「舟越桂 夏の邸宅」
展覧会名:舟越桂 夏の邸宅
会場:原美術館
日時:2008年7月21日
入場料:1000円



 「東京都庭園美術館」で2008年7月19日から始まっていた舟越桂の展覧会「舟越桂 夏の邸宅」。東京は目黒にある旧朝香宮邸宅という、アール・デコの邸宅と庭を公園にした場所を舞台に繰り広げられていたそれは、旧来のモダンさが漂う空間に、木というとても親近感のある素材が使われていながらも、両性具有の姿態と異常に伸びた首をもった異形のフォルムを持った人形たちが、巧妙にあてられた光の中に浮かび上がって、日常さとはすでに縁遠い宮様のお屋敷の空間を、さらに異質なものへと変えていた。

 とはいえ、モダンと異形がぶつかりあっている感じはない。西村画廊やその他の美術館のような、単なる四角い部屋に置かれただけの彫刻では感じられなかった生命感、存在感といったものがそれぞれの彫刻に与えられて、より見る者へと迫って来る感じが漂っている。

 ずいぶんと懐かしい作品もあって、禿頭で眼鏡をかけたおじさんの半身が刻まれた像が置かれた場所が、書庫とも書斎とも言えそうな場所で、そこにその人物がずっと居続けて声をかければ返事をしそうな雰囲気があった。リアルさを残していた時代の作品に特徴の、見ているといつか動き出すんじゃないか、といった感覚が味わえて古いファンには面白いものになっている。

 女性の裸体の半身像「言葉をつかむ手」に至っては、トイレも付いたバスルームに置かれてあって、それを観覧者は入り口から眺めるようになっている。裸の女性がいたって不思議のない場所でありながらも、裸の女性なんて絶対に見られるはずがない場所に、そんな女性が自分をさらけ出している姿を、やや遠巻きに見つめるこちらの内心には、劣情というか不思議な情動が持ち上がってきて、彫刻から目を離せなくなる。

 「東京都庭園美術館ニュース」という美術館が制作しているリーフレットの第36号を見ると、いろいろと置き場所を考えていたみたいで、暖炉の上や書斎の机の上、居間の片隅といった場所を移して置いた試行錯誤の様子が綴られている。もっともバスルームに置かれたそれは、どこにも増してピタリとハマっている感じ。置いてみて空間に浮かび上がったその空気に、舟越桂もきっと快哉を叫んだのではないだろうか。かつてヴェネチアに出展した時に、台座と半身像の間に長い板を挟み込んで空間に存在感を確立させた時のような。

 80年代後半の、まだ普通に人物の上半身を作っていた時代のものから、肩に屋根とか生え始めた時代のものもあって、そして前に腕が振り子のように来て今のスフィンクスへと至る作品を、ざっと眺めて辿っていける展覧会は、この間に舟越さんに訪れた創作に対するスタンスの変遷が、ひとところで確認できるという意味でも意義深い。

 なるほど、ただ単に似姿としての半身像を作り続けるのは、クリエーターとして退屈だったのかもしれないけれども、ウォーホルのマリリンモンロー、村上隆のDOBくんのように一種の定番としてファンは確実に獲得できる。はやり彫刻家だった父親の舟越保武は、端正な立像をずっと作り続けて、スタイルを変えようとはしなかった。病気で半身を冒されても、不自由な手でこねあげようとしたのは、やっぱり完璧さを持つ人物のフォルムだった。

 けれども息子の舟越桂は、敢えて完璧さを持つフォルムを崩し、試行錯誤を重ねていった。バランスを微妙にずらして肩をいからせ、髪をとがらせ体をドーム上にして前に手をつけた。異形。初見にはおぞけすら催させる不気味なフォルム。けれどもその不完全なバランスが、見続けていると妙に心を引きつけて離さなくなる。

 刻み込んで作り出す完璧を越えて、そこに足し、加えて引き延ばし、創り上げていくアンバランスの美。そうした試行の現時点での到達点がペニスをぶらさげならが垂れ下がるバストを持って、硬い尻を突き出すスフィンクスなのだとしたら、さらにこの先にもっと違った新しい形という物を見せてくれることになるのだろう。

 肩に屋根が突き出た時は実験程度に思っていたのが、胸に腕がついて仰天した時の驚きを、今度はどんな挑戦によって見せてくれるのか。これからも舟越桂からは目が離せない。
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