感覚の解放
展覧会名:感覚の解放
会場:東京オペラシティアートギャラリー
日時:1999年10月14日
入場料:1000円



 キュレーターも雑誌の編集もやったことがないから知らないけれど、特集なんかでよい記事がばしゃばしゃ集まりそれらをスパッと切るキャッチフレーズが浮かんだ時なんて、やっぱ気分も良いんだろう。東京オペラシティアートギャラリーで開催中の「感覚の解放」って展覧会も、そのタイトルと内容が実によくマッチしていて、キュレーターの快哉を叫ぶ声(ヤッホー!)が会場の空気に響いているような気がする。気のせいだけど。

 視覚触覚嗅覚味覚聴覚にえっとこれであってたっけか? とにかくアートだとまず視覚が中心的に働くことになるんだろうけど、ここん家(「感覚の解放」展のコトね)ではまず視覚だけでは作品のどれほども理解できないことになっている、らしい。べつに見て楽しむだけでも気持ち的には十分なんだけど、たとえばアーニャ・ガラッチオって人の「ミルキー・ウェイ」って作品だと、巨大な板にベタベタとチョコレートが塗りたくってあって、乾いてはいても近寄ればほのかに甘いカカオの香りが漂ってくる。その量およそ14キログラム。バレンタインデーに自分がもらえるチョコレートのはたして何億年分だろうかと想像すると、そのもったいなさが身にしみる。こういう感じってやっぱ嗅覚が働いてのものだろう。

 あとマルティン・ヴァルデって人のなんだか卵アイスを並べたような様々な色の風船の口をしばって並べてある作品は、実は手に持ってないからわからないけど持つと見た目との違いがわかって誰もが驚くらしい。会場に人が少なくって警備の人も誰も教えてくれないから、実際に手に持って驚く楽しみを味わえなかったのが後でちょっと残念、ここんとこ会場に行く人があったら注意ね。でも夜に使うピンクのゴム製の風船みたく水入れてぶつけあうなんてことしちゃダメだよ、おもしろそうだけど。

 感覚ってのはたとえばそれを使っている様を想像することも楽しいもの。たとえば会場に入ってまず目にする床に敷き詰められたCDの上を歩くクリスチャン・マークレーって人の「エコーとナルシス」って作品だと、歩いて下を見下ろしてピカピカ光るCDの表面に自分が写っている様を楽しだけでも気分は良い。けど、そこで脳内で聴覚を無理矢理起動させて、CDに納められている音楽を頭の中だけで再生し、歩くたびに違った音楽をスクラッチさてみることで、気分だけでもコンサート会場を歩いているような感覚を味わえる。

 加えて壁面にぐるり1列にめぐらされた音楽に関する言葉の列。同じマークレーの「ミックス・レビュー」という作品は、音楽評「レヴュー」から拾った言葉を並べたものらしいけど、そこの言葉と下のCDからバーチャルに記憶された音楽が、想像の中で聴覚に音楽を響かせて視覚とは別の気持ちを呼び起こすことだってできる。んだと思うけどほら音楽っていえば新しめの音楽なんてトント聴かない人間なんで、こういう場所でも聞こえて来るのはアニソンにCMソングだけなんだけどね。

 面白かったのは村岡三郎って日本人の鉄と大量の塩を組み合わせた「エントランス」って作品。その上には巨大なガラス板がぶら下がっていてスピーカーみたい振動装置が張り付けられてガシャガシャと音を立てている。下の鉄骨を支える銅の柱には、どうやら作家の体温が流されているらしいんだけど、これも会場では説明してくれないから入り口でもらうパンフレットを見てさわれるものは触ってそうでないものもこっそり触って楽しみましょう。今日はちょっと熱っぽいとか逆に冷えて死にそうだとか、皮膚から作品を通して眼前の光景とは違った場面を想起できるのはやっぱり視覚以外を使うから、だろう。岩塩はやっぱりなめると辛いのかな。

 燃え続ける蝋燭の作品はまだ視覚的要素が強くて見る以外にあんまり楽しみがない気がしたけれど、燃える炎の熱さとか揺れる室内の空気とかを肌で感じることで視覚とはまた別の感度が味わえるのかも。あと時間がたてば変わり会期が終了すれば消滅してしまう作品をリアルタイムに味わうという、あらゆる感覚を保持する肉体があってこそ初めて触れることのできる作品という意味では、画集にも作品集にも収まらない、視覚のみでは理解不能な作品だって言えるんだろう。

 まあ別にモナリザがダビデ像だって見るより現場に行って角度を変えて眺め出てくるオーラを肌に受け、周囲の喧噪や息をのむ音を聞いてこそ味わえる感動ってのがることも事実で、いうなればとっても分かりやすい形でアートを「全身で味わう」方法を教えてくれる展覧会だって言えるかも。慣れれば後は何を視たって触覚聴覚味覚嗅覚を動員して、あらゆる作品を味わい尽くすことができるだろう、ってもモナリザはモリナガじゃないから舐めちゃダメだよ。


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