Last Update 2002/11/26

世界ARAKI発見!




街を歩いていると
ARAKIの通った風景を見つける

雲を眺めていると
ARAKIの想った郷愁を見つける

女を抱いていると
ARAKIの触った痕跡を見つける


世界はARAKIに満ちあふれている


【11月26日】 所用で赴いた「東京都写真美術館」にあるショップで荒木が去年までに送り出した5冊の私家版が並んでいるのを見た。今までにも見たことがない訳ではないが、リストを整理し、書き足して間もない時の出会いはこれも縁だと、そう思い、数があって、限られた資金の中から2冊を選んで買い買える。モノクロの放漫な美女が身をさらけ出した「再び写真へ」、枯れてもその色を失わない花々が表紙を飾る「彼岸にて」、それぞれに荒木らしいモチーフで還暦を越えてもなお失わない、愛するものへの永遠のこだわりを見る。

【11月23日】 「SFマガジン」に載った鈴木いづみの作品を読んだ81年頃に荒木経惟が何をしていたのか記憶にない。すでにその10年近く前から2人は出会い、交錯し、作品の上で交合していたことを「IZUMI, this bad girl」(文遊社、5800円)によって改めて知る。今、ひとりは世界のアラーキーとして大勢の人たちにパワーを与え、ひとりは肉体を消し去ってもなおその生き様と作品で人々に純粋な魂の大切さを教えている。もはや決して交わることのない場所にある2人だけど、蘇った交合の記録から新しく生まれる荒木を知るものの鈴木いずみへの関心、鈴木いずみを気にするものの荒木への傾注が、片方した知らなかった者たち、どちらも知らなかった者たちに新しい波を起こし、風を吹かせる可能性に古くから2人への関心と傾注を抱いて来た者として思い馳せる。

【9月4日】 こうまでリスペクトを続ける自分を、実はアラーキーの子なんだと思っていたい気持ちはある。が、流石に職業を同じくする正真正銘の「アラーキーズ・チルドレン」には、思い入れでも理解度でも及ばない。そんな彼ら彼女らを取りあげたロッキングオンの「H」第36号は、HIROMIXにホンマタカシに笠井爾示に佐内正史に長島有里絵に野村佐紀子という若手、といってもホンマタカシさんとHIROMIXさんでは年齢で10歳以上の開きがあったりするが、ともかくも今の日本の若手写真家を代表するメンバーが、荒木経惟へのリスペクトを公言していて、偉大の上にも偉大を重ねてもまだ足りない、天才・アラーキーの超天才ぶりを改めて思う。6人を撮影したポートレートは見事にどれもアラーキー。やはり超えられない。永遠に超えられるものじゃない。

【5月28日】 ドイツから来て日本の街並みの特異に無機的な部分を切り取る写真を撮るハイナー・シリングは郊外の団地をピタリと隅々までピントの合ったカメラで抜き撮るホンマタカシと似通った部分があっても、猥雑に有機的な人物も空も建物さえもが感じに写し取られている荒木経惟との、何という違いがあるのだろうかと考える。荒木とも似た年齢の森山大道でさえも人ひとり写っていない都市であってもエナジーが迸るのに、あまりにも全体を客観的に俯瞰してしまえるのは人間が住んで都市が出来たという流れではなく都市があってそこに人間が住んでいるという主体と客体の逆転が、ある世代を境に生じているからなのだろうか、分からないから聞こう、6月17日の荒木の良き理解者である八角聡仁とホンマタカシの並ぶトークショウで。

【4月30日】 手軽に気軽にパシパシと日常を撮り集めることができる「ポラロイド」、瞬間を定着させるというよりま1枚の正方形にまさしく「切り取る」という感覚が相応しい「ポラロイド」だからこう名付けたという「ポラエヴァシー」(晶文社、限定版1万円)に、相も変わらない的確なネーミングセンスだと感嘆する。同じ大きさの画面に切り取られた男に女に街に花に空に猫にほかのあらゆる諸々が、立ち上らせるのは荒木経惟の日常であり、日本の風景、風俗、社会。「スーパーアラキックス」のこれが答えだ。

【4月28日】 「スーパーフラット展」なるイベントにHIROMIXの作品が並べられていて、その先達たる荒木経惟の作品が無いのは如何に、と悩む。何故なら女でも街でも猫でも子供でも老人でも恐竜でも花でも空でも、すべてを等距離で等価値なものとして撮り作品にする荒木こそが、あらゆる価値が同一平面上に並べられた”スーパーフラット”そのものだと思ったからだが、考えればすべてが「荒木」の視点を経て、荒木の価値観によって同質化させられてしまう世界を、どうしてカオスのように何もかもが混然となった「フラット」なる概念で括れよう。「日本は世界の未来かもしれない。そして日本のいまはスーパーフラット」と煽り、「社会も風俗も芸術も文化も、すべてが超2次元的」と説く「スーパーフラット」(マドラ出版)の帯の言葉を借りれば「社会も風俗も芸術も文化も、すべてが超アラキ的」。ならばこう呼ぶのが相応しい。「世界のいまはスーパーアラキックス」と。

【4月23日】 今週発売の「週刊新潮」が70年代を篠山紀信、80年代を荒木経惟、90年代を平間至と書いているがそうなのか? 違うだろう。荒木が妻・陽子の死を経て爆発的な活動を見せ始めたのは90年のこと、そして90年代を通じて衰えず21世紀に入ってもこのまま続きそうな活動の幅広さは、撮った写真の種類や出版物の多さを見ても明白。どうしても平間をフィーチャーしたかった新潮の記事の作為が気にかかる。「写狂人大日記 1990−1999」(スイッチ・パブリッシング、3400円)を読み認識せよ、90年代こそが荒木の時代であったことを。

【4月20日】 といっても2000年に入っている、1年余もあいてしまってその間も荒木の活動は衰えを知らず写真集に展覧会にと飛び回っている。そのあまりの露出ぶりにいささか辟易としていたのだろうか、活動を密にフォローしてインスパイアされようとする内圧が高まらなかった。そういう人が多いのだろうか。「東京国際ブックフェア」の会場で荒木がタイを舞台に撮影した「バンコク写真博覧会 トムヤム君の冒険」(祥伝社、3200円)がバーゲンブックとして1000円で販売されていた状況は、単純に出版業界全体を覆う不況の影響なのかそれとも世の”荒木力”の停滞か。

【6月5日】 再び東京都現代美術館へ。初日と違って観客も増え賑やかになっており、中でも女性客の多さが気にかかる。女子高生ともおぼしき集団の人妻エロスを前にメモを取る姿は現代美術館という器が醸す権威への叩頭と取れなくもないが、むしろあっけらかんと自己をさらけ出す人々への共感と見た方が正しいのだろう。草間彌生とのツーショットTシャツを購入、これは奇跡のTシャツだ。

【5月9日】 「Araki in Wien」や「上海返りのアラーキー 荒木経惟写真集」を出していた光琳社出版が自己破産との報、そのクオリティの高さでは他になかなかに追随を許さない出版社だったが、高価過ぎて手を出し辛く一部好事家にしか買われなかったのかもしれない。写真ブームとはいっても実態はこれほどのものでしかない。荒木、森山大道、長島友里枝、ホンマタカシ、伊島薫、深瀬昌久ほか多彩なメンバーの後世に残り売る写真集はどこに行ってしまうのだろう。見かけたら本は買え。でなければ永遠に次はない。

【4月29日】 同じ美術館で荒木経惟と草間彌生を見られる至福を誰に感謝すれば良いのだろう。ひたすらに嬉しい。展示室へと連なる通路に荒きの毒々しいまでに美しいカラー写真と草間の神々しいまでに輝かしいミクストメディアの作品が並び、日本の至高と究極がともに1つの視線で見られる空間が一瞬であっても存在したことが、後々の人々の語り継がれ同時代に生きかつその場に居合わせた至福を、羨望の言葉で飾られんことを期しまた祈る。

【4月17日】 東京都現代美術館で「センチメンタルな写真、人生。」が始まった。3階部分を埋めて荒木の写真が居並ぶ様はそれだけで壮観だが、いつもながらただ並べるだけでなく配置し構成してその持てる醍醐味を120%どころか200%以上も引き出す冴えにただただ感嘆する。冒頭の「センチメンタルな人生」全紹介の同じ部屋に「冬の旅」の握り合った荒木と陽子の手を撮った写真を配置するのは狙いすぎとも思うがそれとて篠山がいう「お涙頂戴」と2人の関係への嫉妬も含まれたフクザツな感情に起因するもの。来年が明ければ10年を余計に生きてなお今もこれをもって展覧会の幕を落とせる2人の関係のどうして羨ましくないなどと言えようか。

【3月11日】 月刊の「文藝春秋」冒頭に荒木経惟。珍しくライカで撮影した、ほとんどが勤めを持つ男性の顔写真ばかりを集めた写真集が出ると言って、その一部分が掲載されている。すべてが横置き、そして首から上がほとんどの文字どおりの「顔写真」は、荒木のおそらく陽気な誘いに不景気も脇に置いて笑み破顔し嬉々としている。女性は呻かせ男は笑ませるその魔力たるや並ではない。世紀末も彼がいれば明るく越せる。

【3月9日】 形を変えつつ長く続く「ダ・ヴィンチ」の荒木経惟の連載は今は「裸の顔」となってクローズアップのポートレートが雑誌の冒頭を飾る。4月号はいかりや長介。強い眼差しに「ドリフターズ」で頂点を極めた男の意志と自身が伺え並のアイドル俳優など足下にも寄せ付けない強さとなって刺さる。荒木経惟とレンズを挟んで拮抗する視線が見えない火花を散らす。強靭な意志。かつて野田宏一郎がトム・ゴドウィン「冷たい方程式」の船長をいかりやにやらせたいと書いたコラムを読んだ。今なら出来そうだ。

【3月7日】 朝日新聞日曜版の読書面にある藤原新也のコラム「末法眼像」で荒木経惟の「裸小説」が紹介されていた。荒木が得意とする花のモチーフをバックに荒木の写真集を飾るあたりに藤原自身の写真家としての冴えも見える。「かくして”アラキズム”は性暴力の肯定に敷衍されかねない危惧をはらみつつ、性差別とヒューマニズムの微妙な均衡線上を綱渡りする」と藤原は言う。見かけの女を欲望の詰まった肢体で写す荒木の、確かにそれは性暴力の肯定ととられかねないがしかし、そうならないのは被写体と写真家の”関係”を観覧者が納得できる優しさが滲むから、なのだ。

【2月16日】 工藤夕貴の写真集が発売されていた。外国人の写真家が撮影した工藤は大自然の中を奔放にかけまわる普段着の姿が映し出されてエロスはないが清々しい。荒木の撮ったすべてをさらけ出した工藤もみたい気がするが、実のところ荒木の撮る女優を美しいと思えた試しがなく、醜悪さも含めて人間としての女優を撮る荒木が仮に工藤を撮ったら、果たしてどんな写真集に仕上がっただろうかと想像し、興奮に血がたぎり安心に息を付く。

【2月13日】 荒木経惟より歳を取っていても活動は未だ衰えない東松照明の展覧会を東京都写真美術館で見る。74年に荒木のほか深瀬昌久、細江英公、森山大道、横須賀功光を加えた6人で 「ワークショップ写真学校」を開いた間柄。されどストレートな荒木と比べて極めて構築的、恣意的な撮り方は、荒木のすべて画面として現れる物ではなく写すという本人の行動で表現する、「私写真家」としてのスタイルとは大きく違う。あらゆるテクニックを駆使して被写体も構図も考え抜き、「今」がそこに現れるように撮る東松の、それが「写今家」としてのスタイルであり方法論なのだろう。

【2月11日】 何冊も買っていない事に刊行リストの続きを作っていて気が付いた。内なる”荒木力”の衰えがこれでも如実に示されているが、それでもウィーンで開かれた展覧会を東京の写真と合わせて刊行した「Araki in Wine」のような、どちらかとえいば傾向的に好きな面の出ている写真集は買っている。これをして選別の目が肥えたなどと開き直るつもりは毛頭ない。女優と撮っても文章を書いても荒木は荒木だし、あらゆる面を持ち得ているからこそ荒木なのだから。今をリハビリと考え、再び燃えて荒木のすべてに喜び驚ける日へと心を近づけていこう。

【2月8日】 2月8日だが前の2月5日の記述から実は1年以上が経ってしまている。その間「荒木経惟文学全集」の刊行も含めてまさに荒木な1年だったようだが、個人的には圧倒あれる荒木量にややもすれば辟易としてしばしのシェルター入りを余儀なくされていた。情報攻勢はますます続くが1年を経て血中荒木度の現象が見え、再び荒木を求める気力が湧いて来たのでここに本ページの復活を告げ、世界を回って荒木を見つける旅に出たい。まずは「週刊実話」あたりからチェックするか。

【2月5日】 日本経済新聞の読書面に「アラーキーの文学」として刊行の始まった「荒木経惟文学全集」の紹介記事が載る。思いつきが疾走する荒木の話し言葉書き言葉の洪水に、今の落ち込んだ精神が耐えられるのか判然とせず未だ買えずにいるが、いっぽうで読めば元気も出るかも知れないと、考え明日にでも購入と思う。ずれて文遊社から完結した「鈴木いづみコレクション」の紹介もあり、荒木のとったいずみの写真が添えられている。刺すような眼差しのいずみらしい写真、各巻5000冊も売れたとあって、荒木の表紙もその何%かに貢献したのではと写真を見て思う。

【2月4日】 文遊社の「鈴木いづみ全集」が8巻で完結、荒木経惟がとり続けた表紙もこれで見納めか。止まった時の彼方で世界を睨み付けているいづみの視線は荒木のカメラを通して怠惰な時代に突き刺さったのだろうか。荒木の切り取った時代が今に何かを語ったのだろうか。徒労感が色濃くなる前に何か、始めることが必要なのだろうか。

【2月3日】 平凡社から「夏小説」が刊行、前に原美術館で見た「レトログラフス」の模様をルポした写真に文章があり、あの回顧風だった展覧会にそれぞれのコーナーの持つ意味と、全体が形作る物語があったことを確認できて嬉しく思う。メインの写真は街が多く女もそれなりに。いつか見た光景が切り取る者によってこうも濃密な空間へと変わるかと、街の写真を見て溜息をつく。

【1月30日】 杉浦日向子との共著書を店頭に見る。仏像を中心に据えた本はみうらじゅんいとうせいこうの「見仏記」にも通じるが、しかしキッチュな金色の表紙の割に、中身はシンプルな「ブツ」たちと街の写真。かといって鯱張った堅苦しさも尊大さも漂わず、どこかそこの街にある、風景ととけ込んだ「ブツ」たちの優しさが伝わって来てホッとする。

【12月1日】 朝日新聞の夕刊「単眼複眼」で荒木経惟と古屋誠一のことが取りあげられている。ともに自分より早く妻を失った写真家たち、ただし古屋は妻クリスティーネを自殺で失い、荒木は妻陽子を病気によって失った。そんな違いが写真にも現れていると荒木は感じ、「写真にし過ぎているよ。彼女から遠ざかるためにシャッターを切ってる」と古屋に言う。古屋は「でもそれが僕と彼女の関係なんだ」と返す。それぞれがそれぞれの想いをこめて写真を撮る、そんな行為を同じ写真だといっしょくたにして語ることの愚かしさを、2人の言葉が教えてくれる。

【11月27日】 ニフティサーブから刊行されている「ニフティサーブ・マガジン」のスペシャルインタビューに荒木経惟が登場。開口一番記者が書いている「アラーキーのファンはつらい。何がつらいって、お財布の話」の一文に心より共感を覚える。なぜ荒木がインタビューイなのかと考え込むが、この号の特集とそして発言を読んで得心。荒木はインターネットの日記についてこう言う。「「インターネット(俺、ぜんぜん分かんないんだけどさ)自分の日記を公開する奴が増えているんだって? みんなやっと気付いてきたんじゃない いちばーん大切なもの、面白いことは日常にあるんだってことに」。さらに「いい写真が上がってこない奴っていうのは、写真が下手っつうよりも人生が下手なんだ」。日記が下手っつうことも人生が下手っつうことか。振り返って日記の上手下手を確かめ、時を刻んでいるだけの空疎な日常に立ちすくむ。

【11月15日】 「ダ・ヴィンチ」12月号に荒木経惟がウィーンで開いた展覧会「Tokyo Comedy」の詳細なルポが載っている。どこに行っても日本語で押し通し、どこに行ってもカメラを手放さず撮りまくる、どこに行っても荒木経惟であり続けているその自信に強く惹かれる。自己主張なくしてはやはりクリエーターにはなれないということか。客が「アラキネマ」に眼もくれず騒ぎ続けて怒りを爆発させたディナーパーティー、午後の7時ごろから始まって「アラキネマ」の上映を経て深夜どころか明け方近くまで繰り広げられているのは、社交を大切にするヨーロッパならではの事態か。つき合う荒木もエラいが。

【11月1日】 「デジャ=ヴュ・ビス」第10号に荒木経惟がウィーンで開いた展覧会のレポートが掲載されていた。早い。ディナーのメニューになった古屋誠一の写真には、荒木が2本の唐傘を天に掲げてかしこまっている姿が映っていて、白黒ながらもその鮮やかなカラーが目に浮かんで気持ちが良くなる。連載されている「春雪」は、珍しくほとんどすべての写真が女性のヌード。1枚だけ雲間からのぞく光の写真と、ぼうっとレンズをみつめる荒木の顔の写真が。汗ばみむせかえるなかでの一瞬の静寂と一発の虚脱。

【10月26日】 NHKの教育テレビ「新日曜美術館」で荒木経惟のウィーンでの展覧会の模様を特集している。どこに行っても渋谷でもウィーンでも、臆さずカメラを手放さず笑顔でとり続けるそのバイタリティー、無造作に撮っているようで確実に空気を切り取るその冴えに違いはない。はじめは街頭に飾るつもりだったカラーコピーの花の写真を、白い室内に貼った瞬間その場の空気が変わった。はじめから予定されていたかのようにぴったりとはまった。現場主義。臨機応変。それがキマるのはまさしく天才の仕業であると、テレビを見ていて痛感する。

【10月20日】 「鈴木いづみコレクション」の第6巻、表紙はもちろん荒木経惟。しゃがみこんだムードの全身像は、メディアの寵児の挑発的な媚態をとらえながらも、内面にある「おんな」の深さをレンズの向こう側から掬い取る。これまでの表紙のなかでこれがたぶん1番好き。

【10月13日】 「噂の真相」で荒木経惟のただ1人の「愛弟子(あいでし)」、野村佐紀子が紹介されている。男を撮った写真でめきめきと人気急上昇中の彼女の写真は、ポーズも決まったおよそ荒木的とはいえない構図の写真もあるけれど、対象にひょうひょうと食い入っていくその写方は、やっぱり荒木かなあとも思う。しかし弟子とは羨ましくもあり恐ろしくもあり。あのバイタリティに吸い取られないだけのぶっとい骨が、きっと野村にはあるのだろう。

【10月11日】 荒木経惟をモデルにした「東京日和」を監督し出演もしている竹中直人さんと、ヨーコ役を演じた中山美穂さんの2人が対談をしていて、写真を荒木が撮っている。いつもながらの青いトーンの映像は、なのに冷たさはなくどこかほんわりとした雰囲気を醸し出しているのは、演じた当人を前にしたため、竹中の顔にはにかんだ表情が浮かんでいるからなのだろう。エネルギッシュな荒木を前にすれば、いかな奇人・竹中でもただの1ファンに過ぎないようだ。

【10月7日】 行き当たりばったりで生きているようにしか見えない荒木経惟だが、意外や計画的策略的に動いているんだということに初の自伝「天才になる!」を読んで気づく。電通への入社で日大の連中にテクニックで叶わないとみるや先輩の力を巧みに導入して乗り切った話とか。しかしこれなどは、事の本質にすぱっと気づいてしまう荒木ならではの勘の良さ、本能がものをいったといえなくもなく、結局やはりまっすぐに、本能のおもむくままに生きていて、それが行き当たりばったりに見えるということなのだろう。

【9月25日】 「死現実」を差し置いてHIROMIXの「光」を買うとは、アラキストの風上にもおけない奴と自分で自分を非難するが、それでも「光」は荒木的な目線を持ちつつも、反荒木的な写真のタクラミを感じさせる写真集で、「ポストアラキ」なるものを考える際に、絶対に見逃すことができない。街をクリアな視線で切り取るのが荒木、街を曇りガラス越しに包み込むのがHIROMIX、などと勝手な解釈をしてみるものの、言葉が介入できる部分などほんの触りに過ぎず、あとはその目で見てそして判断してくれと、そう想いながら1枚いちまいページを繰る。

【9月23日】 新しい写真集「死現実」を店頭で見かける。たぶん押入かどこかに放り込まれたまま湿気か化学変化で貼り付いてしまったフィルムを、バリバリと剥がして無理矢理プリントした写真を集めたものだろう。フィルムに定着した段階で写真は現実を切り取ったと思っている人が多い中で、そんな心理を逆手にとって、フィルムの現実ですら変化していくこと、決して永遠ではないことを言おうとしたのか。ごちゃごちゃと論陣を張るのではなく、プリントされた写真という事実として提示するその手法こそが写真家・荒木経惟。崩れ落ちる写真の中の現実を前にすれば、言葉によるいかな反論もできはしない。

【9月20日】 荒木経惟が「ダ・ヴィンチ」に連載していた企画をまとめた「小説写真」にモデルとして登場した女性にふとしたきっかけで会う。というか会った時に「小説写真」に出ていると聞く。目の前にいる女性が裸で本に載っていると想像する時の目は、やはり好奇に彩られているのだろうか。見すかされまいと赤面しつつ口に手を当て軽く咳払いして平静を装う自分が情けない。膨大な写真に登場する膨大なモデルに荒木経惟のバイタリティーをいつも感じていたが、どこから調達するのか時には不思議に思うことも少なからずあった。その女性は記事には「モデル希望」とあった。やはり希望する人が多いのだろう。目的はともかくとして。

【9月10日】 菅野美穂の話題の写真集「NUDITY」をようやく手に入れる。モデルの奔放なポーズや表情に、荒木経惟のスタイルが見えるような気がするが、ぼーっとしたトーンは篠山紀信的でもあるのか。決まりポーズの写真集にはない人間がそこにほの見えて、話題先行ながらも中身の濃い、正直「良い」写真集だと思う。虎ノ門の「フォト・ギャラリー・インターナショナル」で高円寺だかのギャラリーで12日から荒木経惟が少女写真の展覧会を開くことを知る。行かねば。是非。

【9月8日】 洋書屋で荒木経惟の写真集を見かける。「色情」をアルファベットにしたタイトルと、巻末に掲載されたどこかギャラリーのような場所の壁一面に張り出された写真の写真を見て、たぶんドイツで開かれた展覧会の出品作品を集めた写真集ではないかと類推する。女と、花と、街。言ってしまえば荒木の王道が凝縮された写真集だが、たぶん見慣れた写真でありながら、その都度新鮮な驚きを与えてくれる。写真につまった力。発散さえるエロス。

【9月6日】 「デジャ=ヴュ・ビス」の第9号を買う。よく続いている。次はいよいよ10号だ。毎回登場の荒木経惟は、連載の写真小説「春雪」で変わった構成を見せている。女性のヌードが連続し、それから街路が連続していき、また女性に戻る。交互だったりアトランダムだったりが多かったなかで、心境の変化か、あるいは女を訪ね歩く男の心の虚ろいか。島尾伸三の娘で島尾敏雄の孫にあたるしまおまほの「天才写真家星人アラキング」は、アラキングが永遠のライバル、シノヤマンと対決するもシノヤマンの雀の巣頭にからめ取られて敗北。もどって展覧会情報のページに、アラキングとシノヤマンが並んで写った写真があり、これは勇気か無謀かと、しまおまほの精神構造に深く興味を抱く。

【8月26日】 将棋の羽生善治と詩人の吉増剛造が対談している「盤上の海、詩の宇宙」に、両名を撮った荒木経惟の写真が多数掲載されている。吉増とのコラボレーションは過去にもあった荒木だか、羽生と撮ったことはあっただろうか。見開きで左に羽生、右に吉増の写真が何頁にも渡って掲載されているが、両名ともに笑顔とはこれも驚き、「ハブにらみ」の羽生に強面の吉増の弾む対談を瞬間に切り取って積み重ねる。なるほどこれが荒木の術か。

【8月23日】 HIROMIXの写真集を本屋で目にする。写真集「光」は空の写真が中心で、都会の上にひろがるいわし雲でいっぱいの空や、お台場に向かう船から海岸を撮った写真に、彼女が世に出るきっかけとなった荒木経惟が撮る空や街との共通項と、けれども荒木のあっけらかんさとは違うザラついた苛立ちよのうなものを感じる。憧れるのは荒木の境地、でも近いのはHIROMIXの見た空と街。達観できるまであと何年、この空の下この街で時を刻まねばならないのか。ページをめくるたびに胸が詰まる。

【8月20日】 品川の原美術館で「アラーキーレトログラフス」を見る。ほとんどが写真集で見たことのある作品で、目新しさはほとんど感じなかったが、しかし大判で見るとやはり迫力が違う。父親と母親の亡骸の写真の間に、物干しに下がった赤いシャツを撮った写真を挟んで並べたシチュエーションに、彼が踏み越えて来たものの重みを知り、彼が上ろうとしている場所の高さを感じて絶句する。背後から見つめる少女の涙に潤んだ眼差しは、上り詰めた彼への祝福だろうか、それとも苦難の未来を見通しての悲しみだろうか。

【8月19日】 大塚の「タカ・イシイギャラリー」で荒木経惟とラリー・クラークとの共同展を見る。一方の壁にはられた273枚のポラロイド写真は、女性と花とがチェッカーの盤様に互い違いに並べられ、反復する赤い花と白い女性の体のイメージが、見入っているうちに混在し溶融して、やがて一体となって押し寄せるて来るようなイメージを醸し出す。となりにはコピーされた花と女性が、やはりチェッカーの盤様に張り出されていたが、まがまがしいまでに毒々しい色で咲く花々に対して、女性のイメージは緊縛されていても媚態を見せていてもどこか弱い。むきだしの野生には女性の淫靡さも及ばない、ということか。それとも女性から野生の淫靡さが失われつつあるということか。

【7月15日】 香港を返還前に取り下ろしたという「香港キッス」を本屋でみかける。CD−ROM写真集なので値段が高くちょっと手が出せないが、素材と着想の確かさとそして行動の迅速さはさすがに荒木だと感心する。今年ならではの企画だが、しかし永遠不滅の企画、そこには今があり、その時がある。

【6月28日】 「デジャ=ヴュ・ビス」の第8号を買う。「春雪」は女性がたくさん。バスタブにつかって顔の見えない女性の体の線にちょっと惹かれる。トカゲのおもちゃとチロ、2枚続く写真が枠線を越えてトカゲに挑むチロというイメージで心躍る。しまおまほという、たぶん島尾伸三の美人の娘が描いた「天才写真家星人アラキング」が掲載されている。どんな美女もイチコロのアラキンカメラでしまおまほを撮りたい。

【6月27日】 ジャストシステムから刊行された香港撮り下ろしのCD−ROM写真集が並ぶ。5000円はしたか、ちょっと高いがしかしジャケットの元気そうな少女にとっと惹かれて食指が動く。だがまだ買えない。お金がない。悔しい。

【5月4日】 名古屋港にあるギャラリー「現代美術・名古屋」で荒木経惟の写真展「A人生」を見る。「A」は多分荒木経惟の「A」。そして荒木陽子の「A」。ふたりの「A」が過ごした「えー(良い)」人生を綴った120枚あまりの写真が、倉庫風の廊内の壁に淡々と並べられていた。「センチメンタルな旅/冬の旅」が中心で、「愛しのチロ」「空色」あたりからも来ていたか。窓もテラスへのドアも開けっ放しで外気が中に入り蒸し暑い。順路では最後となる壁面に、様々な歳の様々な表情をした陽子の写真がまとめてずらり、飾られていた。時々に見せる表情の豊かさに、才気とそして荒木への愛情を感ぜずにはおれない。荒木経惟の写真と直筆のサインが入った荒木陽子の著書「酔い痴れて」(白夜書房)を買う。100部限定とはサインした数が100ということか。まだかなり残っていたのが少しだけ哀しい。

【4月26日】 荒木経惟の写真を表紙に使った鈴木いづみコレクション第2巻「短編小説集 あたしは天使じゃない」を買う。右目から涙をこぼした顔のアップが、混沌で蠢くおんなの生と性を瞬間に切り取って見せてくれる。ポーズをとってカメラを見据た写真とは違う、熱く激しい動のパワーが伝わってくる。

【4月22日】 神田神保町の新刊安売り店で荒木経惟全集の第16巻「エロトス」と第17巻「花淫」を買う。1割引。「エロトス」は同名の写真集にはない写真が何点か掲載されていて、それがどれも超エロい。マッケローニの性器拡大写真とも通じる方法論が感じられるが、荒木の画はもっと自然でかつ淫靡、そして活力に満ちている。「花淫」もメイプルソープの花の写真にはない動の力が感じられ、忙しく東京の街を走る荒木の、生命力が投影されているようで力づけられる。

【4月20日】 神田神保町うら通りで撮影中の「東京日和」ロケを見かける。荒木経惟役の竹中直人、日に焼けて精かんで意志堅固な顔つきが、どうしてもあの猥雑で淫靡で、しなやかだけれど芯に強さを持った荒木の顔と一致しない。もちろん竹中直人が目指しているのは物まねショーではないはずで、映画がどんなシナリオなのかは知らないけれど、荒木と陽子との濃密な日々を、人前で弱さを見せることなく陽子の死を看取った荒木の精神力と愛情の強さを、竹中直人がスクリーンの上でどのように見せてくれるのか、とりあえず感性を待ちたい。

【4月15日】 竹中直人が荒木経惟と陽子との愛の日々を綴った映画「東京日和」を撮るという。ツルリと丸い頭は荒木のようでもあるが、あの野太い声、精かんな顔は甲高く饒舌な荒木の声、淫靡で猥雑だけど意志強固な荒木の顔とうまく重なり合わない。中山美穂も出演か。濃密なまま走り抜けて来た2人の日々を、竹中と中山がどう演じるのか。中島みゆきも出るらしい。これは面白そうだ。

【2月22日】 幕張メッセで開催中の「マックワールド・エキスポ/トーキョー」に出向く。デジタローグのブースで、荒木経惟のCD−ROM写真集「旅少女」のデモを見る。デジタローグのプロデューサー、江並直美氏から2年近く前に刊行話を聞いていた作品が、ようやく3月に日の目を見ることになる。去年新宿で開かれた展示会で、凝った作りのインターフェースにすると江並氏が話していたように、小さな写真が画面を左上から右下へと連なって下がっていく画面が、モニターには映し出されていた。あと1月。もちろん買うつもりだ。

【2月11日】 東京都現代美術館に「中西夏之展」を見に行ったついでに、「デジャ=ヴュ・ビス」の第5号を買う。去年の11月25日には出ていたのに、どこの書店にも売っておらず、気がつかなかった。連載の「春の雪」は今回もモノクロの写真が23枚。風景とヌードがほぼ交互に登場する構成もいつもどおり。写真もやっぱりいつもの荒木経惟で、なかでは空の飛行機雲を撮った写真が良い。「空景」の悲しみをこらえながら撮った空とは、突き抜け方が違うような気がする。チロの写った写真は2枚。恐竜の置物と向き合うチロが可愛く、切ない。

【1月25日】 荒木経惟写真全集の第14巻「猥褻寫眞と墨汁綺譚」を買う。墨という字は本当はサンズイが付いているのだが、文字パレットにはそんな字はない。たしか荒木経惟の造語だったろうか。1000部限定で出版された写真集「墨汁綺譚」は、同題の展覧会が開かれた時に、大塚のギャラリーで買った。全集に入っている写真は、2枚をのぞいてすべてその写真集に入っている。仕方があるまい。

【1月4日】 鈴木いづみコレクション5巻刊行。表紙を荒木経惟が昔撮った写真が飾っている。モノクロで解らないが、セミロングのウエーブのかかった髪型は茶色だろうか。半分とじた瞼が眠たげな印象を誘う。荒木の好きだった大きな胸が開いた胸元からのぞいている。濃い化粧を落とせばそこには端正で理知的な美人がいる、そんな気がする。鈴木いづみを知って後に荒木経惟を知り、2人が結びついて目の前に登場したことに妙な因縁を感じる。

【12月26日】 荒木経惟写真全集の第13巻「ゼロックス写真帖」を買う。まだ電通に勤務していたころの荒木経惟が、自分を売り込むために会社のゼロックスを使って写真を複写し、束ねて1冊の写真集にして、友人知人と有名人に送りつけたのが「ゼロックス写真帖」。全25冊、限定70部の中身をこれまで、見ることができなかっただけに興味深い1冊になった。途中からは「物事」と題された近作の写真帖からの抜粋、後半はゼロックスの未来形ともいえるキヤノンのカラーコピーを利用した複写写真の抜粋。荒い粒子がテレビの映像を撮ったような、奇妙な味となっている。写真画質のカラーコピーでは、絶対に出せない味。性能の進化は味を奪うということか。

【12月16日】 「旅少女」(光文社、2400円)を買う。JRグループの「青春18きっぷ」のポスターを撮影するために、荒木経惟が少女と連れだって全国を旅行した、その行く先々での写真を収録した1冊。デジタローグの江並直美氏から一昨年くらいに聞いていたCD−ROMの内容がまさにこれ。CD−ROMにはきっともっとたくさんの写真が、江並氏渾身のエディトリアル・デザインによって収録されていることだろう。9人の少女の中では、根室に旅行した「薫」、清里に旅行した「美歩」に惹かれる。2人とも、たぶんもう、少女と呼ぶのがはばかられるほどに、大人の女性になっているのだろう。

【11月26日】 荒木経惟写真全集の第12巻「劇写と偽ルポルタージュ」を買う。出て割と早い時期に久しぶりに買った。気が大きくなっている。表紙は下着姿の女性。中身もほとんどすべて女性。紙がこれまでの巻と違って安っぽいザラザラとしたものになっていた。1巻前の「廃墟で」とは何という違いだろうか。しかしこれも荒木経惟なのだ。多彩なり。そして多芸なり。前半部分を閉めている「女優たち」抜粋に登場する女優たちのほとんどを知らない。

【11月14日】 鈴木いづみコレクションの第2回配本として「SF集1 恋のサイケデリック」が出た。表紙は第1回配本「ハートに火をつけて 誰が消す」と同じ荒木経惟。前のヌードとは違って服を着ている。シャドーのきつい目でカメラを見つめる鈴木いづみを、荒木経惟はファインダー越しに見て何を感じたのだろうか。鈴木いづみだけの写真集をまた出さないだろうか。

【11月12日】 新宿で開かれたマルチメディア・タイトル制作者連盟のイベントに行き、CD−ROM「アラキトロニクス」を出したデジタローグの江並直美氏より新しい荒木経惟のCD−ROMがいよいよ出るという話を聞く。もう2年近く前から聞いていた作品。いよいよと聞いてうれしい。デジタローグのCD−ROM「イエローズ」を本で出していた風雅書房は倒産したとも聞く。同じ風雅書房から出た写真集「遠野小説」は、これで完全にマボロシになった。

【11月11日】 「噂の真相」の連載に、前に見た展覧会「FLOWERS 荒木経惟」のオープニングパーティーを写た写真があった。真田広之が下着だけ着けたほとんど裸体という姿で寝ている写真がバックにある。ギャラリー内のどこに飾ってあったのか思い出せない。10月24日の日付のある写真、部屋のなかですっくと立つ女性の姿に妙に惹かれる。

【11月3日】 荒木経惟写真全集の第11巻「廃墟で」を買う。空と花ばかりを集めた写真集で、やはり「空景」や「近景」、それに「色景」からの抜粋だった。モノクロの雲も、荒木によって激しく色を塗られた空も、どちらも残酷なまでに静謐で美しい。冬の冷え切った空だけが、荒木の写真として印画紙に定着された空の写真にかろうじて迫りうる。

【10月26日】 木場の東京都現代美術館で「デジャ=ヴュ・ビス」の第4号を買う。「連載写真小説 春雪」はモノクロ写真がやっぱり23枚。今回は女性の写真が多い。夏だからなのだろうか。空を撮った写真が底抜けに青い。女性の映ったモニターを撮った写真は新機軸? 外国人のモデルを撮った写真は、アラーキーっぽくないグラビア写真のような美しさだった。天才はなにを撮らせても天才だと再認識する。次はいつ読めるのか。

【10月22日】 荒木経惟写真全集の第11巻「廃墟で」が出ていた。「空景」や「近景」などからの抜粋。東京にも空はあるんだということ解った。しかしまだ買えない。給料日前なのでお金がない。哀しい。個人の写真全集でもう11巻まで来たか。すごいことだ。

【10月10日】 荒木経惟写真全集の第10巻「チロとアラーキーと2人のおんな」を買う。「愛しのチロ」や「センチメンタルな旅」などから抜いた写真や、昔の新聞記事のスクラップなどが入っている。おんなの1人の陽子さん。笑顔が哀しい。チロは元気。今もまだ元気?

【9月20日】 ギャラリー「デルタ ミラージュ」で「デジャ=ヴュ・ビス」の第3号を買う。7月に出ていたのに気が付かなかった。置いている本屋が減っているのか。「連載写真小説 春雪」はモノクロの写真が23枚。ホテルのベッドの白いシーツの上に、髪をバラっとまいて仰向けに寝ている少女の眼差しが美しい。どこかの高いビルから取った街の遠景は、沈み込んだ街と霞んだ地平とたなびく雲のコントラストが不安な時代を写している。

【9月18日】 安原顯の「ぜんぶ、本の話」がジャパン・ミックスから発売。荒木経惟との対談が掲載されていて、写真集「終戦後」について安原顯が「都市のもつ猥雑さと、そこに蠢く人間の胡散臭さとが、即物的というか自動筆記のように切り取られていて、しかもそこには、いつものように、荒木さん独特の一種の哀感が漂っている」と評している。卓見なりヤスケン。

【9月8日】 文遊社から「鈴木いずみコレクション」の刊行が始まる。荒木経惟はすべての表紙の写真を提供するらしい。第1巻は正面からのヌード写真。黒い縁取りの目がカメラを見据え、どの荒木経惟の被写体よりも強い。綴じ込まれたパンフレットに荒木経惟の言葉「あれは天才少女だったね。・・・・あの時の彼女にはオーラというか狂気みたいなものを感じたね」。今に残る鈴木いずみの、ほとんど唯一の写真を撮った荒木経惟の慧眼おそるべし。そして天才荒木経惟を惹きつけた超天才鈴木いずみの死を強く悔やむ。

【8月27日】 「サンデー毎日」村上龍の対談相手として荒木経惟が登場。電車の中吊りにはあの藤田朋子事件に関する話が出ていると煽ってあったが、実際のことろはこれまでに出ていた話ばかり。たいして面白くはない。あざといが、まあ週刊誌のよくやる手法だから、無理もないかと納得する。

【8月23日】 マガジンハウスから荒木経惟と荒木陽子の共著が出ていた。何かの再刊だろうか。買おうがどうしようかと悩む。悩むがたぶん買わない。荒木経惟への愛に満ちた陽子さんの言葉が、愛を持たない我が身体に突き刺さりそうな気がして、怖いのだと思う。

【8月22日】 荒木経惟写真全集の第9巻は「私日記・世紀末」。はじめて表紙がカラーとなり、中身も全編カラー。この写真集のためだけにコツコツと撮り溜めていた写真ばかりで、すべて初公開だという。99年という日付は偽物だが、99年になっても今とたいして変わりがないのだということに、最近ようやく気付いた。世紀末も新世紀も10年後より身近なのだ。

【8月7日】 池袋のリブロで、またもや「アラキグラフ」のサイン入りを見掛ける。写真集自体は欲しくない。のにサインが入ってるというだけで欲しくなる。本当はイラスト入りの方がいい。荒木経惟のイラストは逸品である。

【8月6日】 「ダヴィンチ」最新号が発売になったようだが、先月から始まった荒木経惟の新連載はまだ読んでいない。「ダヴィンチ」は凄いし売れる理由もよく解る。でもあまり買いたくない。本は本屋で探す。荒木経惟も本屋で見つける。見つけ切らなくて困惑することもままあるが。

【7月26日】 「週刊宝石」を読む。荒木経惟が撮り下ろしたヘアヌードが載っていた。アラキトロニクスで見たようなスタジオの中で撮っている。醒めたパステルカラーが荒木的。市井の女性ではない、モデルの女性を撮らせても荒木は荒木でしかない。やはり凄い。平凡社の荒木経惟写真全集第8卷の「私日記・過去」を買う。お馴染みの日付入り写真の集成だが、写真集を見る限りにおいて、彼は80年から日付入り写真を撮り続けている。もう16年。恐るべき継続力。河原温の日付作品にも通底する凄みを感じる。

【7月25日】 荒木経惟の若き日々を、竹中直人が演じて映画化するという。日刊スポーツには荒木のあの、両側がピンと立ったヘアスタイルを合成した、竹中の顔写真が載っていた。なんとなく似ている。しかし知的な猥雑感はない。それほど年が離れているわけでもない(離れていたとしても20歳もないだろう)人を演じることが、果たして可能か。見て違和感がないか。実物がいるんだぞ、すぐそばに。なにかズレはじめている。

【7月20日】 荒木経惟写真全集の新刊が並んでいるのをみかけるが、給料日前で財布が思わしくなく手にとれない。日記らしい。オレンジ色の表紙。平台で目立つ。気にかかる。山積みにして、売れているのか。

【7月18日】 書店でアラキグラフのサイン入りをみかけるが、給料日前で財布に体力がなくわきらめる。サインが入っていても、あまり欲しいと思えない。「空景・近景」のサイン本なら欲しい。本をかついでサインをもらいに行くか。してくれるだろうか。

【7月11日】 噂の真相の巻頭を飾る連載を読むが、いつもどおりでどうとも思わない。それがアラーキーの凄みといえばいえる。変わらないこと。変えられないこと。

【7月9日】 リクルートのダヴィンチで新連載が始まる。アラーキーが読んで撮る「詩写真」と銘打たれたコーナー。第1回目は古びた洋館らしき建物の中と思われる、板張りの1室にクッションの付いた椅子を置いて、モデルを座らせて撮っている。和風の面立ち、大正デモクラシー前後の洋装の女性を思わせる髪型のモデルは22歳の水瓶座。誌には惹かれない。

【7月1日】 「週刊朝日」で林真理子と藤田朋子の対談。藤田が途中で泣き出し、林真理子がそれまで続けていた写真集「遠野小説」の素晴らしさへの賞賛を、とたんに引っ込めいやになる。

【6月28日】 書店の写真コーナーは時ならぬ荒木経惟の新刊ラッシュ。先般連載の終了した「小説写真」がはや本となっていて驚く。山田詠美との対談は、山田のまっすぐさが出ていてカッコいい。連載では1枚きりだった写真が、本では何カットも掲載されていた。表紙の朱色と銀色の帯がちょっとミスマッチ。それがチープでなかなかという考え方もできなくもない。私はなかなかまっすぐになれない。

【6月27日】 「ラヴ・ラヴィリン」と名付けられたシリーズの2冊目にあたる「京都白情」を渋谷の旭屋書店で買う。シリーズの1冊目は「沖縄烈情」だが、まだ買っておらず、なんだかサイズの違う靴を履いているように居心地が悪い。「京都白情」はカラーとモノクロ、裸と風景の混在する、荒木経惟ならではの写真集。古都などという月並みな表現では、とうてい覆うことのできない様々な写真が繰り出され、圧倒される。

【6月21日】 荒木経惟写真全集の第7卷「旅情」は海岸を歩く着物姿の女性が表紙。緑とブルーが混ざったような不思議な色が使われていて書店でもひときわ目を引く。昔と今が混在する女たちの写真に荒木という写真家の息の長さを感じる。そして持続性の力強さも。

【6月12日】 リクルートの「ダヴィンチ」に連載している「小説写真」が最終回を迎える。いつもは応募者からモデルを選んでいたのが、今回は山田詠美が自著「アニマル・ロジック」をイメージした写真のモデルを務めていた。けだるそうな目線、頽廃的なイメージはかつて荒木経惟が撮った鈴木いずみのイメージと重なり合う。ラッキーストライクの両切りを吹いスリップ姿でカーペットの敷かれたアパートに座り込む鈴木いずみの、何と猥雑で挑発的だったことか。山田詠美こそがその正当な後継者、なのかもしれない。

【6月7日】 書店に新作「夜子」が並ぶ。「遠野小説」と同じ風雅書房の写真集だが、今はまだ欲しくない。そのうち買うかもしれないし、買わないかもしれない。ほかに「写真時代」のムックにも、荒木経惟の新作が出ているのを見る。女性器をあからさまにした写真に、権力の反応を案ずる。

【6月2日】 東京都現代美術館で「デジャ=ヴュ・ビス」第2号を買う。荒木経惟が「春雪」の連載をやっている。モノクロで23枚、風景は少なく女性が多い。ボクシングのグローブをはめてベッドサイドに立つ女性の力強さに惹かれる。明け方か夕刻か、逆行の黒いビルから陽が上る(沈む)1枚に泣く。車窓の雨も輝く雲もまた悲しい。悲しいけれど美しい。

【5月29日】 西井一夫という人が書いた「なぜ未だ『プロヴォーク』か」を買う。副題が「森山大道、中平卓馬、荒木経惟の登場」とある。たった3号だけ発行された写真同人誌の「プロヴォーク」には、荒木は参加していないが、ひどく憧れて、電通をやめる一因にもなったという。荒木に関する文章もある。篠山紀信との比較に共感を覚える。

【5月23日】 荒木経惟写真全集の第6巻は「東京小説」。緑色の表紙が本屋の店頭でひときわ目立つ。2巻前の「ニューヨーク」と対照的なモティーフだが、どこに行っても何を撮っても、はやり荒木の作品だ。日の丸を持って皇居に行く少女の話が織り込まれた「東京物語」がたまらなく欲しくなった。

【5月14日】 神保町の古書店「アカネ書店」で荒木経惟の「少女物語」をはじめて見る。「少女世界」と並んで、平凡社から先月でた写真全集「少女性」の原型ともいえる写真集。人気も高く古書市場に出回ることなど決してないと思っていただけに、驚きをもってショウケースの中の「少女物語」を見つめる。値段は5万円。薄っぺらい財布が憎い。

【5月7日】 リクルートの雑誌「ダビンチ」発売。連載している荒木経惟の「小説写真」は松浦理英子の「ナチュラル・ウーマン」がテーマになっていた。1度読んだがどんな話か忘れてしまっていて思い出せない。写真は緑のはの下に佇む少女。緑色の服を着ていたような気がするが、本屋でのぞき見ただけなのでやっぱり思い出せない。記憶が弱っている。応募して返事が来て驚いたといった旨の短いコメントが載っていた。驚くことはない。貴女は選ばれたのだ。

【5月2日】 週末の新聞は映画の広告がいっぱい。なかにチャン・イーモウ監督の「上海ルージュ」の広告があって、荒木がコメントを寄せていた。見に行こうと思って前売り券を買った。しかしいつ行くことが出来るのだろうか。

【4月27日】 西村画廊で開かれていた個展「FLOWERS」が最終日。この日をのがすわけにはいかないと、朝から身繕いをして銀座に向かう。地下にあるギャラリーは人気がなく、ただ荒木の撮った毒々しいまでの色、形をした花々の写真が、壁いちめんにピンで止められている。ツヤツヤとした色がどうして出せるのだろう。そんなことを思っていると、ギャラリーの人が、何か特別の印画紙を使っているのだということを教えてくれた。「ユリイカ」の別冊に使われていた、ミニバナナの写真もあった。少し古い写真だが、荒木のたっての希望でいれたのだという。2枚売れていた。ほかにも案内状に使われていた写真など、合わせて20枚ほどが売れていただろか。価格は1枚20万円。額を付けても21万8000円。大きさから見れば格安といっていい。銀行残高があれば、即座に買っていただろうが、今はただ、金がないのが悔しい。

【4月22日】 取材の帰りに西村画廊に立ち寄るが、月曜日は休みで引き返す。せっかくなので、近くの本屋で「荒木経惟写真全集」第5巻「少女性」を買う。銀行預金のマイナス幅がどんどんと大きくなっていくが、荒木のためなら仕方がない。「少女性」は紛れもなく傑作。同じ少女を被写体にした篠山紀信の「Namaiki」(新潮社)が少女の「美」を撮ったものとすれば、荒木の「少女性」は少女の「媚」を引っぱり出したもののような気がする。「花で遊んでる少女が、おマタをちょっと開いただけて女の表情をする。どんな遊びに没頭してるときでも、本能が答えてくるんだよね」という荒木の解説からも、そんなことがうかがえる。

【4月21日】 産経新聞のアート面に、銀座の西村画廊で開催している展覧会の記事が載っていた。「花」の写真だけを集めた、荒木っぽくないといえばそういえる、しかし荒木らしいといえばそうともいえる展覧会で、新聞には干物になったヤモリが浮かぶコップに差されたランの花の写真が、鮮やかなカラー写真で掲載されていた。今週末で閉幕してしまうので、是非行かねばならぬ。行かねば1生後悔する。そんな確信を抱いている。

【4月19日】 書店の店頭に「荒木経惟写真全集」第5巻の「少女性」が並ぶ。シリーズのなかでたぶん、「陽子」とならんでもっとも読みたかったシリーズなのだけど、あいにくと手元不如意で買うことが出来ない。悔しい思いを会社のエライ人に向かって心のなかでぶつける

【4月14日】 朝日新聞の読書欄に「荒木経惟写真全集」に関する記事。「売れている秘密」という、ベストセラーを分析するコラムで、筆者は芹沢俊介だった。人間好きが生む過剰さという見出しに思わず納得、本文中の「荒木があふれるほどの人間好きということである。その人間好きがくる日もくる日も、飽きもせずに被写体を求め続ける」に2度納得。過剰なまでのサービス精神、過剰なまでの博愛精神、過剰なまでの探求心がなせる技、それが「写真全集」という、回顧展のようでいてその実大半が未発表作品であったり撮り下ろした作品の集合体に結実している。

【4月12日】 恵比寿のギャラリー「スタジオエビス」で「中目派誕生!」という展覧会を見る。荒木経惟と関わりのある谷口雅彦、笠井爾似示、村瀬太加夫の若手写真家3人が集まった「3人展」。なるほど確かに荒木風の女性や風景を撮った写真が多いが、黒をバックに白い人物が浮かび上がってくるような写真や、女性の日常と郊外の風景を取り混ぜてスナップした写真などは、荒木とは違った個性であり感性。どれが誰の作品だったか解らなかったが、3人とも好きな写真を撮ってくれる。

【4月11日】 「噂の真相」にやっぱり藤田朋子問題が載っていたが、荒木経惟についてはあまり触れられていなかった。連載の日記風写真はよく見ていない。

【4月8日】 リクルートの雑誌「ダヴィンチ」に荒木経惟の「小説写真」が連載されているのを知る。創刊号がキライだったから、後ずっと買いも読みもしなかった雑誌だが、荒木の写真が載っているのなら、来月号も読んでみようかという気になった。写真はどうやら、小説を題材にしたシリーズのようで、今回は梶井基次郎の「檸檬」。京都「きみ弥」の1室で、着物の胸を裾をはだけて仰向けになったモデルが、左手に黄色い檸檬をもっている。眼差しとかすかに開いた唇がエロティック。秋物の赤と檸檬の黄色が印象的。右端の見切れた花瓶の花が画面を締めている。

【4月4日】 新聞の広告か電車の中吊り広告で、「週刊宝石」に荒木経惟撮影の写真が載っていることを知る。藤田朋子の次に撮った写真とうウリ文句だが、そんなことはモデルの属性に過ぎないのでであって、アラキには関係ない。写真はカラーが4ー5点だったか。裾割れの着物から陰毛が覗くパターンは、「遠野小説」でも散見された手法。いわばアラキのお家芸。紫っぽいような独特の発色もアラキ的。写真集は欲しくない。

【4月1日】 フォトプラネットより新雑誌「デジャ=ヴュ・ビス」届く。荒木経惟さんの連載写真小説「春雪」が載っている。モノクロ23枚。大股びらきの女あり、バルコニーの荒れた写真あり、東京の街角ありの、スタンダード・アラキ・ワールド。オレはこういうアラキが好きなんだ。大塚で開かれた展覧会「死現実」の会場写真もある。コンパクトカメラでない、プロ用の機材を使っているようなので、みなとても綺麗。隔月刊行なので1年で100枚程度の写真が溜まる。写真集はそれからか。


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