さんに音楽服部孝之さんというゴウジャスさに改めて感じ入る。「クミとチューリップ」のラストは異論もあるけれど。なんか寂しいというか哀しいというか残念というか勿体ないというか。それで良いのかご老体。

 でも、機械のチューリップではない本当のチューリップを見たいと願ってそのために遺書懸命になっていた人に、寿命を超えて目的のために生き延びさせるのは主題に沿うかどうかとなると、やっぱりあの終わり方で良いんだろう。一期一会の生をだから目一杯生きよう。それは「音楽少女」についても言えること。盛り上げておいて引っ張り込んでおいていなくなるなんてと片割れが憤るのも無理はないけど、止まっていた人生が動いたことを喜びつつそれぞれに人生があってやりたいことに目一杯挑むんだって諭されもする。それぞれに1つきりの人生なんだ、誰もが笑顔で出会いそして笑顔で別れよう。

 まあそうだろう。「『右翼媒体からの取材は受け付けません』。江蘇省南京市にある『南京大虐殺記念館』に取材を何度も申し込んだところ、担当者は最後に電話口でこう言って拒絶した。それもそのはずだ」って感じの書いているけど某全国紙、その新聞が南京大虐殺を“まるでなかった”といった趣旨の記事を掲載していたことを知ってなお、真っ当な記事が書かれるとはとても思えず、それだったら話すだけ無駄だろうと考え取材を拒否したくなっても仕方がないよ、中国が。歴史学者も戦史家もともに多寡はともかくあったと記し、軍を率いた司令官までもが慚愧の言葉を残しているにも関わらず、俺は見てなかったという声を取りあげ、だからなかったんだと持っていく超絶アクロバティックな論理に対して、説得の言葉なんで誰も持ち合わせていないだろうから。

 同じ日本人が示す証拠だって嘘だと言う相手に、中国から何を示したところで聞き入れる耳なんてどこにもない。だから取材を拒絶した。良いことではないけれど仕方がない。というか、そもそもがそんな記事を真に受ける人だっていないはずなんだけれど、狭い反意に蔓延るそうした耳障りの良い声だけ聴きたい人に向け、発しては狭いトンネルを抜けて拡大された声だけ聴いてハッピーを叫ぶような振る舞いがなお続く。そんな状態、いつまでも続くはずないってことに気づけば良いんだけれど、もはや気づいたところでダメージは深く立ち直ることなんて不可能。昔出た嫌韓系の記事を読者受けが良いからってプレミアムだとネットに再掲載したりするくらいだし、真っ当な言論、読者が本当に必要とするニュースを探して書いて提供する力すら失っている。そんな某全国紙が新聞であり続けられるはずがない。未来は……考えるまでもないか。考えなきゃいけないんだけれど。やれやれだ。


【4月19日】 謎の病とはおだやかじゃないけどナイジェリア、発症したら24時間以内に死んでしまうという病気が流行り始めているらしく、AFP通信によればこれまでに23人が罹って18人が死亡したというからなかなかの率。残る人だってどこまで保つか分からないとなると結構ヤバい病気なのかもしれない。ちょっと前にエボラ出血熱で大騒動になったアフリカだけに、次から次へといろいろな病気が現れて不思議はないのかもしれないけれど、この件について言うならそもそも病気なのかってところが分からない。ウィルスも病原体も見つかっていないしエボラ出血熱のように全身に症状が出て酷い状態の中で死んでいくってこともない。

 AFP通信によれば「頭痛や体重減少、かすみ目、意識消失などの症状が出て」そして亡くなるというから、病気とうよりは何か神経に障る薬物のような気もしないでもないけれど、戦場で毒ガスが巻かれたとかいった話も得に伝わっていないから、どうしてこの数日の間にナイジェリアの地に現れたのか、ってことが判明するまでは結構不気味な状況が続きそう。もちろん病気である可能性も残っているし、病気なら過去に得体が知れないといわれた症状だって原因が突き止められて対処もされた。それが人類の歴史。大事になる前に何とかなると信じたいけれども、果たして。

 勝ったかサッカーのアーセナル。去年も優勝して久々のタイトルとなったイングランドのFAカップで、ライバルのマンチェスター・ユナイテッドを下して準決勝にのぞんだアーセナルはそこでレディングを相手にリードしながら追い付かれ、延長に入ったところでアレクシス・サンチェス選手がこの試合で2点目を決めてリードしそのままフィニッシュ。見事に決勝へと進出を決めた。次はアストン・ヴィラとリヴァプールの準決勝で勝ったところを対戦して連覇を狙う。プレミアリーグでも2位につけているとはいってもトップの勝ち点で10の差があって、残りはいずれも6試合では3勝3敗されると追いつけない。

 これはなかなかにキツいんで、せめてタイトルをということで歴史も伝統もあるFAカップを取ればアーセナルを率いるアーセン・ヴェンゲル監督の面目も立つってことになるだろう。というかリーグでたとえ最近優勝できなくたって、チャンピオンズリーグで優勝できなくたってその舞台へと就任してからずっと導いているんだからベンゲル監督、ちょっと考えられないくらいの凄い実績。いろいろと借金もあってお金が潤沢でないチームでこれだから、もっと裕福なところだったらどうなったか。とはいえ揃わない戦力を育成とスカウトと戦術と運動量でカバーし勝っていくのがガナーズの魅力だから、これはこれで良いんじゃないかなあ。リーグ戦だってまだまだ分からない。残るシリーズに注目。

 張本勲さんがサッカーのJ2を野球でいうところの2軍扱いしたのが間違っているかというと、日本のプロ野球が米大リーグのように3Aとか2A、Aといったマイナーリーグを傘下に持たずに1軍2軍で分けていて、2軍でもってイースタンリーグやウエスタンリーグを展開している構造から、下部リーグをすなわち2軍としてしまう認識でいてもそんなに間違ってはいないと思う。そんな場所でかつて日本代表にもいて綺羅星の如き活躍を見せたスーパースターが、今なおしがみついてプレーしていることを美しいと思わない意識が張本さんにあって、引退した方が良いんじゃないかと言ったことも、その主観からすればやっぱり大きくは間違ってはない。ONが2軍のイースタンウエスタンでプレーして欲しくないように。

 ただチームとして考えるなら、J2の各チームはそれぞれに独立していてプロ野球の2軍とは構造的に違っているから、その意味では張本さんの認識は違っていて、むしろ米大リーグのマイナー落ちに近いところもあるけれど、それすらもサッカーの場合はやっぱり違う。マイナーリーグのチームは優勝してもメジャーリーグには上がれないけど、サッカーのJ2はそこで勝てばJ1に上がれる。単に順番でカテゴリーが分かれているだけでお全部が1つ地続きのリーグと言えば言えなくもない。そのちょっぴり下に居るチームで虎視眈々と上を狙いプレーしている人間が、ちゃんと活躍しているならそれを素直に讃えるのがサッカーの場合の正しい捉え方。とはいえ張本さんにその違いを説明して納得してもらうのは難しいかもしれない。

 だからなのか、そういうことすら考えないのかカズこと三浦知良選手は自分がそうやって「喝」を入れてもらえることをまだ、応援してもらっていると捉えて言葉を返して頑張ると言ってみせた。そのスタンスにはやっぱり同じアスリートとして惹かれるところ、学ぶところもあったんだろう張本さんは、朝のワイドショーで前言を翻してカズを讃えてみせた。J2という位置づけを納得させられないことを悔しく思うサッカーの人もいるかもしれないけれど、こうやって互いに言葉を交わしていくことでしか生まれる理解はないのなら、そのまず1歩を踏み出したとここは理解して張本さんの言葉を讃え、カズの頑張りを讃えよう。また得点しちゃうんだもんなあ、本当にレジェンドだ。機会があればこの目でその姿を見に行きたいなあ。横浜FCとジェフユナイテッド市原・千葉の試合で前半戦、もう終わったっけ?

 伊崎喬助さんの「スチームヘヴン・フリークス3」(ガガガ文庫)が出てたんで買って読んだら面白くって大きな敵なんかも見えてこれから世界を巻き込むような戦いへと突き進んでいきそうな気がしたんだけれど、あとがきは編集者や読者に感謝してまたどこかでなんて書いてあるからもしかしたらこれで終わってしまうのかなんて暗い想像も浮かんでしまう。どっちなんだろう。面白いシリーズでも人気の度合いで打ちきることも結構あるのがライトノベルのレーベルって奴で冨士見ファンタジア文庫とか2巻3巻でまだこれからってところで打ち切りになった作品がわんさかあって寂しい思いをしてたりする。ガガガ文庫にもそんな所はあるんだけれどこの「スチームヘヴン・フリークス」シリーズに関して言うならスチームパンクで異能バトルで過去に謎があり意外な正体があってそしてハードボイルドでもあるという、てんこ盛りの面白さ。もしもガガガ文庫が打ちきるならハヤカワ文庫JAあたりがそそくさと、手を上げ引っぱったって良いと思うのだった。読んでないだろうけど。読んで欲しいなあSFな人に。

 浅草へとちょっと寄ったらバンダイから出ている子供のような会話をしてくれるぬいるぐるみの「プリモプエル」を専門に扱っているショップ「ハートのしっぽ」が3月末で閉店になっていた。開店の時に取材にいったけれどもそれから12年、すでに話題になりはじめていたぬいぐるみが一気にブレイクしかかった時期で、それからよくもまあ12年も続いたものだと一方に感慨を覚えつつ、それでも12年経てば旬も過ぎてショップを運営するほどではなくなってしまうのかとも思えて寂しさも募る。いやいや個々の販売店でもってサポートもやっているという話もあるけれど、フラッグシップとなる店の消滅はやっぱりどこかに商品サイクルの終盤といった感じを醸しだしてしまう。そうでなく、もはや定番として多くのファンに愛され続ける商品になっているというならこの“撤退”を後退に終わらせないで、愛してくれる人たちに永遠に近いサポートを約束してあげて欲しいもの。もはや自分たちにとって子供に等しい「プリモプエル」をAIBOのように“死なせる”訳にはいかないから。


【4月18日】 杉浦日向子さんのお兄さんで、カメラマンの鈴木雅也さんによると杉浦さん、5歳下なのに音楽でも映画でも漫画でも何でも自分より先に広く知っていてそれをよく教えてくれたとか。ただ天才というよりは努力家で家にもいっぱいの本があってそれらをよく勉強し好奇心旺盛にいろいろと見聞したからこその知識であり興味の広がりだったんだろう。そんな杉浦さんは音楽で椎名林檎さんを聞いていて、とくに「勝訴ストリップ」なんかを聞いていたそうで入院した病院でもそういう話を看護士さんにしたとかどうとか。あるいは収録されてる「本能」のPVにかけて周囲にいる看護士さんたちに反応したのかな。そこは想像だけれどしっかりと先端を聞いていたってことは伺えた。

 そして杉浦日向子さんの傑作「百日紅」を「カラフル」の原恵一監督が長編アニメーションにした「百日紅〜Miss HOKUSAI」はエンディングにその椎名林檎さんを起用して感動の余韻を鼓舞してくれるような音楽を流している。もしも存命だったら杉浦さん、これについて何を思ったかってことをお兄さんの鈴木雅也さんも触れて「凄い凄いと喜んだんじゃないか」って話していた。その声を聞けない寂しさってのはやっぱりあるけどこうやって、巡り巡ってひとつの思いがかなうことがあり、それを当人でなくても喜んでくれる人がいるならやっぱり思いは世に伝えておく方が良いのかも知れない。僕も何か言っておけばいつかかなうかなら。富野由悠季監督にインタビューしてみたいとか。したことないんだよなあ。

 999.9での眼鏡の修理は結局、両方のレンズを代えてそれも前よりちょっと高めのものにして税抜きで2万6000円でこれでどこかの安売り眼鏡屋さんだったら何個、新しい眼鏡が買えるんだって話になるんだけれどでも、どうにもそういうところの眼鏡ってかけた時のフレームのたわみとかが気になって、そのままかけていて本当に眼に大丈夫なんだろうかという思いがあり、そもそもの耐久性はどうなんだろうかという疑問もあって今に至るまで手を出せていない。いや、秋葉原デパートがあった時代にそこにあった眼鏡屋でサングラスを作って、今も時々使っていて別に不自由はないんだけれど日常的に使う眼鏡だとやっぱりどこか不安になる。どうなんだろうそこんところ。

 もちろん999.9だって5年も使っていれば歪むしたわんでレンズも落ちる。でも直せば元に戻るしかけても駆け心地に変化はない。強靱で繊細。そんな眼鏡をずっと使っているとなおのこと安売り眼鏡には行けないし、レンズも高くてもそれに合ったものを選んでしまう。これは人生において損なのか得なのか。考えたところでやっぱり安売り眼鏡に行く気がないから関係ないってことで。次はどの999.9を買おうかなあ、でも今使っているようなすべて金属フレームでなおかつレンズがフレームに収まっているのを999.9、あんまり作らなくなったんだよなあ。どうしてだろう。宗旨替えでもしたんだろうか。分からないけどそれでも残った中に良さそうなのを見つけたんで、次はそれを。何年後だろうか。それまで残っているだろうか。

 いちゃいちゃと。まあいちゃいたとしているヘスティアあまとベルくんを遠目に見て果たしてアイズ・ヴァレンシュタイン氏は何を思ったか分からないけど遠巻きにしていたフレイヤさまはこれで横恋慕を確信した感じ。この後に散々ちょっかいをかけていったのが最新の第7巻で大爆発するんだけれど、アニメーション版の方はきっとそこまで行かないだろうから今はどうやらフレイヤさまって美の女神が、ベルくんに関心を抱いているってあたりだけ理解しながらそのちょっかいぶりを観ていくのが良いだろう。あとヘファイストスさんが手ずから打ったその短剣がいったい幾らでそれが後のフェスティア・ファミリアにどれだけの影響を与えるかも、最新の第7巻で明らかになるんで気になる人は原作を読んでそこまで追い付こう。それさえなければすっげえファミリアになっただろうけど、それがあったからファミリアとして存立できた訳でもあるし、難しいなあ決断って。

 安定の面白さを誇っている「食戟のソーマ」のアニメーション版。街の食道から出た若い料理人が現場の知識を創意工夫のアイデアですごいグルメたち料理人たちを呻らせていくのは「ミスター味っ子」の頃と変わりがないけど、その「味っ子」が大人気となった理由にある下克上的な感慨は、他の作品にもって行かれてもやっぱり薄れない。なおかつ「食戟のソーマ」はちょっぴりエッチも入っているから眼に楽しいところもある。あの高慢なお嬢様料理人をいったいどれだけ蹂躙するか、って楽しみもあるんでこれからもずっと観ていこう。でも何クールやるんだろう。週刊誌連載の漫画をアニメで1クールってことはないと思うけど。あと主人公はどうしていかげそのハチミツ和えとかピーナツバター和えとか訳の分からないものを作るんだろう。不味いものは作りそうもないのに。趣味か。それを食べた誰かが悶える姿を見たいがための。あり得る話。

 来た見たいなかった! 笹塚区民会館に人影なし! って見出しでスクープ記事でも書こうかと思ったけれども調べたらどうやら場所が代わっていたSFファン交流会。やがて現れた人もいて来る人に転戦を伝えるという話だったんで先に移動して南新宿の海上まで行きしばし牧眞司さんと堺三保さんが喋っている姿を眺めたあとで、テーマとなっているアメリカのSF雑誌の歴史とかについて話を伺う。まあだいたいのことは何とはなしに知っているのがSFファンってやつでウィアード・テイルズとかアメイジング・ストーリーズとかアスタウンディングとかファンタジー&サイエンスフィクションとかギャラクシーなんかが立ち上がっていった話を聞きつつやっぱりキャンベル革命あたりが黄金期なのか、それとも1950年代を黄金期とみるのかといった見解の違いが、アメリカにもあるんだっておとを聞く。

 豊穣なのは1950年代だと僕は思うし日本人もだいだいそう思うんだけれどでも、自分たちが成し遂げた革命を否定されたくない人は、キャンベル革命をこそって言い続けたことがきっとアメリカでの対立の要因となったんだろうなあ、当事者ほど思い入れは強いものだから。ただテーマとなったSF雑誌の研究所を出したマイク・アシュリーは世代が戦後の生まれだからやっぱり1950年代をこそ黄金期と見ている口。そんな語りで罪がれただろう「SF雑誌の歴史 黄金期そして革命」(東京創元社)をやっぱり読みたいけれども本体価格5000円はなかななか容易に手が出る値段ではなかったのだった。ボーナス出るまで待つか。そもそも出るのかボーナス。

 なんだかなあ。普段から現行憲法は押しつけられたものだから改正しようぜとかいってる癖に、こういう時だけ金科玉条のように持ち出す意味が分からない。「東京都渋谷区が、同性カップルに『結婚に相当する関係』を認めて証明書を発行できる条例を施行させました。性的少数者への差別や偏見をなくす取り組みは進めるべきですが、最高法規である憲法は『婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する』と規定しています。だから渋谷区の同性パートナーシップ条例はおかしいって趣旨の記事をピーアールする文章なんだけれど、その憲法を真っ向否定している普段の口はいったい何? って話になる。あと「統一地方選後半戦が間もなくスタートします。読者がお住まいの自治体は大丈夫でしょうか。ぜひ大切な一票を有効にお使いください」って言っているけど、これって同性パートナー条例を通した自治体は大丈夫じゃないって言ってるってことにならないか。そういう思いはあっても、言葉を選んでくのが社会の木鐸って奴。でも好悪をそのまま垂れ流してしまうユルさに、昨今相次ぐヘイトな意識満載の記事やコラムやイラスト掲載って状況の原因があるのかもしれない。やれやれだなあ。


【4月17日】 キャラクター紹介回、ってことなんだろうけどやっぱりさっぱり分からない「パンチライン」。大家で眼鏡の台初明香と引きこもりの眼鏡の曳尾谷愛が陰陽あって対比は出ているけれど、ちっこい系眼鏡っ子キャラとして被ってたりするし、色っぽい霊媒師のグラマーなお姉さんの秩父ラブラは酒飲んでるだけで主人公伊里達遊太という少年とどういう関係なのかがまだ見えない。津軽弁らしいヒロインの成木野みかたんははあたふたしているだけで活躍しない。そしてネコだか何だか分からない宇宙人のチラ之助はこれから何をすべきかを言わずにただただ遊太を引っ張り回しているだけで、話が一向に進まなかったけれど、それでも引きこもりっ子の水玉パンツがしっかり拝めただけでも見る価値があった。ブルーレイディスクすら買う価値があったかもしれないパンチラだった。素晴らしいのでこれからも見続けよう。来週は誰のがどれだけ拝めるか。期待大。

 面白いので千葉テレビで連日の再放送をやっている「ちはやふる2」を録画しては見て消す連続。BDを持っているんで溜めておく必要はないんだけれど、BDを引っ張り出さずとも見られるテレビの便利さって奴を改めて深く感じたりしたり。今はちょうど2年生になった綾瀬千早や真島太一たちが高校選手権に向けて東京都大会に挑んだところで決勝まで来て相手は北央、肉まんくんがさっさと負けて、4人対4人になって運命戦対策の札合わせをしてきた北央相手に、どれだけ挑めるかって真剣勝負の緊張感が画面からびっしびっしと伝わってくる。緩急、そしてセリフの間合いがそんなスリリングさを作り出している、って感じなんだろうか。そのあたり、見て見返してリズムとして体に入れてみたいけど、入れて何に使う訳でもないか。でもやっぱり、語る上で研究したい作品かも。作品としては語られてもアニメーションとして語られることが少ない作品だけに。研究本どっか出さないかなあ。

 いつくらいからその存在が記憶に残っているかというと振り返っても、顔付きで思い出せるのはTDKのコマーシャルあたり。声だとやっぱり「いなかっぺ大将」のニャンコ先生になるんだろうけど、それはやっぱりニャンコ先生の顔として感じてしまうんで愛川欣也さんとは直接結びついてない。「11PM」は子供だったからまだ見てなくて「トラック野郎」もテレビで放送されたら見たかといった辺り。そうなるとやっぱり役者として強く心に残るのは、NHK大河ドラマ「花神」で宇和島藩にいて長州から流れてきた村田蔵六とともに蒸気船を作った嘉蔵を演じたあたりってことになるのかなあ。相手が何しろ中村梅之助さん。美形とは言い難い取り合わせの2人が歴史に残る偉業を成し遂げたってところに今と美形ずらりなドラマとは違った、ホンモノを作ろうって意気込みが感じられる。それが視聴率にも結びついたんじゃないのかなあ。

 そして「なるほど! ザ・ワールド」の司会あたりから出ずっぱりとなってようやく一致するようになって、そして「出没! アド街ック天国」の司会としてほとんど毎週のように見るようになったけれども3月を持って退任、そして1カ月を経ての訃報や人間、やっぱり引き際ってものが見えるってことになるのかなあ。あるいはもう本当にギリギリまで出演していたとか。その苦労をまるで見せないで第一線に達続けた凄さはちょっと見習いたい。数日前から亡くなったとか危篤に陥ったという情報が錯綜していたけれど、芸能界に詳しい人のツイートでそうじゃないかと取りざたされ、そして報道陣がつめかけてもなお漏らさず今日のファクスでもって解禁。お世話になった人のために公開をって声もあったけれど、それよりやっぱり寄り添ってきた奥さんの心に配慮したいっていう人間としての矜持が感じられる。そこに割り込めるメディアもない。騒ぐより静かに見守れて、まずは良かったといっておこう。ありがとう。そしてさようなら。

 ライトノベルがマンネリ化しているというよりは、ライトノベルを原作にしてアニメーション化を企画する人の意識が、どこかマンネリ化しているというか何かひとつのテンプレートに当てはまっていなくちゃ売り出せないような感覚を持ってしまっていることの方が大きくて、一方でそうした作品でなくちゃ見ないよって人もいたりして、そんな相互の関係性が濃縮されて流布されてしまった結果として、そういう作品ばかりが目立ってしまっているだけのような気がしない某ネット上のラノベ記事への感想。だいたいが月に100冊は軽く超えるライトノベルが出るようになって、それのすべてがだいたい似ているなんてことはあり得ない。格好良くってスタイリッシュで新しくって画期的な作品がわんさか出ている状況に、気づきもしないでアニメ化されたというラノベの中身そのもととは関係のない基準でもって面白いかどうかと切り分けるのは、やっぱりちょっと違う気がする。

 そしてもちろんアニメ化される作品だってそれぞれに個性があって中身も違うし、キャラクターたちだってやっぱり違う。「僕は友達が少ない」と「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」と「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」は全部が違うし、それぞれに個性的だし新しい。だから売れたし人気になったしアニメだって評判になっている訳で、今になって何が衰退したとか何が新しくなったというよりは、数が増えて上下左右に東西南北、さまざまな質と中身を持った作品が世の中にあふれているってだけのことに過ぎない。それらを網羅するのはもはや不可能だけれど、だからといって一部だけ見てマンネリだつまらなくなっている品質が下がっているというのはやっぱり早計過ぎる。せめて月に10冊でも読んでくれれば、その違いってのも見えてくるとは思うんだけれど、10冊読む学生もいないしお金もないからなあ。でも良い作品はある。それを少しでも世に届けられればと今日も本を積む。積んじゃいかんよ読んで語れよって? ごもっとも。

 気が付くと眼鏡のレンズが片方なくて部屋のどこにも落ちてなくってこれは拙いとタカラトミー、タカラトミーアーツの内覧会を浜松町で見てから銀座の999.9へと行って様子を見てもらったら、フレームが歪んでもしかしたら新しいレンズをつけてもハマらないかもしれないと言われたところを無理にお願いしてとりあえず、ゆがみを直してもらって新しいレンズを削ってもらってはめてもらってまずは一件落着。すでに5年くらいをかけっぱなしにしていると、やっぱり歪みも出ればへこみも出るようでフレームにそうとうガタが来ているみたい。チタンだからって頑強とは限らないけどそれでもしばらくは使いたいので有難かった。とはいえやっぱりそろそろ換え時か。見たけどチタンで同じようなデザインのってもうないんだよなあ。今度はセル枠にするかなあ。安いし曲がらないし。似合うかなあ。

 前は徳間ホールだった場所で、原恵一監督の映画「百日紅〜Miss HOKUSAI」の完成披露マスコミ試写を観てそして、来場していて原恵一監督の舞台挨拶の際に登壇した杉浦日向子さんのお兄さんという鈴木雅也さんの言葉に涙ぐむ。亡くなって10年。存命だったら完成した映画を観て「こんな風に作っていただいて、大満足で『大当たり〜!』と言って喜んだだろう」と妹に成り代わって話してくれたお兄さんの言葉を聞いて、原恵一監督も内心大喜びしたんじゃなかろうか。何しろ「合葬」の企画を自分でプロダクションI.Gの石川光久さんに持っていって、そこにあった「百日紅」の企画を受けて挑んだというくらい、杉浦日向子さんが好き過ぎるという原恵一監督。杉浦作品でも完成度の高い「百日紅」をいったいどうやって映像にしたら良いのか、どうやっても粗悪なコピーにしかならないんじゃないかと悩んで、どうれだけ遅くても筆を止めない自信があった自分の筆が一時、ピタリと止まってしまったというからプレッシャーも相当のものだったんだろう。

 それでも書いて描いて作った映画「百日紅〜Miss HOKUSAI」は立派に映画だった。そしてアニメーション映画だった。杉浦日向子さんの描いた江戸と江戸に生きた人間たちの物語だった。何より親子であり姉妹の情感に溢れた素晴らしいドラマだった。龍を描く話であり首が伸びる話でありお栄が色気を出せない自分に迷う話であったりと、短いエピソードを連ねて描いていきながらも1本筋としてお栄と妹のお猶との関係を貫き描いて、その仲睦まじさを見せそこに加わらない父・北斎の唐変木さを示しつつ、けれどもあいつは涙もろいというお栄の言葉を添えて、北斎が冷徹ではなく深い情を持った男だということを感じさせて、空気をギスギスとしたものにさせない。むしろ素直になれない可愛らしさを感じさせ、人間という弱いけれども優しい生き物の素晴らしさを感じさせる。

 合間にはお栄のほのかな恋心も入れつつ絵師としての矜持も交えつつ、静かに張っていったお栄とお猶と父と母の関係がだんだんと前に浮かびそして……。あそこ、あの場面に走る戦慄を、浮かぶ慟哭を味わいに僕は何度も何度でも劇場へと通うだろう。酷い奴では決してなかった北斎の諦観であり情愛が漂う空気を吸って、失う辛さを噛みしめながらも自分を生きていく力を確かめるのだ。映像としてもたぶん凄くて、江戸の空気感人間の歩いて走って驚いて慌てたりする姿表情の動く様子なんてものを、よくもまああれだけ描いたものだといった感想を、観る人が観れば抱くかも。

 東京アニメアワードフェスティバル2015の会期中にあった原恵一監督と樋口真嗣監督とのトークイベントで紹介された、井上俊之さんが原画をやっているらしい枝から雪がどさっとぼたっと落ちて粉が舞うシーンのその冬っぷりとか、作画アニメーションの凄さの真骨頂なんだろうなあ。いずれそれもCGにとって代わられるのか、手書きは手書きとして生き続けるのか。分水嶺にある作品なのかもしれない。あと気に入ったのはお栄さんの下唇のふっくら感かなあ、受け口ってほどではないけれど、すっとはしていない意地の強さってものがその口の感じから何か滲み出ていた。観て絵師もギョッとしたのも分かるなあ。デザインした人凄いし、描いた作画の人も偉い。

 それにしても最後の挨拶でお兄さんの鈴木雅也さんがもう、杉浦日向子が漫画家だったこともそして杉浦日向子という名前も覚えている人がいなくなっているかもしれないと話したことは、原さんと同様に杉浦日向子さんが好きな僕には驚きだったけれどでも、現実にはやっぱり遠い江戸の評論家でありさらに遠い江戸を描いた漫画家なのかもしれない。だからこそこれを機会に知られ読まれ驚かれ楽しまれることが何より大事。5歳下の妹から多くを教わり仲の良かったお兄さんの杉浦日向子を忘れないで、思い出して、伝えて広めていってといった気持ちを受け止め、僕たちはこの映画を世に広め、そして自分でも何度も通って観ようとそう思った。あの旋律を味わいに。どこかは映画を観て自分でそれぞれに考えよう。僕とは違った場所に惹かれる人もきっといるから。


【4月16日】 やっと見た「ミカグラ学園組曲」が、アニメーションとしてもストーリーとしても最高だったことについて。原作はライトノベルとはいえボカロ系だったこともあって読むのを遠慮していたから、ストーリーも設定もまるで知らなかったんだけれどもアニメによるとミカグラ学園ってところに入った少女が、部活動間のバトルを繰り広げるって展開が、不条理なんだけれどそれをものともしない説得力を持っていて、そういう世界があるんだと納得させつつ繰り広げられるバトルをスタイリッシュなアクションで描いてみせて、視聴者の目をグッと引きつける。いったい誰が描いているんだあのシーンとか、ってきっと誰もが思うはず。ってか誰なんだ、書道部のひみちゃんとのバトルシーンを描いたのは。

 テンポも良くってヒロインが妄想と現実とを行き来したりするシーンを、繰り返してもやれやれまたかって辟易とはさせずにしっかりと物語を転がしていく。脚本が上手いのか演出が良いのか監督がやっぱり凄いのか。岩崎太郎さんって「薬師寺涼子の事件簿」くらいしか監督をやっていない人が手がけていたりするけれど、もしかしたらこれを代表作にしてスラップスティック系の作品で大人気となっていくかも。問題はこれだけアニメのテンポが楽しいと、原作はどれだけ楽しめるかなあといったところか。原作を読んでいるとそこで得たリズムとアニメの違いに戸惑うこともあるけれど、今回はそれが逆になる。あるいは見事に“再現”されていたとしたら、小説としてそれは凄いものってことになる。読んでみるかどうするか。アニメの展開を見て考えよう。

 横浜市営地下鉄のセンター北とセンター南の間にある「minamo」って、そういや前に行ったっけって記憶を探って、あれはどこかの会社がスロットレーシングのコースを作ったのを取材に行ったんだと思い出した。それが今回と同じ場所なのか、すぐ隣りの今は子供向けゲームセンターになっている場所だったのかは定かでないけれど、それと同じフロアには間違いがないセガが置いていたゲームセンターが、新しく「KidsBee」って施設に生まれ変わるってんではるばる見物に行く。「Bee」といってもセガが展開しているダーツバーとは違って、こちらはどちらかといえば飲食を楽しむレストラン。ビュッフェ形式で料理がそろえられていて、時間限定であれもこれも食べられるようになっている。

 それだけならセガがやる意味はないんだけれど、そこには子供たちが遊べる遊具が置いてあって、ちょっとしたゲームなんかも遊べるようになっていて、親子連れが来て子供を遊ばせながらもママ友たちでランチなりカフェなりといった感じに使えそう。昔は原っぱもあったけれど、今は近隣にどんどんとマンションなんかが建って、移り住んだファミリー層が結構な数いそうな地域。そういう場所に青少年が楽しむゲームセンターではちょっと違う。ファミリー向けのアミューズメント施設にしてもやっぱり違うとなればやっぱり、親が楽しめて子供も楽しい場所にするってのがアミューズメント企業として、生き残るためのひとつの道なんだろう。食事は豪華で美味しくて、和洋中にスイーツまで揃って食べ放題はなかなか。余裕があれば行きたいけれど、何しろ遠いからなあ、あざみ野からさらに先って立地は。だから行くのはまたいつか。

 前に行った時にはなかった横浜市営地下鉄のグリーンラインってのに乗って日吉へと出て、そこから上野に回ってXYZプリンティングジャパンが新しく発売する3Dプリンタの発表会を見物する。前に12万円弱という3Dプリンタと3Dスキャナの複合機を出して大いに話題になったメーカーだけれど、今回は何と5万円を切る3Dプリンタを出してきた。デアゴスティーニだか何かのパートワークを組み立てれば結構な額する3Dプリンタが4万9800円。なおかつそれなりな大きさのものも作れたりして、これなら家に置いてみようって思う人が結構出てくるかも知れない。普及のブレイクポイントになったりするかも。とはいえやっぱり問題は何を作るか、っていった辺り。データもネット上にはあるけど、それで作れるものは限られる。自分が作りたい物を作れるようなデータ作りをサポートしてくれる仕組みが、あればもっともっと3Dプリンタは普及するなあ。

 朝日新聞がスクープした吉田調書が、その紹介においてねじ曲げられていたことを調査して突っ込みひっくり返したジャーナリストの人の活動、それ自体はとても素晴らしかったんだけれど、どうもその後に反朝日といった文脈に絡め取られて、同じ吉田でも慰安婦問題での吉田証言に関する分野でも発言するようになり、そうした主張を大々的に繰り広げている勢力に与する感じの発言が目立ち始めていたあたりから、ちょっと妙な感じを覚えるようになっていた。そんな勢力の人間が、韓国でもって大統領の名誉を損なうコラムを書いて起訴されて、出国禁止におかれていたことについて書いた文章が、さらにそうした勢力寄りになっていて、あれだけ事実に当たって朝日の曲がった角度を真っ直ぐに直した筆が、どうしてここでは曲がりっぱなしになっているんだろうかという思いに囚われた。

 出国禁止が解かれたことについて書かれたその文章では、なぜか名誉毀損にとられた文章までもが正当だったかのように言われている。でも違う。長期にわたり出国禁止にした韓国司法の処置は拙かった。けれどもそれで書いた内容が免罪されることは絶対にない。そして書いた内容は極めてお粗末で、セクハラ的で侮辱的だった。そして決して現地の新聞を引用しただけではなかった。引用に加えて証券街の憶測を乗せ、そしていかにも男女関係があったかのように書いた。なおかつそれを主にして書いたからこそ訴えられた。仄めかしつつもそういう噂が出ること自体に苦言を呈した現地の新聞は、だから起訴もされなかった。そこが基本。絶対の。

 なのにジャーナリストの人は「噂の『真偽はわからない』ことをきちんと明記した上で、そんな噂が出てくる『背景』をわかりやすくコラムで説明した。それは、あの事故のあと、朴大統領がどういう状況や立場に置かれているかが、よく理解できるものだった」と書いた。違うって。それをやろうとしたのは現地の新聞であって、コラムはまるで違っていた。それについての詳細な解説まであうるにも関わらず、ジャーナリストの人はこうも書いてしまう。「韓国の検察は、もとの『朝鮮日報』のコラムも、またその執筆者も、不問に伏したまま」で、前の支局長だけを名誉毀損として取り上げたと。どうして振り返ってそうじゃないことを知ろうとしないんだろう。ちょっと訳が分からない。

 あまつさえこうも書く。「2つめには、韓国に対しては、一寸たりとも『譲歩をしないこと』の大切さを教えてくれた、という点だ。何ひとつ譲歩せず、加藤氏は堂々と自説を唱えつづけた。だからこそ、『出国禁止』を解くという“譲歩”を韓国がおこなったのである」。いえいえ。東亜日報の社説にはこうある。「加藤氏は、昨年8月のセウォル号沈没事故の当日、朴大統領がチョン・ユンフェ氏と一緒にいたという疑惑を提起して2人が男女関係にあるように表現し、在宅起訴された。先月30日、ソウル中央地裁は、『記事の内容が虚偽であることが証明された』と判断し、これに対して加藤氏は『異議を申し立てるつもりはない』とした。自説を引っ込めたから解放された。それなのに相手が業を煮やしたかのように書く。書いてしまう。どうしてこうなってしまったんだろう。やれやれだ。


【4月15日】 やっとこさ見た「放課後のプレアデス」はあんまり状況を説明しない展開が状況不明なままで巻き込まれていく魔法少女っぽいヒロイン達の心情に重なって見えて面白かった。魔法の生き物が出てきてあれもこれもと喋って説明するんじゃなく、何事か起こっているんだけれどそれが分からないけどでも、やってみるしかないって能動の中からだんだんと見えてくるその世界、その展開。何かとんでもないペナルティがあるとかだったら嫌だけれど、ゼリーみたいなスライムみたいなプレアデス星人はそういう悪さをするようには見えないから、普通にエンジンのかけらを集めて欲しいと願っているんだろう。

 分からないのは主人公のすばるが通う学校の観測室を借り切って温室にしていたみなとっていう名らしい美少年。プレアデス星人のエンジン集めを邪魔しているようだったけれど何が目的なのか、っていうかすばるの学校にいるってことは学校毎に勢力図が分かれているのか、だとしたらすばるはどっちの組に入るのか。考えるときりがないからここはじっくりと見ながら世界観を理解し関係性を理解していって、そして作品に没入していこう。すばるとは幼なじみで、眼鏡っ娘のあおいとすばるがどうして進学で離ればなれになってしまったのは、どっちの誤解があったからなんだろうなあ、ってなことへの答えも含めて。ちょっとした行き違いで分かたれた道が、幸運にもひとつになる素晴らしさも感じられそうだし。

 イシュタルさん怖い。でもフレイヤさんもっと怖い。そんな大森藤ノさんの「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」の第7巻。ヘスティア・ファミリーに加わった極東出身の命の古い知り合いが、歓楽街にいるらしいと分かって助けに行こうって話だけれどその歓楽街を仕切っているのが美を司るイシュタルって女神様。でも美の女神ならフレイヤさんがいるじゃんって話で、どうやら2人はその座を競い合っているらしい。いやそうでもないか、フレイヤさんは天上天下唯我独尊とばかりに自分が頂点と思って他の誰も歯牙にもかけていなさそうだけれど、イシュタルさんの方は自分に自信はありながら、世間がフレイヤさんばかりを崇めることに憤っていつか超えてやると虎視眈々、その時を狙っている。

 そしてやって来たチャンス。鍵はベルくん。いろいろあって人数が増えたヘスティア・ファミリーのリーダーに収まったけれど、相変わらずの優柔不断で、異例の速さでレベル3になった癖に、どうにも頼りない。でもそんなベルくんを気に入ったらしいのがフレイヤで、これまでもいろいろとちょっかいをかけていたけど、そんな事情をヘルメスからベッドの中で搾り取って聞き出したイシュタルが、ベルくんをさらって籠絡しようとしたらフレイヤの逆鱗に触れたみたいで、激しい抗争が繰り広げられる羽目となる。それはヘスティア・ファミリーとアポロン・ファミリーのゲームなんて目じゃない苛烈さ。最強で鳴る軍団のその強さを見るに付け、アイズ・ヴァレンシュタインを抱えるロキ・ファミリアでもかなうんだろうか、なんて思えてくる。最初から無理かなあ、何しろフレイヤ・ファミリアには街で最強のレベル7がいるみたいだし。

 そんなこんなで見えてきたのはベルくんのあんまり普通じゃない出自と、そしてその背景をおそらくはつかんで、ベルくんを巻き込みつつ後押しもするヘルメスの策士っぷり。フレイヤさんは何か事情を知っているかというとそういう感じでもないけれど、策があろうがなかろうが蹂躙するだけなんで関係ないか。可哀想なのはやっぱりイシュタルさんかなあ。美に自信があってメンバーを魅了し尽くすだけの実力もあるのに朴念仁のベルくんには通じず恥をかかされ、そしてフレイヤに追われて叩き出されてしまった。競わなければ安泰だったのに。まあそこは女たち、競ってこそ華ってことなんだろう。それにしても1人、まったく活躍しない神さまが。ヘスティアさまマジ空気。アニメだとあんなに人気者なのに。せめてもうちょっと出番を。借金漬けでバイトに行くだけじゃなく。

 分かってないんだろうなあ。あるいはポン酢というか。安倍晋三総理が何か韓国を出国できた新聞社の前の支局長と面会をして「ご苦労様でした。裁判が続くようなので体に気をつけて」って労ったって話が伝わってきたけれど、これってつまり韓国で刑事被告人となっている前支局長の側について応援をして、韓国の司法に日本国総理として挑戦状を叩き付けたってことにならないか。それほど大げさじゃないって声も出そうだけれど、でも国の代表として他国だろうか自国だろうが、正当な手続きの上で行われている裁判で、どちらに味方するってのは、自分たちが被告にでもなっていない限りはあんまりやらない方が良い。三権分立が問われる話だし、外国の司法に挑戦状だなんてそれこそ内政干渉にもなりかねない。でも言ってしまう。応援を表明してしまう。季が違っているとしか思えない。

 長い間、出国を許してもらえなかったこと、それ自体を労うことは間違っていない。あまりに不当な判断として、人権を侵害していたと抗議して良い話だから。でも、裁判につて触れるのはやっぱり御法度だろう。そういう理屈を菅官房長官なら分かってくれて、会うのを辞めさせるなり、会っても言い方に気を付けろと助言してくれていると思ったけれど、もはや総理といっしょに半径5メートルくらいしか見えなくなっているのかも。そして世間の反発を招く。忙しいとかいって沖縄県知事には合わないくせに、そしてイラクで殺害された後藤さんや湯浅さんの霊前に弔問はしないくせに、自分を喜ばせてくれる新聞の元支局長には昨日の今日で面会をして、労いの言葉までかける。そんな不公平で不公正極まりないリーダーを仰ぎ見なくてはいけない不安感たるや。そんな意識が、そして空気がジワジワと広がりダメージのように国民の心情を痛めつけた先に、どんな国の姿が現れるのか。見極めざるを得ないなあ。逃げることは出来なさそうだし。逃げたいけれど。やれやれだ。

 入間人間さんの「おともだちロボ チョコ」(電撃文庫)がSFだった。設定というより観念としてSF的だった。怪物に攻められ人類はエリートが火星に移住していく途中で、そこから怪物の目をそらすために地上に残った人たちが怪物と戦う人柱になっているという世界。主人公のトモカという少女は父親も母親も妹もエリートとして火星に移住しているんだけれど、トモカだけは成績が足りず残って人柱となって怪物と戦う部隊の候補生となった。そして実地訓練としての出動でとてつもない怪物と遭遇する。周囲がすべて食われてしまう中、トモカは優秀ではないが故に生き延び、そこでチョコという名のロボットの少女と出会う。

 チョコは博士が開発したとてつもないロボットを操縦して怪物を倒すけど、ほかにもいろいろ混沌をもたらす。それでもトモカとは友人になり2人で怪物に立ち向かっていくというのが主なストーリー。そこで描かれるのは、人類の未来を伺う戦いの行方っていうよりは、もっぱらロボットと人間の間に通う友情のありやなしやだったり、怪物に攻められた世界の終末的空気の中で人の思考は刹那的になるか責任感に彩られるか、ってな命題への答えだったりする。はっきりした決着はなかったけれど、滅亡へと向かう世界のビジョンはどうにも切なくて胸苦しい。そこに残って父親と母親と妹にむかって自分は頑張っているよと、憤りもせず淡々と語るトモカの優しさが心に響く。そういう自分になれるかな。なれそうもないなあ。欲深いから。


【4月14日】 ほのぼのとしてちょっぴりエッチで、ふんわかとしてそれでいて奥深い。そんな要素を持った漫画をずっと描き続けてきた粟岳高弘さんの新刊「いないときに来る列車」(駒草出版)を読んだらもうこれはSFで、読むほどに滲んでくる不思議な世界で生きる人たちの現実とは違う、けれどもそれを日常として受け入れているスタイルが漂ってきて、人類の可能性への想像力って奴をかき立てられた。メインになるのは「斥力構体」っていうアンテナみたいな形をしたものが空に浮かぶようになっている、草原というか湿地というか原野といったものが広がった世界が舞台となったシリーズで、そんな不思議を受け入れる人がいる一方で、ゲートみたいなもので繋がった先に地球から飛ばされた人たちが四半世紀、コミュニティの中で暮らしていたことも描かれていて、こことあそこを行き来する面白さめいたものを感じさせられる。

 服が破れてしまうから特殊な繊維で織られふんどしを着け、そして胸はガムテープみたいなもので押さえたりするスタイルはエロティックだけれど、それを目的として見せるというよりは、そうした不思議が起こる世界があり、そうした世界をあるいは支配しているのか、遠くから眺めている者たちには別の思惑もある、ってな感じになっているところに今を生きているだけでなく、生かされている人類の立場ってものが感じられる。それが真実ではなくても、そういう真実があるかもしれない可能性。それが決して怖いものではなく、楽しいものかもしれないというビジョン。そんなものをくれる連作になっている。彼らは何がしたいんだろうか。何もしたくないんだろうか。分からないけれどそういう宇宙に僕たちは生きている、かもしれない。

 表題作は、そうした「斥力構体」シリーズとは外れた単独の作品なんだけれど、まずタイトルがいかにもSF的。「いないときに来る列車」。ル・グィンみたい。どうしてそんな列車が存在するんだろう。来た列車は何をしてくれるんだろう。物資を運んできてくれるらしい。それはどこから来ているんだろう。遠くの方に飛ばしたドローンが集めた映像では世界は滅び去っている。でも列車はいないときに来て物資を落としていく。誰が何のために。そこにくくりつけられていた手紙。誰かがどこかで生きている。いないときじゃないときに、列車をつかまえ手紙を載せた。それはどうすれば分かるのか。タイミングか。サイクルか。そんな不思議や謎の向こうに人類が滅びかけ、機械のサポートも留まり駆けているはるか未来の地球のビジョンが浮かんでくる。どうしてそうなった。これからどうなる。知りたいけれど、切り取られた断片から想像するのも楽しい。それがSFの醍醐味。それを味わわせてくれる物語。素晴らしいなあ。SFの人にもっと読まれて欲しいなあ。

 何で協会のトップに今さら川淵三郎さんなんだろう、という疑問はさておいて、バスケットボール界の重鎮たちがずらりと雁首を揃え、一時は総理大臣経験者まで上に仰ぎ見ながらまるで解決を見せなかった日本バスケットボール協会の改革が、ここに来て一気に進んでいくことになりそう。日本バスケットボール協会の会長に川淵三郎さんが就任。サッカー界のトップを務めた人が、というか1つの競技団体のトップを務めた人がまるで無縁の競技団体のトップに就くなんて、海外はともかく日本じゃあ滅多にある話じゃない。それだけにこれからの展開にはバスケットボール界の内外、そしてスポーツ界の内外から関心が集まるだろう。お手並み拝見といった具合に。

 この異例の事態、発端は国際バスケットボール協会から日本のバスケットボールのトップリーグが、従来からある日本リーグが変化したナショナルバスケットボールリーグと、それから新しく発足してプロ化を最初から意識していたbjリーグとの2つが並び立つ形になっているのが問題視されて、それが日本のバスケットボール界の歩みを鈍いものにしているってことで改善を求められたことにあるる。でもって統合に向けた話し合いもあったんだけれど、NBLの方にある有力チームが旧来からの実業団で企業の福利厚生なり広報宣伝のためのチームとして機能している関係で、用意にプロ化も企業名のチーム名からの除外もできず、bjリーグとの統合に難色も示していて話が進まなかった。

 そりゃあ進むはずもないよなあ。日本のバスケットボール界を牛耳っている人たちは、そうした有力企業チームなんかをバックに持っていたり、親しかったりする人たち。それが嫌でbjリーグは飛び出しプロリーグを結成した訳で、今さらいっしょになれといったってなれるはずがない。それでも、バスケットボールの日本代表が国際大会から追い出されかねない事態になって、これはさすがに拙いと誰もが思った様子。東京五輪を前に無様な姿をさらしたくないといった日本政府からもプレッシャーがかかる中で、どう統合へと持っていくか、って話し合いを進める上でバスケットボール界とは無縁でそして、サッカーのプロリーグを立ち上げた川淵さんの剛腕に期待の声が挙がった、ってことになるんだろう。

 そして満を持してトップの座に就くことになった川淵三郎さんに、いったい何が出来るのか、どれくらいのことが出来るのか、ってなるとううん、まるで見えないのはその力の源泉が分からないから。バスケットボールの団体に影響力がある訳でもないし、企業に顔が利く訳でもない。サッカーと同じところもあるけど違うところもあるし。とはいえ国がおそらくは後ろにいて立てている以上は、それなりに権限もあるし、落としどころへの含みももっての就任となるんだろう。その結果として、実業団の有力なところが抜けても、川淵さんの剛腕にすべてを帰結させつつ1本まとまっった案を出していくことになるんだろう。結果、日本のリーグがどうなるかってことだけれど、bjリーグが持っていた、ローカルでこぢんまりとしながらも熱い空気が広がることを願いたい。千葉ジェッツはどうなるかなあ。船橋アリーナはちゃんと会場になるのかなあ。

 右手のやっていることを左手が知らないというか、超えてはいけない線への意識が希薄で易々と超えてしまって後で大騒動というか。ちゃんとまじめにLGBTの就職について取材して記事にもしているのにも関わらず、とある全国紙がなぜか海外渡航の制限に関する是非を論じた憲法に関する記事に、女装姿で海外渡航をしたがる父親を止めようとする家族のイラストを添えて、それがあたかも海外渡航を制限される事例のように取りあげられている。家族の問題がどうして国の問題に匹敵するのか。個人が表現の自由でありあるいは心情としてそうせざるを得ないから女装をして、そして国内外のどこに行くのに国が制約なんてできるはずはない。

 家族が自分たちへの迷惑を考えて止めることはもちろん自由だけれど、それを聞き入れるかどうかも父親の自由で、そこはだから家族でよく話し合ってということで、国とかが介在する余地はないだろう。だからまず、事例として添えているのは拙いしそして、父親が女装をして出歩くことを疚しいもの、みっともないものとそらえ止めさせようとする行為そのものに対して、何か批判的なニュアンスを漂わせてしまっているのも大いに拙い。もちろん、家族間での問題として話し合うはもたれるべきだけれど、それが常識として、あるいは良識として埒外におかれるといった認識は今、通用しないだろう。そう考えればこれは拙いと掲載の段階で誰か止めるべきだったけれど、そういう部分で校閲を行う人材もなければ組織もないんだよなあ。だから作家のアパルトヘイト礼賛も出てしまう。一生懸命にLGBTの問題に取り組んでいる人もいるのに、これで信用も下がってしまう。勿体ないなあ。でも仕方がない、そういう体質を是としている組織なんだから。やれやれだ。


【4月13日】 さいたいま市議会議員をやり埼玉県議会議員もやった田口禎則さんが先輩にいるから、浦和レッドダイヤモンズの選手だった元Jリーガーの政治家への転身は珍しいことではないし、日本代表としての経歴も田口さんにはあるから、これも元日本代表の政治家転身として初といった感じにはならないというか、そもそも参議院議員に釜本邦茂さんが当選しているから、頂点はそこになってしまって決して凄いとは言えないんだけれどでも、日本代表にもなりアジアチャンピオンズリーグで優勝も果たしたゴールキーパーが、まだ若い身でさいたま市議に当選したって意味で、都築龍太さんの当選はちょっと意味がありそう。ここからどんな政策を打ち出し何をやってくれるのか。見ていこう。サッカーにとって良いこと、してくれるかな。

 想像はしていたけれども「ちはやふる」の重大発表は実写化だったようで、あとは誰が誰を演じるのかってところに注目も集まっていきそう。同じ「マンガ大賞」の受賞作から実写化された「海街diary」は、もうベストとしか言えそうもない布陣でもって布陣が決まってあとは公開を待つばかりになっているけれど、既にアニメーションがあってあの漫画のあの絵が動いて声もついているのをしっかり見ている脳だと、漫画から直接実写へと行った「海街diary」より壁が1段、高くなってて違和感異論の噴出って奴もありそうな予感がする。自分的に。

 アニメはアニメでキャストもスタッフも共にもうベストとしか言いようがない布陣でもって映像化されていて、原作が持つ繊細な感じが丁寧にすくい上げられていた。なおかつ競技かるたという速度が何より大事といった絵にしづらいイベントを、スローとか使い心情を重ねるような演出でもってしっかりと見る人を没入させていた。そこは1球を投げるのに30分の時間をまるまる使って映像にしていた日本のスポーツアニメの伝統が、しっかりと受け継がれたんだと言えそう。でもってそうしたスポーツ物が実写になった途端に、どこか珍妙になってしまうのは実写だから当然にリアルなキャラが漫画のような、あるいはアニメのようなバーチャルな動きをしてしまうからのような気がする。

 止め絵のモノローグからスピードを上げるにしても、スローでもって動きをじっくり見せるにしても、アニメなら可能なことが実写だと難しいとしたら果たしてかるた競技のようなスピードが速すぎてよく分からず、そしてどうしてもぐちゃぐちゃになってしまう場面をすっきり、どう見せるのかってところが興味の向かうところになりそう。どうなるのかなあ。ってこれは主演が誰かと関係ないか。あるいは人気の女優に俳優にタレントにアイドルを並べた青春映画にしてしまうって手もあるか。それが「ちはやふる」かどうかはもうどうでもよいっていう。それも寂しいけど一方で興味はある。どうなるか。そもそも誰が撮るのか。そんなあたりから想像していこう、完成型を。しかしやっぱり気になる綾瀬千早役。橋本愛さんとかかなあ。美人だし。背丈もあるし。

 そして末次由紀さんの「ちはやふる」単行本第27巻は、真島太一が恋路に敗れてかモヤモヤが募ってか競技かるた部を辞めてしまってそれに引きずられて千早も心ここにあらず。生意気で鬱陶しい1年生も入ってきて作品の眼鏡女子度が高まった一方で、持ち前のウザさも増して空気が悪くなるかるた部で、花野菫は奮闘し大江奏ちゃんも頑張っているけど、やっぱり競技かるた部としての強さとなると心許ない。とはいえ太一は心が離れてさまよい、千早も今は遅れていた勉強に邁進といった中、遠く福井で綿谷新が3年生になって部活を立ち上げあの富士崎へと遠征にって太一や千早の離脱を知りながらも流されず奮闘して自分の頑張りを見せつける。

 太一には通っていた予備校に講師として現れた周防名人の、あれは励ましなのか、ただの悪口雑言なのかは分からないけれど、太一の心をえぐって前向きにさせるような言葉があり、千早はかるた莫迦だから新の近江神宮で会おうぜって言葉に、そりゃあ会いに行くしかないでしょって感じに2人とも、各々の迷いを振り切って、かるた部へと合流していく……ってのがこの続く巻でのエピソードになるだろう。そこでいったい田丸妹は改心なりを見せて可愛い眼鏡っ子になってくれるのか。やっぱりイケズな性格のままで勝ち星を主張して大将におさまり、ほかの学校にコテンパンにされるのか。かるた莫迦の本領を発揮した千早の凄さにほだされ、1年生からやり直すって感じになるんだろうなあ。田沼妹も生意気な眼鏡っ娘のままで良いんだけれど、それだと逢坂恵と被るから出来れば違う方向で。あと天然パーマ君、どんな戦力になるんだろう。いろいろ期待。

 「BAMP OF CHICKEN」がオープニングを歌ってりゃあ、そりゃあ格好いいサウンドになるより他に道はないし、「UNISON SQUARE GARDEN」がエンディングを歌っていれば、もうキャッチーに楽しいサウンドになるより他にないって意味で、「血界戦線」の本編を挟んだオープニングとエンディングは完璧以上。でもってエンディングに関していえば、登場人物たちがライブラの面々に限らず堕落王とそれからあれは偏執王も入れつつ、カフェのおやじとビビアンなんかも混ぜて踊ってみせるアニメーションは軽快で、K・Kの脚の上がり具合とかチェイン・皇の珍しいドレス姿なんかにも目が行って、ついつい見逃さず早送りもしないでじっくりと見てしまう。これのノンクレジットを見るためだけにブルーレイディスクを買おうかって気にさせられる。

 ただオープニングはまだ1見だけれど、そのスタイリッシュなサウンドに乗って絵が派手に動いてみせるかっていうとちょっとどこか寸止めされているような感じ。ぶわっと来るアクションとかぴゃーっと行く疾走感って奴が絵にはうん、あんまりないんだよなあなんてことも想ったけれど、誉める人がいっぱいいる世界でそれはちょっと言い出せないのだった。だから陰でこっそり言おう。もっと派手さが欲しかったって。本編はやっぱり何か淡々としているなあという印象。シーンでみれば格好いいしクールだしキッチュだしスタイリッシュ。でもやっぱりあの短い漫画の1話をアニメにするとなると、どうしても平板さが現れてしまうなあ、なんて思った「血界戦線」アニメーション。なぜかずっとロジャー・スミスが喋ってた。ビッグ・オーはいつ来るんだろう?

 初音ミクは美しいけれどミクダヨーさんは可愛いのはやっぱり頭身が大きく影響しているんだろうなあ、なんてことを目の前に現れたミクダヨーさんを身ながら思ったニコニコ超会議の2015に出展する企業による広告費1000万円相当をかけた「出展企業ウォーズ」だったけれど、そんな頭身ではやっぱり「ブタミントン」には勝てずに敗退。そしてミクダヨーさんを破った万世も谷間がくっきりな衣装が素晴らしかった万世ガールズの色気だけではニコニコ生放送の向こう側を喜ばせることはできずにスタイリッシュで弁舌も立ったスクウェア・エニックスが見事に勝利をもぎ取っていった。おめでとう。でもニコニコでもって1000万円相当の広告費っていったいどれくらいの掲出とかが出来るんだろう。すでにテレビすら上回りそうな注目媒体。バナー1枚が1日とかCM15秒とかってことになるのかな。さてもさても。


【4月12日】 原理的にはたぶんそんなに難しいものではなく、そしてデジタル放送になってはっきりと電波を遮断できるようになったこともあって浮上した「NHKだけ映らなくするアンテナ」だけれど、問題はだからそれを取り付ければ電波法的に受信料を払わなくても言い逃れが効くようになるかってところで、受像器があってもそれが受信できる状態になっていなければ払わなくても良い、たとえばアンテナがついてない場合とかって考えを敷衍させれば、その装置が固定化されNHKの電波をカットするアンテナだと認められれば映らないから払わなくても良いって判断も出るんだろう。分からないけど。そのあたりを詰めて裁判をするそうだけれど、でもそれで払わなくても良いとなったら今度は誰もが払うような法律が出来るだけって気もするなあ。鼬ごっこが酷い形で出る前に、どうにか落ち着いて欲しいけど。突き詰めたい人は突き詰めたいんだろう。戦いは続く。永遠に。

 気が付いたら8年も経っていたというか、ファッションモデルとして世界で活躍した山口小夜子さんが亡くなられたのは2007年8月のことで、年齢もまだ57歳と若ければ、その死が周囲にまるで知られることのなかった急逝だったことも相まって、エキゾチックな美貌を笑顔や泣き顔に染めることなく、淡々と、清々と世に向けてきた人らしい神秘性が、なおいっそう深まったなあ、という印象を遠巻きながら受けた。遠巻きっていうのは決して何か積極的にその姿を見ていたって訳じゃないからで、だから程なくしてその死への驚きも薄れ、存在は記憶していても表だって考えることもなくなった2015年4月、東京都現代美術館でその山口小夜子さんを取りあげた「山口小夜子 未来を着る人」というのが始まったんで寄ってみた。

 現代美術とファッションモデルにどんな脈絡が、って言えなくもないけどこの美術館は確か前に三宅一生さんの展覧会も開いて、ファッションであってもアート的な思考を持った作品として取りあげたことがあったし、ダンスパフォーマンスのようなファインアートとはちょっとずれた場所にあるものも、積極的に取りあげてきた過去がある。今回の「山口小夜子 未来を着る人」もひとり、ファッションモデルとしてお仕着せの服を身にまとってきた職業人としてだけでなく、その人間を形作っていた当時の文化なりアートなり音楽なりファッションを重ねて、往事の文化的芸術的空間が持っていた空気をそこに、蘇らせようとしている感じがあった。

 そして、そんな空気の中から生まれた広告でありCMでありファッションでありパフォーマンスといったものが持つ、巧みに造形され構築され勘案されて世に送り出されたものであることを示して、山口小夜子さんを核にしたひとつのアート的空間が形作られていることを示そうとしていた、って言えば良いのかな。たとえば有名な資生堂の広告とかは、写真家の横須賀功光さんが撮った写真をアートディレクターの中村誠さんが極限まで切りつめ、煮詰めてひとつの作品として世に送り出したものばかり。そのポスター1枚、その映像1本に込められた芸術的な挑戦、文学的な模索、哲学的な懊悩はとてつもなく、それらが集約され結実したものとして世に問われた作品はだから、見て表層に現れている美の奥に深い思索を感じさせ、瞬間の感嘆に終わらせない。

 よくもまあここまで煮詰めたものだって気がするけれど、当時は表現できる場所も限られる中で、集客という一定の効果は得られるなら、その上で集まった人たちにどれだけの知見を与えられるかってところが大きな主題になっていた。広告であっても目を引くだけでなく、目を引かせた後に与える効果が問われていたけれど、今はとにかく数が頼りで集めればそれで勝ちみたいなところがあって、素人でも誰でも話題になれば群がり話題性を上積みして、盛り上げ持ち上げた挙げ句に消費して、次の目立ちたがり屋を持ち上げる繰り返しになっている。下品さが横行してもそれが数だという言葉の前に、芸術も文学も哲学も蔑ろにされる。そんな空間から時代を越える美は、言葉は、表現は生まれてくるんだろうか、なんてことを資生堂の一連のポスターから考えた。

 さて山口さんはといえばそうした、エキゾチックな美貌で広告における芸術性と哲学性と文学性を体現するアイコンとしての立場に留まることなく、自らが積極的に表現へと関わっていったって感じ。ただそのあたりの雰囲気は、1980年代90年代のハイカルチャー的な文脈においてのことであって、どちらかといえばサブカルチャーに関心が寄ってしまった僕にはあまり活動が耳目に触れることはなかった。人形劇に出たりパフォーマンスをやったりと活躍はしていたみたいで、2007年のその死の直前まで活動は続いていたようだから、どこかで見ようと思えば見られたかもしれないけれど、終ぞ及ばなかった我が足を今にしてちょっとだけ悔いる。

 展覧会で流れていた体を動かしながらの朗読は、その風貌その衣装に加えてその衰えない艶のある声も重なってひとつの劇的な空間を作りだしていた。見れば驚き惹かれただろうことは確実なだけに、それを見逃していた自分がやっぱり残念。なのでこれからはサブカルだハイカルチャーだといった分け隔てもなく、気になったら突っ込んでいくことを心情としよう。命もあまり長くなくって、山口さんが亡くなった年齢まで10年もない身。その活動の幅に近づくことなんてとてもじゃないけど無理ならせめて、多くある活動に少しで触れて身に入れ世に問えるくらいの活動をしていければと思うけれど、逆にそういう活動が、数の論理がもたらす人気の明暗によって廃れていってたりするんだよなあ。サブカルがメインになっていくのは良いとしても、素人芸が人気をバックに世に喧伝されて良いのかどうか。それが時代だというならそれも見るのが正しいのか。ちょっと考えたい。

 山口さんをリスペクトしていた人の作品ではやっぱり、森村泰昌さんのなりきりシリーズが良かったなあ、近く山口さんと往復書簡を取り交わすことが決まっていながら、急逝によって実現しなかった森村さんが、自分の中の山口小夜子をどう出すかってことに挑んだシリーズはそ、っくりに化けることにも増して、その眼差しその佇まいまでをも身に込め発してポートレートの中に炸裂させている。見ればまがう事なき山口小夜子さんだと思い、そして知って森村泰昌さんだとも思う作品。そこに至るまでに肉体的物理的なセッティングとは別に、どんな心理的なセッティングがあったのか、ってことをいつか聞いてみたいもの。そのアプローチは誰かを理解することにつながる方法論だろうから。山川冬樹さんのあれは映画「原子力戦争」との裏表か。知らないと、亡くなった人を半原発的なパフォーマンスに引っ張り込むなよと思われるかもしれないけれど、映画を知って果たしてどう思うのか。DVDを見てちょっと考えたい。まだ買ってないけど。

 東京ヴェルディとのコラボレーションを機会にしてか、テレビアニメ「甘城ブリリアントパーク」の一挙放送がニコニコ生放送であったんで、途中から途中まで見ていたらやっぱり面白かった。テレビで放送されていた時にはなぜかあんまり録画し切れていなかった話数が多くて、新入りを面接するエピソード以外のたとえば地下で竜とモグラを見つける話とか、可児江西也が倒れたんで誰かが変わりに着ぐるみを着て学校に行って騒動を起こす話とか、異世界から海賊船がやって来て騒動を起こす話とか改めて見てみてそれぞれが、ちゃんと動いてちゃんと話もまとまって、落ちもついて間延びもせず急かされもしないで楽しめた。早送り不可能な視聴でこうやって引きつけるんだから、やっぱり演出も優れていたんだろう。本放送時は今ひとつ話題に取り残されたところもあったけど、こうやって再認知されることによって、次のシリーズとか動いてくれると嬉しいかも。とはいえ本編は大きな物語がちょっと引っ込み、小ネタの連続になっている感じ。そこを超えて続きを気にさせる物語が構築できるか。それで2期の行方も決まってくるかな。期待ちょっぴりで模様眺め。

 まあ当然だけれど「週刊金曜日」でもって、某全国紙が1面で堂々ぶちあげた、南京事件なんてものはなかった南京には誰もいなかったから殺害なんてありえなかった松井石根大将は極東軍事裁判で始めて南京事件のことを知ったってことが全部デタラメだってことを、週刊金曜日関係者ではなく南京事件の被害者を過大に言う勢力に対して反意を示している人までもが言っていた。名だたる歴史学者戦史家たちがそういう結論を出しているにも関わらず、何が目的なのか手前のプライドを満たしたいだけなのか、過去を消しにかかる勢力の懲りない言動にはその都度、言葉をぶつけていくことが大切なんだけれど、それでも懲りずに繰り返す勢力に辟易とし始めているのも実際のところ。そこで引っ込めばさらに図に乗り、あったことをなかったと言いだしかねない。真っ当なメディアが真正面から潰しにかかってくれれば良いんだけれど、未だ眼中にないって感じだものなあ。触って噛みつかれでもしたら汚れが移るとでも思っているのか。そうかもなあ。やれやれだ。


【4月11日】 あらかじめ分かっているバグが動くように、棋士がその手をコンピューターに指させるように持っていくことがありか無しか、って考えた時に答えは2つくらいありそうで、ひとつはやっぱりプロ棋士なんだから、相手が確実に間違えるだろう手は指さずに真っ向勝負できる場所へと出てから、そこで棋力をぶつけ合うべきだっていうのと、もうひとつはこれで負ければ人間側の負け越しが決まる勝負では、絶対に勝ちに行くのがプロ棋士であって、そのためにはハメ手でも何でも使って相手を負かすんだというのがある。どっちもどっちだけれど、個人的にはやっぱりここしばらく、人間の負けが続いていた勝負で人間が人間としての狡さも何でも繰り出して、勝ちに行ったことをよくやったと讃えたい「電王戦」。

 わずか21手での投了は、ソフト側を持っていた人がそうなれば投了すると決めていたからだそうで、その投げっぷりはある意味で人間くささくもあるけれど、もしもそこに人間が介在しないでソフトが指し続けたとしても、負けが決まっていたならやっぱり投げるのがソフト制作者であり元奨励会員でもある人の矜持って奴だったのかも。ただバグが事前に発覚しても、直せないっていうのは本当に人間対コンピュータのレギュレーションとして正しいのかどうか。どっちも日々進化するのに、片方だけが進化を止められてそれで公平な勝負になるのか。なんて疑問も浮かびそう。次があればそのあたり、改良されるのかな。というかそもそも次があるのか。「電王線」としては途絶えても、こういう勝負は続いていって欲しいなあ。

 ヘスティアさまが健気すぎて切なさに涙も出てくる「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」のアニメーション。成長いじるしいベルくんのために土下座までしてフェファイストスに武器を打ってもらおうとするなんて、普通じゃない入れ込みようだけれどそんなベルくんがどんどんと強くなっているのは、アイズ・ヴァレンシュタインに認められたいからだとも知っているだけに、ヘスティア様の心中の懊悩ぶりは想像して余りある。でもそこで見捨てないのが神さまなんだよなあ。偉いなあ。これからますます空気化が進むはずなんだけれど、こうした演出を見ているとアイズたんとの対比をもうちょっと際だたせて描いていくのかな。そんな気がしてきた。人気もあるし引っ込められないよねえ、もう。

 そんな神さまがいっぱい出てきた今回は、ロキの貧乳ぶりとヘスティアさまの背丈に似合わない豊乳ぶりが対比されて目にも楽しかったけど、頃合いでいうならヘファイストスさまが身長に見合った胸でなおかつお尻も引き締まってて目にも麗しい。小説だと男装が効いてる感じだけれどアニメは女性らしさも覗かせているって感じかな、こえもハスキーで良い感じ、寺崎裕香さんかあ、これからほかに何を演じるかに注目していこう。あとは何かを企んでいるフレイヤさま。まずはモンスターを逃がしてベルくんの力を試そうとしているけれど、ここを乗り切っても次から次へと陰謀を廻らしベルくんを籠絡にかかるんだっけ。原作ちょっと忘れてるんでこれを機会に読み直してみようかな。

 このコラボレーションが発表された段階で、こういう結末になることは決まっていた、なんてことはまるで全然思っていなかったサッカーJ2リーグの「東京ヴェルディ対FC岐阜戦」は、それぞれが近隣ということで東京ヴェルディが「甘城ブリリアントパーク」、そしてFC岐阜が「のうりん」とコラボレーションしていてそれらが激突する「アニメコラボマッチ」として行われた訳だけれど、前半にFC岐阜が3点をハットトリックでもって奪って東京ヴェルディにお通夜感も漂い始めて、あらかじめ用意されていただろう「GOAL!」というコラボレーションイラストも、前回の「とある科学の超電磁砲」とのコラボレーション時と同様、掲げられないまま終わるんだろうなあ、なんて予想が浮かぶ。後半に入ってもヴェルディ側に攻め手はなくってゴールは奪えず、その色が濃くなっていった終盤。奇蹟が起こる。まさしく「甘城ブリリアントパーク」的な。

 まず1点が返されて、待望の「GOAL!」のイラストが見られてホッとしたのも束の間、フリーキックから1点を決めて2点として1点差に追い付きさらに、アディショナルタイムに2点を奪って大逆転。絶体絶命の苦境から来場者を呼び集めて存続を決めた「甘城ブリリアントパーク」にも負けない感動の逆転劇って奴が繰り広げられた。これにはコラボレーションを決めた関係者も喜んだんじゃなかろうか。「当然ですよ『甘ブリ』が付いているですから」と言えればもちろん良いけれど、そういう状況にまるで見えない試合ぶりだったのも事実。1点差まで来た段階でとりあえず、コラボしたから大敗したんだとは言われなくなって安心していただろうとすら想像できる。

 けれどもそこから同点となり逆転となったことで、今度はコラボして良かった、まさに甘ブリ効果、ラティファさまマジ女神って言われることになりそう。宣伝効果も抜群で、これで「甘城ブリリアントパーク」って何だって思って、サッカーファンが作品を見てその面白さを感じてパッケージを買うなりしてくれれば、作品も報われるだろうし来場していたモッフル卿もお慶びになるだろう。もちろんラティファさまも。仕込んだって出来ないし仕込めば八百長になるサッカーのコラボ。そこで勝利できたのも、熱意をもってアニメのコラボに取り組んだ人たちがいたからで、その頑張りにラティファさまが勝利を届けたとここは思うこといしよう。

 5月17日は今度はヴォルテス徳島を相手にした試合で、稲城市が対象となったマッチデーが汲まれているようで、そこで稲城市がモデルとなった甘城市って視点から「甘城ブリリアントパーク」とのコラボがあるみたい。その時には千斗いすず訳の加隈亜衣さんも来場するみたいだし、試合後には「甘城ブリリアントパーク」がモデルにした「よみうりランド」でイベントもあるとか。どんどんと濃さを増すそんな「甘ブリ」とのコラボが、順位的にはまだ下の東京ヴェルディを一気に浮上させるかってのが目下の注目点。今日の試合での「甘ブリ」効果を見ていると、本当にラティファさまが存在して、可児江西也みたいな参謀も存在して、土壇場でひっくり返すような事態も起こりそう。でもジェフユナイテッド市原・千葉が首位でJ1に上がることは変わらないけど。変わらないのだ。変わってたまるか。うん。

 それは虚偽だったと裁判所が下した判断を異論がないと認めつつ、けれどもそんな虚偽でも出したからこそ事態の解明が進んだんだ、だから意義があったと吹く某全国紙の元ソウル支局長に対して「ファクト(事実)を命同然に守るよう教えられてきた記者の立場から見れば、とても当惑せざるを得ない」と行った朝鮮日報の記者の人の意見には、ごもっともとしか言いようがない。権力もなければ資金もないジャーナリストにとって、真実の積みあげだけが誰かを救い、誰かを追いつめられる。その基本を蔑ろにして事実でなくてもブラフによって世間を動かせるんだと言ってしまった時、そのジャーナリストが所属しているメディアのすべてから信頼が消える。嘘まみれで角度がついた為にする記事だというレッテルが貼られる。

 それで良いのか? 良いわけがない。というか自分たちだって隣国に対して「事実は二の次 韓国の『歴史』への願望と思い込み」だなんてタイトルでコラムを書いて、ご都合主義的に言葉を並べようとする態度を真っ向から批判している。その同じ筆が嘘でも目的があれば良いだなんて言っているから訳が分からない。真っ当な頭があればとてもじゃないけど言えることじゃないんだけれど、それでも言ってしまって矛盾を露呈してしまって恥じないところに末期的なものが浮かび上がる。おそらく裁判は負けて名誉毀損となるだろうけれど、それでもなお意義があったと言うんだろうなあ。犯罪的だと認定された行為に意義があったと吹いて、それで真っ当な事件報道、裁判報道が出来るのか。読者に信頼してもらえるのか。出来るし信頼も得られると思っているんだろうなあ。参ったなあ。


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