ソフィ・カル展
展覧会名:ソフィ・カル展「限局性激痛」
会場:原美術館
日時:1999年12月23日
入場料:1000円



ソフィ・カルという女性アーティストが、実のところアーティストなのか写真家なのかすら定かではなかった。前に千葉の川村記念美術館で見た展覧会に、盲人にどんな景色が好きかとか聞き、返って来た応えを写真にして、本人の顔のアップとといっしょに並べた作品を見た記憶を、会場にあった作者の案内で思い出し、そういったパフォーマンス的な作品を得意とする人らしいと判明して、今回の「限局性激痛」という展覧会の解釈のよりどころをどうにか1つ、得ることができた。

 奨学金を得て日本に来た3カ月を経て、フランスの居た時につきあっていた、父親の友人で自分とは20歳も年令の離れている男性と、インドのニューデリーにあるホテルで待ち合わせる予定にしてたのだが、積み重なっていた思いに押しつぶされそうなる気持ちを何とか奮い立たせ、希望を胸にニューデリーへと駆けつけた彼女を待っていたのが1通の手紙。そこで彼女が、彼が事故で来られないと知らされた。

 何があったのかと心配して彼女は電話をし、そして驚いうろたえた。彼の事故とは、単に爪に肉が食い込んだだけに過ぎず、それすらも事実かどうかは判然とはしなかった。彼女は結局のところは約束をすっぽされ、振られてしまったのだった。

 というのが、今回展示されている「最悪へのカウントダウン」という作品のテーマになっている15年前に彼女を襲ったエピソードの結末で、展覧会場にはそんな、悲しくも滑稽な彼女の日本での思い出を、日本滞在中の写真やチラシを並べ、チクチクと思い出して行くという、何とも痛い光景が繰り広げられている。15年前の失恋を今になって掘り返す辺りは、まこと執念深いアーティスト、と言えるだろう。

 当人にとっては肉をえぐられ、細長い針で全身を突き刺されるような痛く辛い記憶だったろうことは想像に難くない。だが、それが果たして見ている人にどこまで共感してもらえるのか、という疑問も浮かぶ。もちろん、誰かに何かを共鳴してもらおうという目的で作品を作っている訳ではなく、感じる人が感じれば良いというスタンスなのだろうと考えれば疑問は無意味に雲散する。本人にとっては自分の記憶を呼び覚まし、内面を見つめなおして苦しい想いを外へと解放することで、癒しが得られるのだろうから、他人の共感などは構わないのかもしれない。

 とは言え、幾つか気にかかったところもあった。日本に到来した日からインドのホテルまでの日数をカウントダウンしていく作品の途中で、写真に張られていたた、浅草で買ったとかいうお神籤が、滅多に出ない「凶」となっていて、おまけにしわの1つない綺麗なままだったという辺りが、これは滞日していた当時に獲得したものを単に並べた作品じゃなく、思い出をもとに再構成した作品だということが伺えた。

 偶然(お神籤は本来偶然だけど)にも凶が出て、それを当時の気分に合わせて保存しておいたのだったら、日々を刻む「執念系アーティスト」の本領発揮と言えるだろう。だとしたら、よほど振られた思い出が強かったってことになるのかもしれない。あるいは当時の思い出をより強力に提示するために、傍証として強力なアイティムとなりえる「凶」のお神籤を探して新しく張った、とも考えられる。ソフィ・カルが滞日した時から数えて15年もの時間の中で、彼女の心に沈殿し凝固した想いを、より強力な形で再構成した作品、ということになるのかもしれない。

 或いは。とぴってもこれは当方の勘違いであり半ば願望でもあるのだが、もしも全くの虚構の体験を様々なアイティムを探しまとめることで作り上げてしまったのだったとしたら、また違った感慨も得られだろう。架空の想いを作り上げるには、実際の思い出を振り返る異常の手中と呻吟、根性が必要なのだから。

 無論そうである必要はこの作品の場合にはまったくなく、事実の反復と認めた上で、事実の純化を経た上での経験の再構成と認識し、人の想いの強さ、しぶとさを実感させられる。彼の来なかったニューデリーのホテルの部屋を再現した展示とかもあったりと、会場をうまく使った構成も光る展覧会だった。日本語の文章を、日記のように掛け軸状のタペストリーに1日分づつ刺繍していく作品などにも、作者の執念深さ、しぶとさが現れていたように思う。

 これはたまたま偶然なのだが、同時期に発売されたポール・オースターの長編小説「リヴァイアサン」(柴田元幸訳、新潮社、2400円)の中に、ソフィ・カルをモデルにしたらそお女性アーティストが登場している。覧会の作風の執念深さに以上に、エキセントリックな集中力で何年もかけてアート作品を仕立て上げる(匿名でダサい服の野郎にこぎれいな服を贈り続けて変わっていく様を観察する、とか)パフォーマンス的な作品作りが得なあたり、実在するアーティストの持ち味を誇張をこめながらもある程度正しく描写しているように感じる。

 荒木経惟の写真集にも彼女に捧げた作品があったことも改めて発見し、にわかに周囲をソフィ・カルに観察されているような錯覚に陥りはじめた。そんな恐怖心と期待がないまぜになった複雑で悲喜こもごもな気分を周辺に与えるのも、過剰な自意識を作品を通して周囲にまき散らし、問いかけようとする彼女の作品の1つの作用、なのかもしれない


奇想展覧会へ戻る
リウイチのホームページへ戻る