迎合?、拒絶?、どーでも異世界
タイミングを逸しつつ天に召されたロックスターの葬儀には、空前絶後の弔問客が訪れた。
まずは、合掌。
本願寺の周りを埋め尽くす長蛇の列。それも普段は大人たちの目にふれることのない若者の集団に、おとなたちは物理的な圧迫感を感じたようで、新聞の、それも記事ではないコラム欄でもずいぶんと紹介されていた。
ぼくが目にしたのは、天声人語と春秋を含む四つほどのコラムなのだけれど。そのどれもが、切り口は少しずつちがうのだけれども、視点がものの見事に一緒だったのが、とてもおもしろかった。それが、タイトルに挙げた三つのことば。
五月八日の天声人語と、五月九日の春秋は、本願寺を埋め尽くした若者に、おおむね好意的だったよ。茶髪の集団の異様さにおののきつつも、彼らの行儀の良さをほめ、hideの音楽の大きさを(自分にはわからないと断りつつも)想像しようとしていたし。とくに春秋なんかはご丁寧に、曲名を挙げてこれをきいてほしいとまでいっていた。
それが、記者の声、とか編集部より、とかいったコラムになると、ちょっとトーンがずれてくるね。長蛇の列が引き起こした渋滞だとか、茶髪の集団からきこえた「むかつく」の一声だとか。要は、「長髪のロック野郎が死んだくらいでなんだこの集団は、おまえらもっとほかにやることあるだろう」っていう感じのトーン。
ジョン・レノンが死んだときの自分に照らしあわせて、本当の深い悲しみは行動する気力をも失わせるんだよ、っていってみた人もいたし。そんなこんなで、迎合しようとする大人、あくまで拒絶しようとする大人、いろんなコラムがあっておもしろかったけど、全部のコラムに共通しているのが、「どーでも異世界」。
つまり、彼らと自分の間に、明確な一線を引いていないものはなかったってこと。
そんなんでいいんかね。
大人の人たちだって、昔は、とか、ひばりや裕次郎のときはそうだったじゃないか、とか思う前に、そのあいだの明確な一線というものを見つけられないぼくは、きっとまだ大人じゃないんだろうね。
何はともあれ、合掌。
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