アクション 行為がアートになるとき 1949−1979
展覧会名:アクション 行為があーとになるとき 1949−1979
会場:東京都現代美術館
日時:1999年2月21日
入場料:1000円



絵画が分かりやすいから例として挙げると、誰がどう描いたかということも時には問題となるけれど、大部分の人は描かれた作品のその「美しさ」に注目するのが見るのが一般的で、いわゆる「美」とは基準が異なる「抽象画」の場合でも、だいたいが結果としての「絵」そのものを評価するのが普通じゃないかな。

 ところが現代はもっと範囲が広り、どう描いたかの「どう」の部分、すなわち「行為」を含めて全体を「アート」ととらえるのが芸術の世界では当たり前になって来ている、らしい。現代美術の旗手として活動華やかな村上隆が、フィギュアの原型師としてつとに有名なBOMEのフィギュアを米国へと持っていった時に、BOMEの作品の出来云々よりも、「美少女」をアニメ的な雰囲気を保ちつつ「人形」にする「行為」がアートじゃないか、といった感じで向こうの人に受け入れられる(だからほかの美少女フィギュアの原型師は米国に持っていってもアートじゃないんだそうだ)のと、似ているような似てないような。もっと敷衍すれば、BOMEという日本のフィギュアの原型師の作品をアメリカで展示させた、という村上隆の「行為」も「アート」って事になる、のかもしれない。フクザツだけど、つまりは1番が勝ちって訳ですね。

 その意味で、東京都現代美術館で開催中の「アクション 行為がアートになるとき1949−1979」に出展された作品はどれもが「1番乗り」な行為によって産み出された作品群で、一応は「アートってそういうもんだ」と納得しつつ来場した人でも、相当の当惑は避けられない。何しろ展示室に入るしょっぱなにくぐる破れたハトロン紙のゲートすら、「アート」ってんだから解らない人には驚きだ。

 これは確か関西を舞台に1950年代に大活躍して話題になった「具体美術協会」っていう美術集団の1人、村上三郎さんが得意とした一種の「パフォーマンス」で、例えばフレームで障子のように6マスに仕切られたハトロン紙を、足でベリベリと破り拳でドカスカと殴って穴を開けた作品とか、6枚だかのハトロン紙を1列に並べてそこを一気にくぐり抜けていった作品とかが知られてる。出口ってのはどこかの施設の入り口にハトロン紙より薄い紙を張り、フォーマルな格好をしてくぐり抜けるパフォーマンスもあったかな。抜けた後の外から吹き込む風で破れた紙がハラリとなびく様が実に心地よく、内から外へと飛翔し開放される気分が感じられて、一連の動きを見るだけでも気持ちが良くなった。

 もちろん出来上がったものは穴のあいた紙で、それだけを見て「美しい」とか「美しくない」なんて言うだけナンセンスって感じだろう。けどそこへとたどり着く思索及び実際の行為、プラス同じことをやり続ける意味なんかが重なりあった時、そこに「アート」が生まれということなんだろう、今回の展覧会の主旨からすれば。同じ「具体」からは嶋本昭三さんとか田中敦子さん(とかってなメンバーの作品(まえに横浜でも見た「電気服」を再見)がいろいろと、加えてあちらこちらで演じたパフォーマンスなり作品制作の場面を収めた映像が流れていて、昔NHKの「日曜美術館」でやってた特集以来、なんとなく興味のあった集団の仕事を総括できて為になった。

 最初の部屋だとほかに有名どころでジャクソン・ポロックなんかがあったかな。床に寝かせたカンバスに筆で絵の具をたらしながらグルグルを動かして絵を描いていく様が、モニターに映し出されていて本当にアクションでペインティングしてるって事が解って面白かった。外国人の作品だと、奥には射撃ペインティングで名を馳せ今は母性あふれる彫刻で知られるニキ・ド・サンファルの射撃ペインティングの作品とか、彼女のパートナーのジャン・ティンゲリーとかいろいろ。さすがに射撃は現在の日本で再現が不可能だろうけれど、せめてその瞬間を映像で見たかったと思うのは、何も当時の彼女がモデル出身の容姿をそのままに美人だったかではありません。

 他には有名どころでロバート・ラウシェンバーグが現代音楽家のジョン・ケージと共同で作った、長大な巻紙にひたすら自動車のタイヤ痕を付けた作品なんかがネームバリューもあって目についた。流れる線がどことなく楽譜に似ている、ってのがケージも関わった意味なのか、はっきりした事は解らない。同じくケージの作品で、楽譜っぽい記号の並んだ絵があったらかそう思ったんだけど。それからイヴ・クラインのヌードになった女性に絵の具をつけて壁にベタっと張り付かせるとか、壁に張り付いた女性に何やら液体を噴霧して後をバーナーであぶって炙りだしをして絵を描いた作品とかもあった。その「あたりまえ」ぶりにこれでも「アート」かと唖然としたけど、他に誰もやらなかったからこその「アート」だと、これも言えるんだろう。

 日本で「行為」なアートといえば有名かつ第一人者として挙げられるのが高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の3人をメンバーとする「ハイ・レッド・センター」の面々ももちろん登場、あの洗濯バサミが攪拌される作品に、模写された1000円札が結集して1つの部屋に昔なつかしい読売アンデパンダンな雰囲気を作ってる。

 偽札だとして警察に応酬された1000円札の作品群が証拠として並べられた法廷の写真なんて、1つの作品の作る過程から見せる過程までをも含めたあらゆる「行為」がアートとして成り立っていて、やっぱすげえよ彼らはとの想いを新たにする。個人的には「行為」のアート化として解りやすかった、人体の寸法を細かく図ってその人にピッタリのシェルターを作る、というコンセプトの「シェルタープラン」とか、銀座の街並みをとにかく一生懸命掃除する「東京ミキサー計画」とかが無かったのはちょっと食い足りなかったけど。

 別の部屋で最高に面白かったのはどっかの作家さんが展示しているでかい布、でもおって上にカラカラと糸車がたくさん付けられていて、観客はそこから糸をとて布からさしてある針を抜いて、自分が持っているものを何でも良いからその布に縫いつけ刺繍をするって作品。ほんとうに物を縫いつけても良かったのか、それとも単に刺繍だけだったのかは解らないけど、すでにして定期やら「マジック・ザ・ギャザリング」のカードやら煙草やらレシートやら50円玉やらが縫いつけてあったので、手元を探して定期もなければもちろん「プリクラ」の写真もない身として、唯一あったハヤカワSF文庫から発売中なジェイムズ・アラン・ガードナー「プラネット・ハザード」の寺田克也さん画な表紙を破り取って縫いつけた。

 海外へと持ち帰られた作品(それとも「現美」が買うのかしら)に、寺田さんの絵が縫いつけられて人々の目に触れるのって、考えてみるだにとっても楽しい。すでにして世界メジャーな寺田さんの作品をアートの世界へと流し込む、そんな自分の「行為」もアートかもしれないなあ、と思ったりもしたけれど、もちろんそんな思惑を抱く人がいたり、自分の自己宣伝用に写真を縫いつける人がいたり、といったあらゆる「行為」を包含して作品へと昇華させようとする作家の「行為」が最大のアートであることは間違いない。

 やっぱりスケールもスピードも何事も、1番が肝要、という事なんだろう。


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