佐野洋子
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1938年北京生、武蔵野美術大学デザイン科卒。絵本、小説、エッセイ、翻訳など幅広く活躍。絵本「わたしのぼうし」にて講談社出版文化賞絵本賞、2004年「神も仏もありませぬ」にて第3回小林秀雄賞を受賞。2003年紫綬褒章を受賞。

 
1.
神も仏もありませぬ

2.シズコさん

3.役にたたない日々

 


     

1.

●「神も仏もありませぬ」● ★★            小林秀雄賞



 
2003年11月
筑摩書房刊

(1300円+税)

 

2004/07/11

 

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「まさか私が六十三? 当り前で何の不思議もないのに、どこかに、えっまさか嘘だよなあと思うのが不思議である」という一文から始まるエッセイ集。
若い頃の愚かさ、浅はかさを未だ引きずっているというのに、物忘れは多くなり、容貌も何時の間にか年寄り臭くなっている。そんな佐野さんの驚きは、他人事ではない。
きちんとした大人に成りきれていないというのに、年齢だけは重ねて、もうこんな年齢になってしまったと私が感じ出したのは、45歳を過ぎてからでしょうか。
それだけに、年代の差はあるにしろ本エッセイには共感を抱くのです。

5年程群馬の山の中で暮らしているという佐野さんの日常は、開き直った観があって明るく、心強い。
同年代らしい農家のアライさん夫婦、サトウ君、マコトさん、ソウタ、蜜蜂を飼っているフルヤさんと妻の衿子さん等とのお付き合いは、子供時代の友達同士のようで楽しそうです。
そんな日常生活を送れるなら、年を取るのも悪くない、という気がします。それなのに「あとがきにかえて」で、「私は不機嫌なまま六十五歳になった」という。幾つになっても泰然自若とはなかなかいかないようです。

これはペテンか?/ありがたい/今日でなくてもいい/虹を見ながら死ね/声は腹から出せ/フツーに死ぬ/そういう事か/それは、それはね/そうならいいけど/納屋、納屋/フツーじゃない?/じゃ、どうする/何も知らなかった/山のデパートホソカワ/出来ます/他人のうさぎ/謎の人物「ハヤシさん」/金で買う/あとがきにかえて

   

2.

●「シズコさん」 ★★☆



 
2008年04月
新潮社刊

(1400円+税)

2010年10月
新潮文庫化

   

2008/05/15

 

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年老いて呆けた母親を老人ホームに入れる、そのことについての内心の葛藤を語った一冊。
それに絡んで、長年にわたる佐野さんと母親との間に横たわってきた、強烈な愛憎の様が語り出されていきます。

「私は母を金で(老人ホームに)捨てた」と認識するところから始まる内心の痛みと、あんな母親の面倒など見てられるか、という思いの相克がそこにはあります。
呆けてしまった母親と対照するように、また(酷な言い方かもしれませんが)老人ホームへ入れたことの言い訳をするように、娘に対するこれまでの冷淡だった母親の姿が語られていく。
それは、思わず仰け反ってしまうような、それでいて半身を乗り出してしまうような、母娘関係のドラマ。
自儘、子供に対する優しさの欠片もない仕打ちの数々。そんな母親に対する憎悪の念は凄まじいばかりですが、本書を読んでいるとそれももっともなこことと感じられます。
もっとも、母親の身体に触るのも嫌だ、という佐野さん自身の情も強い。だからこそ一層2人の間は対立したのでしょうか。
でもそんな母親だからこそ、父親が早く死んだ後も気丈に、4人の子供を大学まで育て上げることが出来たのだとも思います。

佐野さんの場合は極端かもしれませんが、親を大事に思う一方で憎む部分もある、というのはむしろ普通のことではないでしょうか。
私に自身にも、似た部分があることを感じます。だからこそ本書は他人事としては読めない処があるのです。
親子というのは本来そんなものではないか。あれだけ密接に、そして長く、顔を突き合わせる関係だったのですから。
それなのにボケてしまった母親は「どんどん素直になってかわいい人になった」というのですから、子としては遣る瀬無い。
一様で語ることなどとてもできないのが親子の関係と、つくづく思います。
佐江衆一「黄落も凄まじかったですが、あれは基本的に老父の介護という事情の上でのこと。本書に描かれる母娘の対立はもっと根深いものがあるだけに、なおのこと強烈です。
読みながら、ついつい自分自身と我が親との今後を考えざる得ませんでした。

      

3.

●「役にたたない日々」 ★★



 
2008年05月
朝日新聞出版

(1500円+税)

 

2008/06/12

 

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女も68歳過ぎて、ババアと自覚したらもう怖いものは何もない、とさては開き直ったのか!という観ある、日記風エッセイ集。
佐野さんが時々気にするのは、ついに呆けてきたのか? ということぐらい。
何も怖くないと思えばすべて本音をぶちまけて気楽にしていられる、という佐野さんの気構えが感じられるようで楽しい。

そう思ったら、本書の「役にたたない日々」という題名は凄いものだと思えてきました。最初は、だらだらと過ごす程度の意味と受け留めていたのですが、自嘲も混じえながら自らの日々を切って捨てて平然としている観があるのです。その覚悟の程、小気味良し。
その証のような文章を本書中から引用すると、
「六十八歳は閑である」「六十八のバァさんが何をしようとしまいと注目する人は居ない。淋しい? 冗談ではない。この先長くないと思うと天衣無縫に生きたい」とのこと。
そんな佐野さんが、世間のオバサマたちと同じく韓国ドラマに夢中になったというのですから、何とも愉快。

しかし、これだけ長寿社会となった日本にあってみれば、六十八歳という年齢、まだまだという年齢でもある筈。
それなのにガンの転移が見つかり、余命2年位と宣告されたのだそうです(既に残り1年とのこと)。
それでも佐野さんは少しもめげたりしない。
「二年と云われたら十数年私を苦しめたウツ病がほとんど消えた。人間は神秘だ」
「人生が急に充実して来た。毎日がとても楽しくて仕方ない。死ぬとわかるのは、自由の獲得と同じだと思う」
と書いている。

宣告されてかえって“役にたたない日々”が“輝かしい日々”に変わり得た、というなのでしょう。
それを知るためには、まず本書を読んで佐野さんのいう「役にたたない日々」の様子を是非味わってみてください。

    


   

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