青木淳悟作品のページ


1979年埼玉県生。早稲田大学文学部在学中の2003年に「四十日と四十夜のメルヘン」にて第35回新潮新人賞受賞、04年発表の「クレーターのほとりで」にて第18回三島由紀夫賞候補となる。05年両作を収録した「四十日と四十夜のメルヘン」にて第27回野間文芸新人賞、2012年「私のいない高校」にて第25回三島由紀夫賞を受賞。


1.
四十日と四十夜のメルヘン

2.このあいだ東京でね

3.私のいない高校

4.学校の近くの家

  


   

1.

●「四十日と四十夜のメルヘン」●     新潮新人賞・野間文芸新人賞


四十日と四十夜のメルヘン画像

2005年02月
新潮社刊

(1500円+税)

2009年09月
新潮文庫化

    

2005/06/09

 

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「四十日と四十夜のメルヘン」という題名ですから、てっきりメルヘン的な小話40篇と思っていたのですが、まるで予想外のストーリィ。
主人公は貧乏生活者。近所の外資系スーパーは避けてわざわざ遠くの安売スーパーまで足を伸ばし、隣人の新聞を盗み取り、そのうえチラシ配りのバイトをしても配りきることができずに部屋の中は持帰ったチラシが山のよう。
チラシの裏を使って小説を書き始めますが、何とその小説の題名は「チラシ」という。
地味で、どんな人物のどんなストーリィか皆目判らないままにストーリィは進んでいきます。そしてふと気がつくと、主人公の夢想や作中小説「チラシ」のストーリィが入り混じるという、繰り返し。
いつしか、どこまでが現実でどこからが空想なのか判然としなくなり、読んでいる側はいまどこに自分がいるのか判らず途方に暮れてしまう。まるで作者の術中の中でもてあそばれたような気分です。
本書題名の“メルヘン”とは、ストーリィ内容のことではなく、本作品が作り出す夢心地のような世界のことであったのか、という気がします。
新潮新人賞受賞作であり、作品の質は高いのでしょうけれど、面白いかと問われればよく判らない。

「クレーターのほとりで」は「メルヘン」より具体的ですけれど、何時の時代のどんな男女間の出来事かよく判らないまま、最後にはネアンデルタール人の話題となるのですから、これはもうお手上げ。

四十日と四十夜のメルヘン/クレーターのほとりで

     

2.

●「このあいだ東京でね」● 


このあいだ東京でね画像

2009年02月
新潮社刊

(1600円+税)

 

2009/03/21

 

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現代社会をありのままに描いた8篇。
でもこれって、小説と言えるのだろうか。というのは表題作を初め、幾つかの篇には主人公という存在が感じられない。
その象徴とも言えるのが「ワンス・アポン・ア・タイム」。1999年9月の新聞縮刷版、1日から30日まで目を通し目立った出来事を当時の記憶を蘇らせつつ書き出していく。
しかし、小説というものの一面が、社会の姿を描くという役割にあるのなら、本来主人公など必要ないのかもしれない。

表題作「このあいだ東京でね」は、家を買おうとする場合の、誰もが辿るであろう過程を連綿と描いた篇。  
販売業者の営業活動ぶりを振り出しに、場所をどう探すか、交通事情はいかに大事か、銀行でローンを借りるための身辺整理、ローン金利の選択、個人信用情報機関への登録データまで気にし始め、マンションの価格設定とは? 最後には夫婦間での意見割れまで。
誰しも住宅ローンを組む前には、大なり小なり似たような経験をしている筈。さすればもはや主人公は、その他大勢、読者自身と言って少しも差し支えない、という気分になる。
面白かったのは「TOKYO SMART DRIVER」。東京から博多まで、新幹線と飛行機、どちらが早いか、といった話なのですから。

読み終えた後、本書にどんな仕掛けが施されていたのかと思い巡らせると、つい可笑しくなってしまう。でも、小説のもう一つの要素である、物語としての面白さはないなァ。
本書はそんな、風変わりな一冊。

さようなら、またいつか/このあいだ東京でね/TOKYO SMART DRIVER/障壁/夜の目撃談/ワンス・アポン・ア・タイム/日付の数だけ言葉が/東京か、埼玉

        

3.

●「私のいない高校」●         三島由紀夫賞

 
私のいない高校画像


2011年06月
講談社刊

(1600円+税)

  

2011/07/09

  

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題名と表紙の絵からすると、主人公がどこかに隠れてしまっている、姿を現さない小説、かと想像するのですが、大違い。
絵の女子高生とは関係なく、主人公というべき登場人物が誰もいないのです。代わる代わる誰かが主人公を務める、ということではありません。端的に言うと、誰も主人公にならない小説。

誰も主人公にならないとどういう小説になるか、というと、誰かの主観というものが一切ない。
ですから、事実だけが書き連ねられてストーリィを形作っている、ということ。
実験的な小説、そう思います。

舞台はさる女子高校。今回その高校の2学年はカナダからの留学生を受け入れます。彼女が来日してみて初めて判ったことは、元々ブラジル出身。したがって英語もそう得意ではなく、達者なのはポルトガル語。
しかし、その留学生
ナタリー・サンバートンも主人公になることはなく、彼女を迎え入れていろいろと配慮に苦労する担任教師すらも主人公とはなりません。
高校2年の数ヶ月が、途中に広島〜萩〜長崎という旅程の修学旅行もはさみながら、淡々と出来事だけでストーリィが進められる、という風。

ですから不思議な感じです。
主人公のいない小説とはこんなものか、という初体験を楽しむ気分。
修学旅行場面では、つい私自身の修学旅行体験を振り返ってしまいました。
では面白いか、というと、そもそもそうした小説ではない、と言う他ないようです。

                    

4.
「学校の近くの家 ★☆


学校の近くの家

2015年12月
新潮社刊
(1600円+税)

 


2016/01/24

 


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小学生を主人公に、小学生の視点から見える世界を描いた、小学生小説。これは珍しき哉。

中学生になると自分で考えて動かなくてはならない部分があったので記憶があるのですが、小学生の時というのは決められた中で動いている部分が多かった所為か、記憶している部分が余り多くない。
その所為か、小学生の時に見ていた世界ってこんなだったっけ?と思いもし、まるでTDLのスモールワールドに入り込んだような気分です。

感じることは、見ている世界が本当に狭い、ということ。学校と家、殆どそればかりという感じです。それ以外に視野が向いていない所為か、その一方で(男子だからなのでしょうか)つまらぬと言うか、考え過ぎというか、余計な想像ばかり巡らしているという風。
確かに、そんな風だったような気がするなぁー。

主人公は
杉田一善(ゼンちゃん)、小学五年生。
家が学校のすぐ近くであるため、朝の通学班に属さないただ一人の児童、という設定です。そのため、学校と家の距離感がすごく近い。通学路という行程が殆どない所為か、学校と家以外に視点が向きにくいというところが、本書の主人公像として相応しかったのか、と思います。
そのゼンちゃん曰く、五年生ともなると、低・中学年の頃とは違った世界が見えてくるらしい。確かに小学校の6年間って子供にとっては長い時間ですし、その間における身体的成長等の変化も大きいですよね。
では、小学生の世界へどうぞ。


学校の近くの家/光子のヒミツ/二年生の曲がり角/存在の父親/帰る友達の後ろ姿/十一年間の思い出/別の学校

  


  

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