ハーモニカ







ある日の夕方、その少年は錆びたハーモニカを拾った。



時期はもう11月。今まで半袖で校庭を走り回っていた小学生達も、いつの間にか長袖の服を着ている。
遠くの方からチャイムの音が聞こえる。下校時間の合図だ。ランドセルを揺らしながら沢山の人影が家路についていく。
夕日に照らされた短い川が、水を押し流すたびにキラキラと光る。
人々の声が遠くなっていく。その静かな川岸に、少年はいつものように一人立ちつくしていた。

タタンタタン・・・
遠くの桟橋を列車が走っている。
あかね色の空、あかね色の雲、川、道。
列車も当然あかね色だった。
ーパレットに出したら、どんな量になるんだろうか。
通り過ぎる音をを聴きながら少年はボンヤリ考えた。
そうこう考えているうちに、太陽はどんどん低くなっていく。
急に寂しくなって、少年は背負っていたランドセルを空高く放り投げた。
それはキラキラと流れる川の近くまで飛ばされ、やがて草むらの中で落ちた。
草むらにそれが落ちるの確認するとゆっくりとそこまで歩き、黙ってそれを見た。
黒光りした物体は夕日の光を集めて、少年の目に乱反射した。
「君だけ、空の色じゃないね。」
そう言って、少年はランドセルを拾った。
「僕みたいだ。」
遠くで魚のはねる音がした。

少年は川縁をトボトボと歩いた。
近くの煙突から煙が上がっている。
ー今日の晩ご飯はカレー
僕ん家は何だろう。
ボンヤリとした頭で考えて、足下の石ころを蹴飛ばした。
石はコロコロと転がっていき、草むらのトンネルをくぐった。
少年は石を追って走った。
草を足でかき分けて石を見つけた。
その隣に、その錆びたハーモニカがあった。
少年はそれを手に取った。錆びた部分が手についた。
でもマウスピースは何故か綺麗で、つい最近まで誰かが使っていたようだった。
わずか表面に残っている銀色がとても綺麗だった。
少年は思わず、マウスピースに口を付けた。
すー、と空気の抜ける音がした。
何度も吹いてみたが、やはり空気の音しかしなかった。
少年はマウスピースから中を覗いた。川で少し洗ってみたりもした。
なんとか鳴らないかと思ったが、何処がどう潰れているのか少年にはさっぱり分からなかった。
気がつくと、太陽が完全に落ちていた。黒があかねを支配した。
少年は川の水の冷たさで悴んだ手を暖めながら、遠くの町の灯りを見ていた。
少年はハーモニカを見た。このまま持って帰れば母にしかられるに決まっている。
あれこれ考えた末、結局見つからないようにポケットに隠すことにした。
濡れたハーモニカをハンカチで包み、ズボンのポケットにこっそりと忍ばせた。
すると急に心に灯が灯ったような気持ちになって、少年は少し顔をほころばせた。


帰りが遅くなった理由は、「図書館で本を読んでいたら遅くなった」ということにしておいた。
嘘をついている間、顔がずっと笑っていたことに母親は気がつかなかった。
ポケットに秘密を隠したまま、少年は2階への階段を上った。
自分の部屋に入り、後ろ手に鍵をかけると急いでハーモニカを取り出した。
改めて見ると、川で洗ったものの汚れはそう簡単に取れそうなものではなかったし、
何より錆びている部分が多すぎて、とても音が出るようなものには見えなかった。
それでも少年はマウスピースをハンカチで丁寧に拭くと、
再びその錆びた楽器に息を吹き込んだ。


時計が幾たび時を知らそうと、少年はハーモニカから手を離さなかった。
いくら吹いても音はなってくれない…。少年は少し泣きそうになっていた。
それでもすうすうと、早く鳴ってくれと、ただハーモニカに息を吹き込むしかなかった。
唇が痛くて、何度も服の袖で擦った。
すると唇はさらに赤くなり、今となっては半分感覚を失っていた。
もう何度吹いただろうか…少年は涙の溜まった目を擦りながら考えた。
そしてもう一度、とハーモニカを吹く。
すると、今までと違う感覚があった。
少し、本当に少しだけだったけれど音が鳴ったのだ。
少年は少しビックリして、しかし次の瞬間にはもう一度鳴らそうとして、ハーモニカにかぶりついていた。
そして幾度か小さな音を鳴らしたハーモニカはその音をだんだんと大きくしてゆき、そしてとうとう最後に、

ふぁあん

音が鳴った途端、少年は思わずハーモニカから手を離してしまった。
しばらくは何が起こった分からなかったが、やがて音が鳴ったことを再確認すると、
何だか何もかも許されたような気がして、そのままハーモニカを抱えてベットに潜り込んだ。
心臓が大きく高鳴っていて寝付けなかった。
やっと、その楽器が自分のものになったような気がした。



しばらく、少年はそれが夢なのかどうか分からなかった。
ただ自分が空間の真ん中にいて、ハーモニカが宙に浮かんでいて、
それが何か、メロディーを奏でていることだけは分かった。


これは…何の曲だったけ?


知っているんだけどな…


少年がぼんやりと眺める先で、尚もハーモニカは音を奏でていた。


嗚呼、思い出した。


ー亡き王女のためのパヴァーヌー


…ハーモニカで吹く曲じゃないよな

見るとハーモニカはそこにはなくて、ただ音だけが鳴っていた。




少し肌寒くて、少年は目を覚ました。
外はまだ暗かった。
周りを見渡すと何故か窓が開いていて、風がカーテンを揺らしていた。
開けたまま寝たんだっけ?
そう思って、少年は窓を閉めようとした。
ふと、耳を澄ませる。
夢で聴いた曲が、窓の外で鳴っていた。
誰? 少年は窓から身を乗り出した。
玄関の前で男が一人、今にも枯れそうな音でハーモニカを鳴らしていた。
背が高かった。足がすらりと長くて、長い髪が風で揺れていた。
酷く薄着で、少年は思わず「寒くない?」と、とても小さな声で聴いた。
男が顔を上げた。声に反応してかどうかは分からないが、まさかきこえるとは思わなかったので少年は少しドキリとした。
男は笑って、「有り難う」と言った。聞こえていたらしい。
二人は暫く動かなかった。その間、少年は何かを思い出そうとしていた。
「あっ」
少年は手のひらを見た。少し錆びたニオイがした。
「無い…」
再び窓の外を見た。男が高々とハーモニカを掲げ、
「返してもらったよ」と言った。
少年はハーモニカに向かって、ゆっくり手を伸ばした。
「返して…」少年は泣いていた。
「駄目だ。これは僕のものだから」
「返して…僕の…」
「違うよ。君のじゃない。」
泪が、後から後から流れ出た。苦しい、と少年は思った。
そして只、返して…返して…と壊れた玩具のように言い続けた。
男は少年を少し見ると、やがて置いてあった自転車にまたがった。
「じゃあね。」


カエル…帰ってしまう?

行ってしまう…僕の…僕のが…


「待って!」
少年は精一杯の声を振り絞って男を呼び止めた。
「お願い返して…それ僕が…僕が見つけたのよ…」
少年は泣きじゃくって、必死に男からハーモニカを取り返そうとした。
男は少し微笑んで少年に言った。
「これは僕のだから…君には別のをあげる。」
声は優しかった。急に涙が止まった。
そして男は再び自転車を漕ぎ出した。
ー待って!少年は確かにそう叫んだ。
しかし男はもう居なかった。
そして次の瞬間、少年の視界が真っ暗になった。

それからの記憶は…無い。





次の日の朝、少年は太陽の光で目を覚ました。
目を擦った。昨日カーテンを閉め忘れたらしく、直接部屋に光が注いでいる。
少年はいつ自分が布団に入ったか、全く覚えていなかった。
頭がボンヤリしている。昨日の夜の出来事が、まるで夢のように思えた。
少年はふと何かを思いついたように、部屋中を引っかき回した。
机の上、中、ベットのマットの下、カーペットの下、タンスの隅…
隅々まで探し回った後で、少年はようやく昨日の夜の出来事が夢ではなかったことを確信した。
いや、一体何処までが夢だったのだろう…
そう思うと、昨日ハーモニカを拾ったことや、音が出るまで息を吹き続けたことや、やっと鳴った時感じた嬉しさなどが、全て嘘だったように思えた。
やっと見つけたと思った一つの希望、救い…

昨日の男、あれは一体誰なのだろう。
「…あれは」
あれはそう、きっと彼のものなのだろう。今なら分かる。
僕は彼じゃない。だからあれは僕のじゃないのだろう。
何だか急に泣きたくなった。



…すとっ

「?」


パジャマのポケットから、急に重みを感じた。
少年は初め、立ちくらみでもしたのかと思った。
しかし、ポケットには確かに感触があった。
金属の、あの、独特の重みが。
少年はおそるおそる、ポケットに手を伸ばした。



それは金属の、確かな重みだった。
銀色のあまり飾り気のないブルースハープを、少年は手にした。
傷など一つもない、新品同様だった。
ー君には別のをあげるー
男の言葉を思い出す。
これ…のことなのか?
でも…でもこれは本当に…



「龍也?起きてるの?」
声と共に、少年の部屋の扉が音を立てて開いた。
「なんだ、起きてるんじゃない。早く下りるなさいよ。遅れるわ。」
息子を起こしに来た母親は、部屋の真ん中で突っ立ている少年を見てそう言った。
ふと、母親は少年が手にしている金属製の楽器に気がついた。
「あら、それどうしたの?」
少年はいろいろなことが突然すぎて、半ば硬直した状態だった。
「ハーモニカ?懐かしいわねえ。貴方鳴らせるの?ちょっと貸してみて」
「あっ…」
母親は少年の言葉を待たず、ハーモニカに口を付けた。



すうっ




空気が抜ける音がした。
「?何これ。壊れてるの?」
母親は故障箇所を見つけようと、ハーモニカをあちこち調べた。
しかしやはり、壊れているところは見つけられなかった。
「どこが壊れてるか分からないけど、それじゃ鳴らないわね。残念。
そうだ、今度違うのを買いに行こうか?」
母親は少年を気遣うように言った。
少年はハーモニカを母親から取り返し、それきり何も言わなかった。
そんな少年を母親は暫く心配そうに見ていたが、
やがて、早く下りてきなさい。朝ご飯が冷めてしまう、と言い残して下に下りた。


少年はそれから暫く、ハーモニカをじっと睨んでいた。
このハーモニカは、確かに重みはあるけれど、
でも、昨日のものに比べれば全然軽い。
これは…これは本当に…
少年は確かめるため、そっとハーモニカに口を付けた。





…すうっ




やはり音は鳴らなかった。空気の抜ける音が空しく響いた。
少年はハーモニカから口を離し、もう一度その楽器を見つめた。



そして、自分の胸が確かに大きく高鳴っていることを覚えた。



鳴らなかった。鳴らなかったけれど…



ーこれは僕のだ!ー 少年ははっきりそう感じた。







少年は座り込んで、ハーモニカを両手で抱えた。
僕のだ!僕のハーモニカだ!
心の中で何度も叫んだ。
急に何もかも許されたような気がした。
心に灯が灯ったような感じがして、少年は顔をほころばせた。