アンディ・ウォーホル
展覧会名:アンディ・ウォーホル 1956−86:時代の鏡
会場:東京都現代美術館
日時:1996年6月2日
入場料:1000円



 キャンベルスープとコカ・コーラとマリリン。アンディ・ウォーホルなんてそれだけで十分なんだと思っているから、たとえば電気椅子の絵を見ても、あるいは最後の晩餐の絵を見ても、こんなものも作っていたんだと感心し、アンディの多芸多才ぶりに驚く程度の感慨しか浮かんでこない。

 これらの作品が嫌いだと言ってるわけでは決してない。ただあまりにも、キャンベルスープ(ホントはこれだけで十分)やコカ・コーラやマリリンといった陳腐で通俗的な題材が、繰り返し繰り返し出てくるイメージの強烈さに、ただただ圧倒されてしまうからだ。そこをいくと電気椅子は、のぞき見趣味的ではあるが、電気椅子自体が持っている存在感がはなはだ強烈だ。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロの絵も同じく強い力を持っている。強烈なものを繰り返しても、強烈さは倍加されず逆に相殺されてしまう。あるいは電気椅子や最後の晩餐を描いたアンディの狙いは、そんな所にあったのかもしれない。

 東京都現代美術館のゆったりとした空間に並べられたアンディのキャンベルスープやマリリンは、街のアートショップでみかけるキャンベルスープやマリリンのポスターに比べて、いちだんと強いパワーを備えているような気がした。空間によって醸し出された幻想、あるいは見る側に刷り込まれた「美術館で見る作品=芸術」という、悪しき先入観が働いてのことかもしれないが、遠くからシンプルな色使いを眺め、それから次第に近くに寄って、キャンバスに残されたフォト・モンタージュの痕跡を見つけるに従って、たとえシルクスクリーンの技法を使って繰り返し繰り返し生産された作品であっても、色の境目に残された絵の具の盛り上がりや、フォト・モンタージュによって作り出された黒いドットの盛り上がりが、やはりアートなのだなと感じさせてくれる。

 アンディの展覧会としては、91年の1月に東京・日本橋三越で開かれた「アンディ・ウォーホル展」を見ており、その時には滲んだ縁取りで描かれた天使や蝶や動物たちの可愛らしさ・繊細さに、これが「キャンベルスープ」のアンディ・ウォーホルの作品かと驚いた記憶がある。今回の展覧会にも、初期の天使やハイヒールを描いた作品が何点か出展されていて、ニューヨークに出て、コマーシャル・アーティストとして人気を博していたころのアンディが、どんな仕事をしていたのかがうかがえる。

 アンディの経歴を総括すると、50年代のコマーシャル・アートを経て60年代のファイン・アートで花開き、70年代以後はビジネス・アートの世界で身を施したという、分かりやすくて単純な図式が出来上がるが、図録ではこうした見方を危険視し、芸術至上主義の打破を目指したアンディに考えに沿って、すべての世代におけるアンディの仕事を均等に、客観的に見ていく必要があると言っている。もしろんこの言葉は正しい。

 だが、人は得てして主観的で、かつ独善的な生き物であり、自分の価値観において(あるいはそれが植え付けられ刷り込まれた物であっても)、すべての評価を下す。50年代のコマーシャル・アート時代の作品には、後のシルクスクリーンの作品へとつながるプリントの技法が用いられていることで、アンディの原点を見出すことができるという。しかしキャンベルスープという、陳腐で通俗的な題材を発見し得て、それをただ繰り返すというアイディアを得てこそ、アンディの今に至る名声が始まったのである。滲んだ縁取りの猫の絵は大好きだし、抱き合う天使の絵も嫌いではないが、たとえ原点であっても、それを聖典として崇め奉る訳にはいかない。

 展覧会における第2室で登場する210本のコカ・コーラと、第3室で登場する32個のキャンベルスープを見て、ようやくアンディがそこに居たと安心する。あとはマリリン、ジャッキー、エルビス、リズと続く「アンディの世界」のオン・パレード。牛柄の壁紙の部屋に続いて、ヘリウムガスの入った「銀の雲」が浮かぶ、1966年にキャステリ画廊で開かれた展覧会の再現には、東京都現代美術館という空間と、アンディ・ウォーホルを愛してやまないキュレーターを得た今回の展覧会の幸福を強く感じる。

 最後の部屋に並べられたビジネス・アート時代の肖像画は、「現代の宮廷画家」によって描かれた対象だけあって、ひどくスノッブな印象を受ける。描かれた人物の持つ虚栄心や成金趣味がにじみでていて、見ていてとても恥ずかしい。しかし一方で、虚栄心や成金趣味をカンバスに定着させることで、芸術作品が否応でも持たされてしまった「商品」としての価値を、眼に見える形で現出させてくれたとも考えられよう。

 帰りがけ、美術館の正面の道ばたで、アンディ・ウォーホルのチラシの切れ端やらなにやらを貼り付けた看板を、何枚も並べている青年を見た。なるほど今では、アンディこそが通俗で陳腐な素材として、繰り返し消費される立場になっているのであろう。
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