Text written in Japanese and poem in Esperanto / teksto japane kaj poemo esperante

(勝手に)『男の娘☆10』開催記念

『男の娘☆10』に捧げる詩

Estas mi otokonoko

Du kusenoj en la brusto
min varmigas en augusto,
min shirmante kontrau shoko;
estas mi otokonoko.

Kushas tie chi la tento
de shminkara sortimento,
virinrobo sur vesthoko;
estas mi otokonoko.

Chu virin' au vir', suspektu!
Kiun sekson mi elektu?
Ghin divenu per taroko;
estas mi otokonoko.

Kosmetikon mi tre konas.
Dank' al ghi belec' plibonas.
Vangojn tegu per pudrfloko;
estas mi otokonoko.

Mi vestighas per jupeto
sur femuroj lau la peto,
kiun volas Forta Voko;
estas mi otokonoko.

En l' evento kun permeso
in-vestighas mi sub jeso.
Tie estas mia loko;
estas mi otokonoko.

Per lerneja bankostumo
por knabino sub sunlumo
mi vestighas en banloko;
estas mi otokonoko.

Mi baraktas en turmento
de la homoj sen prudento.
Tedas min senkora moko;
estas mi otokonoko.

Flugas per facila vento
interseksa Nova Sento
kun moe' de lok' al loko;
estas mi otokonoko.

Post la nask' che mia panjo
oni pensis min 'sti knanjo.
Antausento de l' epoko:
estos shli otokonoko.

解題

男の娘ハイパーアイドル

2011年3月27日(日)に川崎産業振興会館でイベント主催団体モノリスによって開催される、男の娘に関係する表現なら何でもOKのイベント『男の娘☆10(おとこのこ・じゅう)』では、第10回を記念して記念誌が発行されるということで、僕も稚拙ながら寄稿しました。男の娘界を代表するこの素晴らしいイベントに僕もなんらかの形で参加して、少しでも男の娘文化に寄与したかったのです。

原稿の内容は詩とイラストで、詩は例によって国際交流のために造られた言語エスペラント語で書いています。イラストもこの頃流行りの萌え絵ではありませんし、詩も誰も読めない代物で、独り善がりでごめんなさいって感じの投稿でした。

今回の詩は、ユリオ・バジという人の作ったEstas mi esperantisto(そんな私はエスペランティスト)という詩を元にしています。この詩は、エスペラントを愛するエスペランティストの悲喜こもごもを時にコミカルに時にシリアスに詠った傑作で、エスペラント界では非常に有名な由緒正しい詩です。この詩を、こともあろうか男の娘の詩に書き替えてしまったという、なんとも不遜な冒涜行為をやらかしたわけです。真面目なエスペランティストが知ったら卒倒しかねませんが、僕にとって男の娘はこれくらい真剣で重要なテーマでもあるのですよ!(……と、正当化しておこうね。)

各行は8音節のトロカイック・テトラメーター(強弱四歩格)になっており、2行づつ脚韻を踏んでいます。なるべく原詩の雰囲気を保つために、随所に原詩の痕跡を残していますので、原詩をご存知の方は是非、両者を比べてみてください。原詩の各部分があらぬ内容に置き換わっているのが楽しめるかと思います。

普段は「男の娘」にknanjoという語を当てていますが、この詩では、「男の娘」をそのままotokonokoと音訳しています。以下、各連毎に解説していきます。訳は、語呂を合わせるために少し意訳したところもあります。

第1連:胸の内には二つのパッド/八月に僕を暖めて/衝撃からも守ってくれる/そんな僕は男の娘。……出だしは、豊胸パッドの難点と思わぬ利点をユーモラスに詠いました。個人の好みの問題ですが、僕は、なにもあの目障りな脂肪の塊をいちいち再現する必要はないのではないかと思います。貧乳はステータスです。ただ、女性に憧れて女装する人にとって、女性の象徴たる豊かな乳房の再現はとても重要なことだと思いますので、これを尊重すべきだとも思っています。(ちなみに、とあるイベントでとある男の娘から「ねえ、ボク可愛いでしょ? 胸も入れてるんだよ。触ってみて」と言われたときには頭が真っ白になりましたよ。パッドもいいもんだね!)

第2連:誘惑とともにここにある/化粧用品一式が/洋服掛けには女性服/そんな僕は男の娘。……二次元の世界や、あるいは若い子ならノーメイクでも女性として通用することもあるでしょうけれど、通常はやはり女性に見られるためにはお化粧が必要ですし、またお化粧こそ女装の醍醐味の最たるものでもあることでしょう。目の前に化粧道具一式を揃えたときのドキドキ感、これから自分がいかに綺麗になるかという期待に満ちた瞬間は何物にも換えがたいものです。また、洋服掛けの女性服については、コミック『放浪息子』第1話の最終コマを思い浮かべていただけると良いでしょう。壁に掛けられた一着のワンピースの絵です。女装への願望をあれほどまでに的確に象徴する図匠は他にありません。virinrobo(女性服)は、記念誌上ではvirinrobojと複数形にしていましたが、ここではいろいろ考えた末に単数形virinroboに変えてあります。

第3連:男か女か疑おう/どちらの性を選ぶのか/タロットカードで占おう/そんな僕は男の娘。……いわゆるジェンダー・アイデンティティ(自分の自覚している性別)の問題で、女装を考える上で割りと避けて通れない話題でもあります(避けることもできますが)。女装をする人にもいろいろな人がいて、身も心も女性になりたくて人生をかけている人もいれば、コスプレイベントなどで一時的な変身を楽しむだけで十分という人まで様々です。これを一緒くたに女装者とか男の娘とかいう語でひとくくりにしてしまうのは乱暴な気もします。しかし、上記の多様性を踏まえた上でなら、いろいろな立場の人を受け入れる大らかな集合体として、あながち悪いことでもないと思います。といっても、得てして部外者はステロタイプを考えてしまいがちなので、注意は必要ですが。「占おう」の箇所は、taroko(タロット)とotokonoko(男の娘)で韻を踏んだだけで、あまり他意はありません。性別を占いやクジで決めるべきではありませんよね。あくまでも、自分の性別について思い悩んでいる様子を詠ったと解釈してください。

第4連:化粧術に長けている/お陰でもっと綺麗になれる/頬に塗ろうよパウダーを/そんな僕は男の娘。……第2連でも言及しましたが、女装にとってお化粧は大切な要素です。女性の服を着ても、顔がそのままでは女性らしく見えません。ものの本によれば、男っぽい顔付きでも髪型とメイクしだいで女性的な顔に見せることが出来ると言われています。見た目が綺麗な女性も、大抵の人はお化粧で化けているようです。実際、是非はともかく電車の中でお化粧をしている女性を観察すると、メイク後の変身振りには大変驚かされます。容姿に自信のない人でも化粧術を磨くことで、理想の自分へと近づくことが出来ると思います。綺麗な人というのは、お化粧の術を知っている人でもあります。必要なのは、たゆまぬ努力です。不精者に美しくなる資格はないのです。(あ、僕のことか……)

第5連:ミニスカートをはいている/求めに応じて太ももさらし/「強き呼び声」が望むから/そんな僕は男の娘。……forta voko(強き呼び声)というのは、エスペラントの最も重要な聖歌とも言うべき、La Espero(希望)という詩に出てくる表現で、バジの原詩でもLa Esperoに敬意を表して、この表現を引用しています。それ故に、この男の娘版でも是非引用すべき大切な表現です。この「強き呼び声」というのは、原詩では当然ながらエスペラントを広めようという呼びかけです。一方で僕は、女装というのは、心の奥底からこみ上げてくる「強き呼び声」に突き動かされて、実施に及ぶものだと考えています。その点で、この表現は男の娘の詩でも重要な意味を持つものとなっています。

第6連:女装可能のイベントで/同意の下に女装する/自分の場所がそこにある/そんな僕は男の娘。……コスプレイベントというのも決して完全に自由というわけではなく、尖っていたりして危険な衣装や露出の多い格好などは禁止されています。なぜかその同列に女装も含まれていて、「女装禁止」を謳っているイベントも多々あります。「女装禁止」と明記していないイベントでも、念のため主催者側に問い合わせると、そもそも問題外という回答が返ることもあるようです。そんな中で、「女装可」や「女装オンリー」のイベントというのは、女装レイヤーにとって貴重な自己表現の場となっています。そこでは、女装が女装であるという理由だけで疎まれることはなく、あくまでもその出来によって正当に評価されます。このような女装イベントは、女装レイヤーや一般の女装者にとって、まさに自分の居場所と言えます。

第7連:学校指定のスクール水着/しかも天下の女生徒用/水泳場で僕は着る/そんな僕は男の娘。……あまり深い意味はなく、萌えアイテムとして人気のあるスクール水着を採り上げたものです。男の娘モノのコミックにおいても、女子用のスク水を着せられて恥ずかしさに悶える男の娘の姿は、定番のひとつとなっていますね。ちなみに、小学生の時に学校指定の水着を受け取りに行ったら、女子用を渡されたという嬉し恥ずかしい思い出があります。こんな僕も、かつては正真正銘の男の娘だったと言えるかもしれません。

第8連:苦悩にあがくこともある/思慮分別のない奴に/からかわれると嫌になる/そんな僕は男の娘。……男の娘イベントや女装イベントにばかり参加していると、女装がすっかり社会に浸透して市民権を得たような錯覚を受けてしまいますが、現実には非難や中傷、あるいは好奇の的として見られることにそれほど変化はありません。女装はとかく非難や嘲笑の的にされるものです。社会の一般的な着衣の習慣、風俗、風習から外れているのは事実であり、それに違和感を感じる人が多いのも事実です。しかしそれにしても、各時代の若者たちの繰り広げる型にはまらぬ自由なファッションに比べて、女装に対する風当たりは不当に強い気がします。でも、本当に女装の嫌いな人というのは、女装者から目を背けて無視するものです。女装を声高にあげつらう人というのは、女装に関心があるわけで、実は心の奥に自分でも気付いていない女装への憧れがあるはずです。自身の願望に気付くことが出来ないというのは不幸なことです。ここら辺のことを分かっていれば、「女装キメェ、マジありえねぇ」などとぬかす次元の低い連中に負けずに頑張っていけると思います。

第9連:そよ風にのって飛び回る/性別間の「新感覚」/萌えといっしょにそこかしこ/そんな僕は男の娘。……バジの原詩に倣って、ここでもこの連全体が前出のエスペラント聖歌La Espero(希望)からの引喩となっています。エスペラントというNova Sento(新しい感覚)の到来を告げ、それに対してper flugiloj de facila vento, nun de loko flugu ghi al loko(そよ風の翼によって、さあ、そこかしこへと飛び行け)と、その伝播と普及への希望をとても明るく前向きに表現した素晴らしい句です。ここでは、Nova Sento(新しい感覚)にinterseksa(性別間の)という語を冠することで、男の娘という新たなる概念の普及と発展を願う気持ちを表現してみました。

第10連:生まれてすぐにママのもと/女の子だと思われた/時代のもたらす新たな予感/そんなこの子は男の娘になるでしょう。……女装自体は大昔からあるものですが、「男の娘」という概念は今まさにこの時代に生まれ、女装に何か新たな意味付けをもたらし、これからの時代を築いていくものだと思います。原詩では、自分の死後に「彼はエスペランティストだった」とジャーナリストが書くだろうと結んでいます。そのまま真似ても芸がないので、ここでは時制を逆にして、将来への希望をこめた誕生のエピソードにしてあります。“男の娘は時代の要請”です。普段はknanjoを「男の娘」の意味で使っていますが、ここでのknanjoは「女の子ちゃん」の意味で使っています。また、shliは正式な単語ではなく、shi(彼女)とli(彼)を組み合わせたもので、性別の区別をせずに人を指すために考案された俗語です。同様の語としては、riのほうが有名ですが、男の子と女の子の両方の魅力を兼ね備えた男の娘には、このshliが相応しいと思って、愛用しています。

以上、女装や男の娘への思いの丈を目一杯詰め込んだ詩とその解説でした。たぶん男の娘の中にはエスペラントの出来る子はいないでしょうし、一方、エスペランティストの中にも女装に興味のある人はあまりいないと思います。その点で、やはりこの詩はあまり理解されることはないだろうと思います。まあ、僕のやることはいつもこんな感じです……。


おまけのもう一連

Faras mi la poemachon,
pripensante chi temachon,
en la lingv' el Bjalistoko;
estas mi otokonoko.

僕は下手な詩をつくる
このひどいテーマについて
ビャウィストク発の言語を使って
そんな僕は男の娘

ビャウィストクとは現在はポーランド領内にある街の名前で、エスペラントを発案したザメンホフ博士の故郷です。博士、ごめんなさい。


作成者:姫楼しん(きろうしん)/公開日:2011-03-27
ホームページ:蜃気書楼/コンケルスピーロ
Farita de Sin Kiro el Japanio / Aperis en 27 mar. 2011
Chefpagho: Konkelspiro