静寂


 「はやいね」
 夕陽の沈むはやさに驚いた言葉が、俺達の交わした、最後の会話だった。
 雄島の、夕暮れ。冬の日本海に、太陽が沈もうとしていた。
 さっきまで容赦なく体に突き刺さった、つめたい風はもう、止んでいた。空気それ自体も、風が静まるのとともに、心なしか暖かくなったようだった。
 それにつられたのか、ひっきりなしに寒い寒いと文句を連発していたあいつも、じっと息を殺して、これからおこる出来事を待っていた。
 見えないガラスの板の上に無造作に置かれたように、一定の高さに編隊を組んでならぶ羊雲の群れと、蜃気楼のように水平線を覆う、遠い雲。その、二つの雲の群れがはるかかなたで交叉する、ほんの少しばかりのすきまに、太陽が降りてきた。
 羊雲の群れが、下から太陽の陽を浴びて、朱く染まる。
 水面が、久しく途絶えていた直接の陽を浴びて、橙くさざめく。
 海の朱と空の橙。二つの赤にはさまれた空間にあらわれ、しだいに大きくなる太陽は、紅かった。限りなく紅く、そして、一日の役割を、すでに果たし終えてしまったかのように、昏かった。
 中空にあったとき、太陽の動きは遅々として進まぬものであった。しかし、今、雲のあいだの、ほんの少しの隙間を降りてゆく太陽の動きは、疾い。点として現われ、線になり、みるみるうちに厚みをそなえ、長くなってゆく。完全な円になる直前、今度は下方から欠け始め、雲の形作る第二の地平線に、吸い込まれてゆく。
 やがて円が半円になり、厚みをなくしていった。
 直線の太陽が点になり、厚い雲のヴェールの向こうに姿を消すと、すべての景色から、徐々に彩りが消えていった。

 視界が無彩色で統一されてからしばらくが過ぎた。厚いヴェールに包まれた太陽は、もう、位置すらも分からない。ただ、ときおりヴェールの切れ目から仄かにのぞくあかい光が、太陽がまだ地上にあることを示している。さきほどまで、俺達を暖かくつつんでいた空気も、明るさとともにその暖を失い、再び吹き始めた風が、容赦なく着物の間から吹きつける。
 俺達は誰も身じろぎもしなかった。太陽が視界から消え去った今、動くものはただ水面のみ。雲も、船も、その場に釘付けになったかのように、動かない。一寸前まで、あれほど視界を騒がしていた鳥たちも、夕暮れとともに寝所に帰ったかのようであった。
 動くものもなく、音さえも、規則正しい潮の音以外にはなにも聞こえない。
 徐々に、目に見えない速度で闇が侵攻しつつあることをのぞいては、世界からは時が消えていた。
 俺達は、少なくとも俺は、時のない世界の終わりを視るために、ただじっと、太陽のあると思われる方向を見つめていた。ただ、じっと。

 時のない世界にも終わりがきた。雲でできた厚いヴェールの、最後の破れ目から赤い色が消え、無彩色の世界は、薄暮から、真の闇へと、その主を交代させようとしていた。風はますます冷たく身体に突き刺さり、耳元でうなるその音は、まるで静寂の世界の住人から、潮の音を追い出しにかかったようであった。
 それでも俺達は、動かなかった。
 動けなかった。
 新しく世界の主となった真の闇と風の音が、生贄として俺達の身体を欲しているかのように、俺達は動けなかった。
 どれくらいの時間が過ぎたのだろう。感動という名の金縛りから最初に目覚めたのは、おそらく俺だった。
 深い余韻に浸っている身体を、むりやり覚醒させて、俺は視界をそらした。海岸沿いに見える街には、もう煌々と灯がつき、季節はずれの観光地にも、昼間とは違う賑いをもたらしていた。波打際には、風によって荒れてきた波が、白く砕けて岩に襲い掛っていた。 俺はあたりの静寂を壊さないように気を使いながら、ようやく自由になった首をねじ曲げ、後方の様子を窺った。
 そこで俺は見た。夕日の残渣に照らされたあいつの顔を。
 そして、その時、俺のなかでまた、時が止まった。

 もうすっかり暗くなった、滑りやすい道を二人で歩いているとき、俺はずっと迷っていた。あそこで見たもののことを、こいつに言うべきなのかどうか。しかし、俺には言えなかった。声を出すことさえもできなかった。

 あのとき、俺はこの世でもっとも美しいものを、二つ、見た。

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