●「ローマ帝国衰亡史・第3巻」●

 

17〜22章

324-363年

 

1987/06/28

第3巻は、コンスタンティヌス大帝とその後継帝の時代。コンスタンティヌスが帝政時代の卓抜した皇帝の一人だったことに違いはないが、完全な評価が与えられているわけではありません。2失点として、軍団の縮小による軍事力の低下、ローマ・キリスト教内の各派の対立を複雑にした不明瞭さが挙げられます。
大帝の長子
クリスプスは優秀な人物であったらしいが、大帝のねたみを買い、死に至らしめられる。
後妻ファウスタとの間の3子、
コンスタンティヌス二世、コンスタンティウス2世、コンスタンスは、子供の頃に既に副帝に叙されており、その後帝国を3分割統治する。しかし、コンスタンティヌス二世のコンスタンスへの侵攻そして敗死、さらにコンスタンスが造反に会い死すことにより、コンスタンティヌス二世が単独帝となります。
この帝はとても猜疑心が強かったらしく、従兄弟、その子らは一度副帝となりながらも、結局疑いを受けて死すこととなります。
コンスタンティヌス二世の病死後、唯一生き残ったのが西方・副帝に任じられていたユリアヌス帝であり、単独帝となります。俗に言う「背教者ユリアヌス」です。
こうした変遷を読んでいると、ローマ帝国のような広大な帝国を一人の独裁者が統治することの困難さを思います。世襲が完璧な制度でないとしても、それに代わるべきものがあるでしょうか。結局
ディオクレティアヌスの隠退は、彼の家族へ迫害を及ぼして終わっています。
また、この巻では、
アタナシウス派とアリウス派の宗教論争が扱われています。
この2派の宗教論争の対立点は些細なことに端を発していると言います。ニカイア会議においてアタナシウス派が正統と結論されましたが、
コンスタンティヌス大帝の感情的保護からアリウス派が息を吹き返し、両派の対立は血腥い虐殺にまで及んだと言います。アレクサンドリア大司教アタナシウスは、それがために流罪と国民支持による復権を繰り返す生涯だったようです。
第3巻は、
ユリアヌスが単独帝に就いたところで終わります。異教者、若年とはいえ、彼はギリシアの流れをくむ哲学者であり、善政に注力したらしい。
コンスタンティヌス二世帝が愚人ながら25年間帝位にあったのに対し、ユリアヌス帝の統治は、ペルシア戦争であっけなく32才の若さで死ぬまで僅か3年の統治でした。

 

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