初夏の暑い日


電車の男


 あたしがやっとの思いで乗り込んだ終電の一本前はすいていた。あたしは足が伸ばせないボックス席じゃなくて、ドアにいちばん近い席にすわった。三つくらい駅が過ぎたところで、あの男が乗ってきた。どこにでもすわれるのに、あたしの膝頭をみて、あたしの向かいの席にすわった。いやらしい。あたしはその男をじっと見てやった。あの男ったらいきなり目があって照れてるの、かわいい。でもゆるしてやらない。
 あたしはなおもその男をにらみつけた。男はうろたえる、あたしはじっと見る。男は赤くなって目をそらす。あたしはだんだん飽きてきた。男が横を向いちゃったから。いくらにらみつけてももう男は照れない、あたしはつまんない。
 だけど最初に飽きちゃったのはたぶんあの男。さっきまであんなにうろたえてたのにいきなり、もううんざりだという顔に変わって、あたしのほうをにらみつけてきた。「お嬢さん、何か用ですか」いいながら向かいの、わたしのとなりの席に移ってきた。
 いやだ。こんなはずじゃなかったのに、男は気の弱い学生で、あたしがいくらいじめてもただ弱々しく顔をそむけるだけだったはずなのに。どうしよう、怒っているのかなあ、その筋の人、ってことはないよねえこの格好からみて。襲われちゃうのかなあ、それは困るよなあ新しい彼がせっかくできそうなのに。ちょっとこの人あたしのことにらみつけてるじゃないの、弱ったなあ謝ったほうがいいのかなあでもなんてあやまろうこのごろあやまったことなんてないしなあ。
「ど、どうもすいませんごめんなさいこんなはずじゃなかったんですこんなふうになるなんてあたしが悪いんですいやあたしじゃなくて運が悪いんですいやそうじゃなくてこの電車に乗ったのはそもそも宏が悪いんですそうかすべてはあいつのせいだったんたあの野郎あたしをこんな目にあわせやがってもう絶交だこんどからくちもきいてやらない」

 あたしの必死のあやまりがきいたのか男はあわてて遠くの席に引っ越していった。なにあの態度、逃げるみたいにしてあれじゃあまるであたしがいじめてたみたいじゃない冗談じゃないわよ貞操の危機にさらされたのはあたしなんだからあたしが一方的に被害者なのよそれをなんであたしが追い出したみたいに、あれ、車両の人がみんなあたしのこと見てる、え、なんであたしを見るのあたしはただ自分の身を守っただけなのにそうだこれも宏のせいだ悪いことはみんな宏のせいだ早く別れようあんな男それじゃあほかの男さがさなきゃああいそがしい、ちょっと、そこの男の子、見てるだけじゃなくてこっちきて、お話しようよ。


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