東芝問題 問題の核心 私はこう思う

1999年7月31日  弁護士  牧 野 二 郎


1 問題の整理

私は、この問題を次のように捕らえています。

a 「欠陥」と「論争」との違い

まず、クレームの対象となっている機器の欠陥の有無は、科学的に分析し、慎重に判断されなければならず、最終的には、専門家による鑑定が必要になるでしょう。鑑定によって、欠陥の有無がはっきりすると思います。それまでは、素人である私にも、また機器を直接見ていない第三者にも、機器の内容、欠陥の有無を議論するのは不正確になるので、避けなければならないでしょう。

欠陥の有無と、ここで論じようとする「論争」「戦い方」「戦い方のルール」の問題とは区別する必要があると思います。「論争」「戦い方」が下手とか、上手いとかで、欠陥の有無は影響を受けないはずです。その点の区別は厳格にしたいと思うのです。これが、大前提です。

b 論ずべきは、批判・論争の自由と論争のルール

今もっとも重要な問題は、ホームページを利用した批判・論争が自由であるかどうか、という問題があります。自由であるとして、次に、相手との論争という場面を想定したとき、かみ合う論争をするための最低限のルールが問題になります。

トラブルの処理方法という観点から考えれば、その解決方法は数限りなくあるでしょう。当事者の直接交渉から、代理人を立てての交渉、非合法組織メンバーを代理人にして圧力をかける方法、一見正当な方法を利用しつつ不正な解決を求める方法、マスコミに正当性を訴える方法、そして裁判を提起するという方法など、無数にあるでしょう。

その中で、インターネットを利用して、広く訴え、公開された場で批判し、論争を行うという方法が、今回の検討の対象です。なぜ、この方法を検討するかといえば、インターネットを利用した批判の方法が、極めて大きな力、可能性を持っている事を証明したからです。この大きな力に対して、多くの人は驚き、その中にはは恐怖心を持つ人が出てくるのです。このような批判の方法を「サイバーテロ」「リンチ」と評する人もいるようです。そのようにネガティブ(消極的に否定的)にとらえて良いのか、というのが論ずべき問題(論点1)でしょう。

更に、論争のルールも問題となります。これは、論争の場の設定の妥当性判断、論争の方法、ツールの妥当性、すなわち「武器対等か」という点、更には、第三者の論争への加担、加入の取り扱いなどの問題(論点2)があります。、そして、マスメディアの参加という意味での報道の自由や、取材の自由、表現の自由との関連などに関わる問題(論点3)です。

これらを議論する事は、インターネットを利用する上で不可避な問題であると思うのです。

2 論点1  批判のあり方

ホームページ上で批判・論争するといっても、自分のホームページに自らの主張を書いて公表し、相手の反応を待つ、相手の反論に更に反論するというような方法のほか、パソコン通信やインターネット上で公開された掲示板や、フォーラムで相互に発言して議論するという方法もあります。

ここでは主に、自分のホームページでトラブルを公表して、批判し、論争を行う事の意味を検討したいと思います。

(1) 公表するということ

ホームページに書くというのは、問題を公に知らせるという事です。インターネットなどない時代でも、ビラ配り、公開質問状の公開、街頭演説、さらにはマスコミへの発表などで公表されてきたのです。現在でも、一人で裁判所の前で大きな看板とメガホンを持って演説する人もいますし、巨大なスピーカーを積んだ「街宣車」といわれる車両から叫ぶようなものまであります。これらが騒音問題を起こすかどうかはともかくとして、適法な方法を取る限りにおいては、表現行為自体は表現の自由の範囲として尊重されてきています。

ホームページでトラブルを公開するのも、表現の自由の範囲として保証されるべきです。行き過ぎた表現行為は当然ながら規制されますが、適正な範囲での批判は、認められてしかるべきでしょう。

これまでも密室で起きた様々な問題が告発され、新聞やテレビで報道されてきました。われわれ一般人にはそうしたメディアは開放されていませんでした。様々な批判があっても、それをメディアに流す事はなかなかできなかったのです。しかし、ホームページはそれを可能にしました。人類は、初めて、個々人が自己の意思のみで、批判を公開し、議論をする権利を手に入れたのです。当たり前の事がようやく実現できたというわけです。こうして手に入れた個人でも公表可能なメディア、仮にプライベートメディアといいうことにしますが、このメディアを利用して個々人はその活動を飛躍的に増大する事ができるようになりました。

今回の問題は、その事を事実をもって示したわけです。

私は、今回の問題のキーワードは「モア・スピーチ」だと思います。すなわち、批判には反批判で答え、議論を応酬する事で、よりよい解決が見出す努力をする、という考え方です。こうした地道な努力が、実は問題解決の最短距離だという事をわれわれは学ぶべきなのだと思います。

更に、個人の表現の自由の保障は、個人に、大企業の力にも匹敵する「新しい力」を与えたという事もできます。これまで、個人の力は小さいもので、選挙でも大半が無視され、何の力に発揮できませんでした。まして、日ごろの不満は無視され、道理も通らないというのが現実でしょう。言われなき差別や人権蹂躙にもほとんど抵抗力がありませんでした。こうした人権状況において、今回の一連の動きは、個人の表現行為が大企業を動かすほどの力になる事を示す事で、これまでとは違う表現行為の「新しい力」を示したのです。その力が何か、を検討したいと思います。

(2)いわゆる「リンチ」論について

論者の中には、ホームページで批判し、議論する事を「リンチ」行為だとするものがあります。 この場合の「リンチ」という意味は、定かではないのですが、おそらく、公権力による正式裁判による審理ではなく、素人が勝手に処罰を強行するという意味での処刑(私刑)という意味なのでしょう。

近代裁判制度は、私刑を禁止して、公の権力が審理し、処刑するという制度です。その意味で確かにリンチを禁止しています。

問題は、ホームページでの批判が、「リンチ」にあたるのか、という事です。

私は、ホームページでの批判行為は、完全に表現の自由の範囲の行為であり、リンチとは無縁のものだと考えています。

まず、基本的違いは刑罰権の実施ではない事です。ホームページ主催者は何らの権力も権限すらもないのです。ただ単に、表現しているだけなのです。その批判的表現によっては、何も変わりませんし、批判されたものの権利はいささかも変化しません。

次に、ホームページでの批判は、私刑のような問答無用の行為ではなく、批判された者による弁明も、反論も、あるいは完全な黙殺の権利もあります。それらの権利をいささかも侵害しません。反論の機会も、また反論のスペースもまったく自由の与えられます。反論の自由は、多くの場合完全に保証されていますが、例外もあります。ホームページをもてない何らかの障害がある場合には、反論の権利が実質的に保障されていないかもしれません。そうした場合は後に述べるように、武器対等ではないので、正当な批判にならない場合もありえますので、注意が必要です。

三番目に、ホームページによる批判は、常に法律による規制を受けているという事です。刑事、民事の両面から、厳しい規制を受けています。私刑が、法に代わったのとは異なり、法の下での保障された自由の範囲での議論だという点が特徴です。

以上のような基本的な違いを認める事ができるのですが、そうした違いを認めるとしてもまだ、リンチだと思う人がいると思います。それは、一定の批判や議論が密室で行われるときは批判されてものの弁解はその場限りであるのに対して、公開の中での議論や弁解は、批判されたものが公開の場で「断罪され」「謝るよう求められた」のと同じではないか、という疑問だと思います。相手に謝るのは良いが、なぜ公衆の前で恥をかかせられなきゃならないのだ、という感想も同じです。こうした議論は、実は大変重要な問題を提起しているのだと思います。批判の自由という問題とは一応区別して、謝罪の方法として検討しておきます。

個人的な落ち度であり、一般公衆と無関係な事を、ことさらに公開の場で謝罪するよう求めるのは、明らかに行き過ぎです。個人的な落ち度や、一般公衆と無関係な当事者間だけの問題は、当事者間で処理すれば良いのであって、公開の性質に合致しません。裁判上の和解などでも、謝罪するが、謝罪した事を公開しない、という条項が盛り込まれる事があります。こうしたトラブルにおける謝罪などは、公開しない方が正しい解決なのです。また裁判では、公開の場で批判され、公開の出版物などで権利侵害された場合に、まったく同様な媒体で謝罪する事を求め、認められる事があります。侵害した時の形態とまったく同様な形態で謝罪するというものです。これもまた、当然の対処といえます。

こうした謝罪行為の非公開、公開の区別からすると、今回の東芝の問題発言は公開の場で行われたものではないのですから、「当然に公開の場で謝罪する必要がある」とまではいえないかもしれません。この意味で、「リンチ」論が展開されているというのであれば理解できないわけではありません。しかし、それでも私は公開の場での謝罪要求には正当性があると思います。その理由は、まず、問題の製品販売を不特定多数人に行っている事があります。その問題は、多くの人に関わる問題ですから、公共の利害に関しているという点で公開が原則だといえるでしょう。更に、問題発言は、外形的には批判者に対して向けられてはいるのですが、批判者は街宣車で乗り付けたり、面会強要をしたといった例外ケースではなく、電話による一般的なクレーム処理のルートに載っていた点です。こうした購入者に対する処理方法が取られている事自体が批判対象とされていますので、問題発言は一般的顧客全体に対してなされたと理解される点です。その点からは、むしろ一般的サポート体制自体が問題となっているという事です。その意味でも公共の利害に関わる問題ですから公開が原則でしょう。なお、現実には今回のケースでは、当事者同士が直接対面し、いわば非公開の場で謝罪が行われ、それを両者合意の下で公的な媒体で公開する事にしたため、ご心配の「リンチ」とはなっていないという点は確かです。

以上は、謝罪行為に焦点を当てて、その謝罪を公開すべきか否か、という面から検討しました。しかし、今回の問題はむしろ、その前提となった、批判の公開が正当か、という点でしょう。批判を公開して良いかどうか、交渉中の相手に無断で、突然公開する事がいいのか、という点を次に論ずる事にします。

(3) 公開すべきでないトラブル

トラブルの中には、公開に適さない問題もあります。

ア まず、プライバシー侵害のトラブルなどが考えられます。プライバシーに関わる事項でのトラブル、たとえば夫婦喧嘩や男女関係のトラブル、金の貸し借りの問題、信頼関係に関する問題、恋の告白など、プライベートに行われた行為などです。これらは、仮にトラブルになっても、当事者間で解決すべき性格の問題であって、公開になじみません。ある女性にふられたからといって、その女性との電話での会話を録音して、それを公開するのは明らかにプライバシー侵害です。その会話の中で侮辱されたからといって、それを公開する事も許されません。個人的な事柄に関する極めてプライベートな会話を公開する事自体がプライバシー侵害になってしまうからです。こうして、プライバシーの範囲の事柄を承諾なく公開するのは、プライバシーの侵害になり、違法となります。

イ また、こうしたプライバシーを侵害して、公開した事自体が争われているような場合にも、公開事件の一部始終の再現、公開は、その事件自体を更に公開する事で、更に被害が反復・拡大しますので、公開の制限が必要となります。プライバシーに関わる問題のおおくはこうした制限が必要でしょう。

ウ 次に、公開自体の適法性が争われているようなケースでは、その事件の公開方法は慎重でなければならないでしょう。事件の公開が、あらたな違法行為・契約違反を構成する危険性があるからです。たとえば、アダルト画像や著作権違反だとされるコンテント、その他内容に問題があるとされるコンテントをHP上で公開した場合で、その公開が契約違反だとか、公序良俗違反として、契約プロバイダからそのHPが削除されたような場合に、それを争う時です。争いを明確にするには、その画像や、削除対象のコンテントを公開したほうがわかりやすいのでしょうが、公開自体が違法であったり、公序良俗違反の危険性があるとわれている以上は、更なる公開は差し控えるべきものでしょう。

エ 非公開合意
当事者でもめている事を公表するという事は、何らかの制限があるのでしょうか。ここでは、「密室協議の合意」「非公開合意」という事が考えられます。

当事者間の交渉が密室(非公開)で行われる事があります。交渉当事者間で、交渉自体を公にしないという合意がある場合などです。公開しない事を前提とする事で、様々な駆け引きや、牽制、条件の打診など、時に予想外の奥の手が出たり、腹芸と呼ばれる解決方法が繰り出されたりします。この時の交渉は、原則として互いに記録を取りません。交渉がまとまるときに、正式な文書にしたりします。この手法は、「オープン」なものとは違う、かなり微妙な解決方法です。従って交渉の段階の交渉内容に関する事項の公開は禁止されるのが一般です。非公開で進めるという合意がある場合に、相手との信頼関係を尊重して、交渉を進める事が必要なのであって、非公開という当事者の合意を尊重することが必要なのです。

しかし、これも絶対ではありません。合意が取れず、交渉が決裂した後は、公開の交渉をしても差し支えありません。問題自体を公開しても一向に差し支えません。ただ、過去の非公開の交渉を暴露するとか、それを理由に攻撃するというのは、問題があります。非公開の合意があったときは、それを尊重するのが基本です。

本件では、そうした非公開合意以前の問題で、そもそも議論がかみ合っておらず、そうした問題解決に向けた信頼関係もない段階ですから、「非公開合意」違反はありません。

しかし、合意自体はなくても、事柄の性格上非公開がふさわしいのか、という疑問があります。プライバシー問題などが多くその範疇に入ります。

さて、問題は本件のような、製品をめぐるトラブルにおいて、こうした非公開がふさわしいのか、という点ですが、不特定多数に販売されている機器類に関する問題であれば公開が基本であり、隠して交渉する問題ではありません。ましてや腹芸でまとめるようなファジー(柔軟な)な事案ではないでしょう。腹芸でまとめても良いのは、プライバシーの侵害にあたるような公開自体を避けるべき問題とか、個々の問題で当事者間の契約問題の解決など、問題の性質上当事者間形に尽きるような問題でしょう。本件のような、大量生産品に関するトラブル問題は、はっきり白黒つけるべきですし、そのための交渉は適正に、紳士的に行われなければなりません。この観点から見ても非公開とする理由は見当たりません。

(4) 録音テープの公開は問題ないのか

今回の事件では、クレーム処理を担当した、総会屋対策を担当する「渉外監理室」(「寄付・賛助行為、団体加入、情報誌購読などの社外団体等への支出行為を監督・管理するための「渉外監理室」」東芝の説明から)http://www.toshiba.co.jp/9711/971117.htmの対応が録音され、公開されています。

こうした電話での会話の録音と公開は、問題はないのでしょうか。

ア まず、プライバシー侵害ではないか、という視点があります。私人間で会話をしたときは、確かに個人的な会話ですから、公開するものではありません。プライベートな事柄に関わるのがほとんどですから、プライバシーを無断で公開したときは違法になります。しかし、本件では、個人同志の私的会話ではありません。いわば会社の機関にいるものが、会社の見解を伝えるというものです。会社としての顧客対応ですから、電話口の担当社員の私用電話でもないのですから、プライバシー問題は一切生じません。更に、主体は、東芝という法人の機関「渉外監理室」担当者としての発言であり、法人としての発言であり、法人の情報に関するものでありますから、その面からもプライバシー問題は生じません。

イ 次に、「傍受」ではないのか、という疑問があるようです。TBSテレビの報道番組「ニュース23」で、筑紫哲也氏は本件の録音テープ公開について「傍受されたもの」だとして、問題点を指摘しました。しかし、「傍受」というのは通信の当事者には告げずに第三者がその通話内容を受信する事(傍らで、受ける)であって、正当な受信者が自ら記録する事は傍受とは言いません。言葉の意味がまったく違いますので、注意が必要です。本件は、適法な受信であり、傍受ではありません。

ウ 相手に言わずに記録(録音)した点に付いて問題はないのでしょうか。電話などによる会話を相手に無断で録音して、その内容が犯罪の証拠となるような場合(脅迫や、誘拐、その他犯罪の告知など)はれを刑事事件の証拠として提出する必要があり、証拠として利用する事にまったく問題がないといわれています。交通取り締まりの際の現場録音を被疑者の知らない間に無断で行ったケースで、その録音テープの証拠能力が問題とされて事案で、裁判所は適法な証拠であると判断しました(最高裁昭和35年3月24日第一小法廷判決)。これは、現場写真や、現場録画のビデオテープなどとまったく同様に考える立場が通説になっている点からも肯定されるでしょう。現在の電話の多くは、録音機能が付いており、録音できるように設計されています。重要な電話はメモが割に録音されるのが一般であり、録音する事自体常識的な事であり、十分予想されていますので、まったく問題ではありません。

エ 公開は正当か

公開は自由でしょう。私はまったく問題ないと考えています。

よく、話の中で、「オフレコで」という断わりを入れてから、話をする事がありますが、その場合は録音を拒否していますので、公表には注意を要します。ただ、そうは言っても、相手に話をしたという事実は消せませんので、その話の内容や、影響によっては、公開される事もあるでしょう。オフレコにしてほしいという意思があっても、それは契約でもなければ、合意でもないので、公開自体を非難する根拠にはなりません。

本件のように、会った事もない、一般の顧客(東芝から見ると問題の顧客なのかもしれませんが)に対して行われた発言は、不特定多数の顧客に対して行われた発言と同じです。同じケースで、同じような交渉であれば、またく同じように回答したのです。したがって、「通常のサポート」ですから、公開して何ら問題はないのです。仮に、技術的に間違えたサポートをしてしまい、直ちにその内容を自ら訂正したときなどは、その間違えたサポート内容を公開し続ける事は、間違えを広める事になるので、差し控えるべき事は言うまでもありません。しかし、今回の問題は、技術的な問題でもなく、公開を差し控える理由は見出せません。むしろ、一般的顧客対応として、このような対応をされて満足かどうか、という問題ですから、公開して検証すべき内容です。

公開されては困る、公開されると営業に悪影響が出る、だから公開を止めてくれ、というのが東芝の考え方でしょう。しかし、これは本末転倒です。悪い対応をしたのですから、悪影響が出るのは、正当なことなのです。よい対応ならよい結果が出ます、悪い対応だから悪い結果なのです。これが常識でしょう。東芝の立場として、こうした対応が正しいといっている限り、公開されても何も言えません。間違えを認め、その間違えた内容を指摘して、訂正し、二度と間違えないという説明があって始めて、公開を中止する事を要求できる立場になるのです。

オ いつまで公開を続けるのか

既に述べたように、公開を停止する必要があるのは、その内容の間違えが正式に訂正され、二度と間違えを起こさないという事が確認できた時点でしょう。訂正という対応がなされた以降は、正しい内容による運営が期待できますから、それ以上公開して世に問う必要がなくなるのです。公開の目的を達したのですから、その時点を境に公開は中止されるべきものになります。

(5) 公開したほうが良いトラブル

次に、むしろ、公開して世の多くの人に知ってもらうべき事件、トラブルというものがあります。これは、むしろ公開すべきことに、社会的利益があるというという性格のものです。

公開して、より多くの人に知ってもらう事が必要な場合を順次挙げます。

ア 訴訟事件

最たるものは、判決です。これはまさに正真正銘の「トラブル」です。しかし、その問題の本質と、解決方法は実に重要で、より多くの人に知ってもらうべきものです。事件当事者としては、公開には耐え難いものがありますが、裁判自体が公開されていることもあり、判決などの公開も適法な行為とされています。(ただ、個人のプライバシー保護の観点から、判決文の中から個人名や、住所などを伏せて公開する事が必要となるでしょう。現在のところ、判例時報をはじめとして、判決文に忠実に修正することなく公開しているのが現実です。)

イ 不特定多数を相手にしている商品・サービスなどのトラブル

大量生産品や不特定多数を相手にしたサービス業務などで、当事者関係を確定できないか、当事者関係が極めて定型的な場合で、トラブルの内容が普遍性を持つような場合には、トラブルの共通性、普遍性の可能性により、公開される事が必要です。こうした場合のトラブルや、事故、サービス内容などに関するトラブルに付いては、その性格上被害が拡大する恐れがあり、欠陥が確定して「リコール」が生じてからでは遅い事があります。問題の指摘は早ければ早いほど良いのであり、問題がないという事態であれば安心して利用してほしいという事になるので、結果としてはマイナスにはならないはずです。もし、疑われる事で損害が発生したとすれば、損害の理由は公表にあるのではなく、その物自体、あるいはサービス自体の問題である事が真の原因でしょう。

以上のように考えますが、公開してはならないものと、公開すべきものの間には、実は様々な問題、トラブルがあるのであって、多くの事案は、公開の可否自体も個別に検討するほかないものと考えます。

本件のような、大量生産品に関するトラブルは、公開しないで解決する事も可能でしょうが、公開してはならないような事項にはあたりませんし、むしろ不特定多数への大量生産品の販売に関するものであり、また、多数の顧客に対する対応の問題なのですから、公開して問題ないと考えます。

(6) 批判するものの方法論

批判するものの本当の狙いというのは、トラブルに見舞われた者が如何に抵抗し、如何に相手に非を認めさせ、納得の行く結論を導くのか、という事です。

(A)最低限の要件

ここで問題となるのは、どのような批判でも良いはずなのですが、その内容によっては、名誉毀損や侮辱になったり、信用毀損となる危険があります。そうした内容の場合には、時として刑事事件にもなり、深刻な事態にもなります。従って、注意が必要です。 本件では、おおよそその危険はなかったのですが、念のため確認しておきます。

行われる批判が、抽象的に社会的名誉を低下させるものであるときは侮辱罪(刑法第231条)にあたり、事実を指摘した上で社会的評価を下げるものであれば名誉毀損罪(同230条)になります。これらは、実際に社会的評価が下がらなくても、抽象的にその危険があれば立派に犯罪となります。抽象的危険犯といわれるものです。

こうした批判が、許されるためには、次の要件が必要とされます。

まず、事実において間違えがない事(事実の真実性)、次に批判が公共性を持っている事(公共性)、そして最終的に求めるものが正当(目的における正当性)、といった三つの点が問題となります。この要件は、事実を指摘してた人を批判した際の、名誉毀損事件における「事実の証明」といわれるものですが、表現の自由の範囲を画すものとしては、重要なものだと思います。この要件を欠く批判は、名誉毀損罪(刑法第230条)を構成します。

このほか、妨害の対象が、業務に関わるものであり、虚偽の内容を利用した場合には信用毀損罪(同233条)に、嫌がらせを伴えば威力業務妨害罪(同234条)などになります。従って、他人を批判するときは、最低限次に述べる要件を満たすだけの証拠や、正当性を守る必要があります。

ア 真実性

批判内容が真実でなければならないというのは、当然の要請です。

この要請を無視しますと、名誉毀損になってしまいます。虚偽の事実や、架空の事実をでっち上げ、まことしやかに喧伝するのは、違法です。

更には摘示する事実は間違えのない、客観的な事実であるだけではなく、立証可能なものであり、その信用性、証明力もまた必要となります。「ガセネタ」のような物、「噂」程度では、この要件を満たさない場合が多いでしょう。表現のプロ(職業的表現者)でも、この点を間違えてしまう事もあるのですから、表現行為の素人である人は、特に注意する事が必要です。思い込みだけではなく、それを支える確実な証拠を握らない限り公開の場での批判はできないのです。

本件では、音声ファイルという証拠がつけられました。その点で、真実性は見事に証明されてしまったので、この要件は十分充たしたという事です。

イ 公共性

事柄が、公共の利益に役立つものと思われる事柄であれば良いのです。多くの人に知ってもらう事が必要な事項はもちろんのこと、多くの人の批判が有益であるという場合でも良いのです。その意味で、もっぱら私人のプライバシーに関わるだけの問題などを除けば、多くのトラブル、特に大量生産の物品製造に関わるようなケースでは、公益性は肯定される事になります。

本件でも、広く一般公衆に対して大量に市販されている、東芝のビデオデッキに関する事柄であり、かつ、その製品の性能に関する苦情への対応、サポート内容に関する事柄であって、多くの人に関係する事柄に属し、多くの批判にさらされるべき内容でもあるので、公益性があること間違えありません。

ウ 目的における正当性

私怨を晴らすといった目的では、正当化されません。あくまでも、社会の関心を喚起して、注意を促し、あるいは是正を求め、公衆の利益を目指すといった目的が主なものでなければなりません。

(B)公表することの意味

トラブルを公表するという事は、様々な問題を公にする事になります。トラブルを発生させた原因や、事態の経緯、関係者の関与の程度、関係者の発言や行動といった様々情報も一緒に公開される事になります。

こうして、各種の情報が公開され、その情報が動かぬものとして掲示されるのですから、公開するという事は、相手を批判し、責任追及すると同時に、みずからが相手方から批判され、追求される事を意味します。その意味で、公開するという事は単に相手にリスクが生じるのではなく、みずからもまったく対等なリスクを負うという事を意味するものなのです。公開するというのは、そうした対等関係を意味するのです。

(C)効果的批判とは

インターネット上には多くの批判内容を掲載したホームページがあります。そして、それらの多くが、一定の反響をえて、効果を上げています。

しかし、中には完全に無視され、まったく相手にされないホームページがあります。 これらの、無視されるホームページの特徴は、批判内容が荒唐無稽なものであったり、単に口汚なくののしっている内容だけであったり、個人的怨念に基づくだけである事が見えてしまうものが多いようです。それらの多くは、客観性を持たず、明確な根拠を示さないのがほとんどです。又、表現内容の批判に対して、まともに回答できない、といったものもあります。こうした無責任な批判は、避けなければなりません。何も生みださないばかりか、反感を抱かせ、無視される事になります。そうなりますと、むきになればなるほど、浮き上がり、説得力を欠き、忘れられるだけになります。

批判するものは、最も効果的に批判し、スマートに問題を処理しなければネットワークの多くの同意は得られません。批判するものは、つねに真摯でなければならないでしょう。では、批判者はどのように行動すべきなのでしょうか。

ア 事実関係は明確にする

まず、批判しようとする者は、事実関係を明確にしなければなりません。トラブルの内容を明確にするためにも、また批判された者との、議論の共通の基盤を設定する必要もあるのです。、多くの場合、この前提ともなる事実関係の食い違いが、トラブルの大きな原因になります。この前提が明確にされる事で、多くの場合に解決の糸口が見えるのです。

イ 争点を明確にする

批判者は、批判する対象を明確にして、何を批判しているか、はっきり分かるように議論しておかなければなりません。現時点で、問題はどのように進行しているか、何が争点なのか、を常に意識し、明確にして、アピールしていかなければならないのです。

ウ 立場を明確にする事

批判者は、みずからの立場を明確にしなければ、共感を得る事はできないでしょう。どのような立場で、何を目指しているのか、誰に訴えているのか、という事です。これは、問題の普遍性を見出して、それを共有するという事なのです。普遍性があるとい事が、見るものの関わりを決める事になるでしょう。読み手が、トラブルを我が事と考えるということが批判が共有されるかどうか、力を得るかどうかにつながるのです。

エ 解決の糸口を見出しておく

トラブルは、いつか必ず解決するものです。できる事ならば、早期に解決するのが両当事者にとって得策です。トラブルを引き伸ばす事、いつまでもごねる事、相手の被害を増やす事を狙う事などは、邪道であり、読み手の大きな共感を得る事はできないでしょう。批判の相手が卑怯であればあるほど、理不尽であればあるほど、解決の糸口の提供、問題の落とし所の提示は、批判を説得的にします。それは何よりも、その提案を無視した相手に対する多くの共感者の怒りを増幅させる事になります。

密室ならばともかく、下手な駆け引きは無用となります。正面から、正当な要求を提示し、妥当な結論を示して解決の道筋を提案するのが必須になるでしょう。

(7) 批判されたものの方法論

批判されたものの取るべき手段はどのようなものとなるでしょうか。

ホームページでの批判を、「企業テロ」などという物騒な見方でとらえようとする見解もあるようです。ホームページの性格や、ネットワークの動きを知らない人々は、未知のものに対する恐怖感から、事態を多分に過大視し、過度に敏感になるようです。

確かにネットワークというのは生き物です。まだその限界が見えないほど、未知のものであり、限界が見えていないものです。しかし、その実、それを支えているのは外ならなぬわれわれなのです。優秀な企業人であり、主婦であり、学生など、この社会の多くの人々そのものなのです。したがって、その動きは、この社会の心の動きに一致しているのです。否、社会の心の動きそのものなのです。その動きは、これまでは目には見えなかったのですが、心電図が心臓の動きを見せてくれるように、社会の心の動きを時事刻刻と反映させてしまうので、一見すると不安定に見えるのです。

あるいは、ネットワークというものが、実体と隔絶した世界を構成しているという錯覚が生じ易いため、社会的経験の少ない人たちはその錯覚の世界で浮遊し、暴走する事もあります。それは、深夜のテレビ放送が守るべきルールを逸脱してしまったり、深夜暴走族が暴走を繰り返すのとよく似ています。そうした病的現象が手に取るように見えてしまう分、ネットワークは不安定になるのです。そうした不安定な状況が、更に次の不安定さを誘発するというような現象を否定し去る事はできません。しかし、その不安定さは、実体のない不安定さ故に、揺り返しが簡単に生じます。時計の振り子のように、左右に振られながらも、実社会の安定の範囲にとどまっているというのが、ネットワークの実体だと思います。

批判されたものは、まずこうしたネットワークの性質をよく理解して、正面から対峙する必要があります。具体的にどのように対処すべきかを検討して見ましょう。

(A)論争は注目度を示す

インターネットの広大な世界で、話題を集める事は実に困難なものです。様々な情報が行き交っており、その中では、どのような情報も多くの同様な情報の中に埋もれてしまうものなのです。よほど変わった情報がない限り、通常のホームページはヒットする事はありません。気の毒なほど見にくる人がいないので、閉鎖に追い込まれるホームページは跡を絶ちません。1年間まったく改定されないホームページも無数にあります。

話題になるというのは、それほど難しい事なのです。今重要視されるのが、誰もが利用する検索エンジンのサイトに広告を出したり、そこで取り扱ってもらう事といわれています。また、ヒットしているサイトにバナーと呼ばれる広告を出す事などです。いずれにしても大変な資金を投入して、見にくる人を確保しようとしています。

多くの人の関心は、どうしても「話題」に集まります。そして、この「話題」は、一日千里を走る、との諺どおり、ネットの中では瞬時に広がります。その広がりが、見事というほかありません。情報が、上流から下流に流れるというのを見事に示しているわけです。本当に難しいのは、こうした話題になる事自体なのですが、その点はなかなか理解されていません。

こうした情報を見にくる人々は、必ず何らかの「リンク」をたどってやってきます。そのリンクは批判者だけではなく、批判されているも者のサイトにはられています。したがって、その批判サイトのヒット数は、通常そのまま批判されたもののヒット数になるはずです。それだけ話題になっているというわけです。

これだけのヒット数を稼ぐのは至難の業です。これだけのヒット率があるのですから、それを有効に使う事ができれば一体どうなるでしょうか。反対に、このヒット数がみな反感を持つとしたら、一体どうなるでしょうか。見にきた人が、共感を持つか、反感を持つか、いずれかだとすれば、そのいずれを取るかによって、批判された企業の好感度は大きく変わってくるでしょう。

(B)誰を相手にするか

問題は、どの批判を相手にし、どれを無視するか、という判断です。正面からきちんと対処して相手にすべき批判者と、完全に無視すべき批判者とがいるようです。その区別を間違えると、大きな失敗を犯す事になります。

まず、無視すべき批判者とはどのような批判者なのでしょうか。

批判者の中には、相手にしてほしくて無用な批判をしている者がいます。有名企業や有名人を標的にして、ヒーロー気取りをしたがる者は大勢います。こうした批判者は、根拠のない批判を行う事で、相手を引き出し、自分の地位を相手と対等にして、その批判者と反批判者の対等関係に乗じて、トラブルを拡大して、自らが有名になる事が狙いです。

こうした目的を持った批判に対しては、徹底した無視が最良の対策となります。この類の批判者は、相手を引きずり出す事が目的ですから、下手に相手をするのは、思うつぼなのです。無視しつづける事で、雲散霧消するのが一般です。

こうした無責任な批判は、インターネットの中でも無視され、淘汰されます。それは現実社会と同様で、そうした無責任な批判は、ネットワークの中でも、ごく自然に淘汰されてしまうのです。ただ、ネットワークの場合、活字だけしか見えないため、本質が見えるのに多少時間がかかる事があります。表現者・批判者の言葉足らずの場合と、身勝手な根拠のない批判との区別が簡単にはできないからです。しかし、ある程度の時間の経過で、その事もネットワークの利用者の理解するところとなります。

極めて例外的に、相手にされないことから自暴自棄になり、暴走する者もいます。こうした暴走、すなわち様々な違法行為の多くは、名誉毀損や、業務妨害行為を構成するものです。したがって、無軌道な批判者の違法な行為の証拠、すなわち名誉毀損や信用毀損を立証できる十分な証拠を取るようにした上で、丁寧に相手に対処します。こうした対処は、通常は警察との連携で行うのが良いでしょう。こうして違法行為を始めた批判者は、もはや批判者ではなく、単なるネットストーカーです。従って、対策(初期的には無視、実生活に侵入してきたときは直ちに警察に通報するという対策)は、ネットストーカーに対する対策と基本的に同様になります。

(C)どのような場合に相手にすべきかの判断はなかなか微妙ですが、正当な批判や、根拠のある批判には耳を傾けなければなりません。批判者の真意を正確に理解する事が第一です。その批判内容を正確に理解できれば、対策も立つはずです。

批判の方法は、様々です。電話での相談やクレームなどもあるでしょうし、メールでの抗議などもあるでしょう。最初からホームページによる批判や攻撃もあるかも知れません。いずれの方法も、購入者や、利用者が何らかの理由でトラブルを抱えたために連絡してきてくれているのですから、まずは、誠意をもって聞き、あるいは注視して、批判内容あるいは依頼内容を正確に理解する事が必要です。先入観念は大変危険です。正確な判断ができなくなるだけでなく、積極的なミスを犯して、火に油を注ぐ事にもなります。結論を急がずに、まず、クレームの正確な内容を理解する事だけに集中する事です。

(D)様々な対応の在り方

こうして、理由のあるクレーム、正当な根拠のある批判に対しては、十分な検討の上、対応策を考え、実施する事になります。ただ、総会屋の場合も、外見上は正当な根拠があるわけですから、この正当性という点では、両者の区別は付かないのです。

クレーム以外の情報を頼りにして、選別しようとする考えもありますが、危険だと思います。そうした情報は正しいとは限りませんし、そのデータが表に出たときに足をすくわれる危険もあります。

原則どおり、丁寧に、冷静に、建設的に対処するという事が最も合理的です。

次に、理由はなく、また、誤解に基づくものの場合ですが、原則的にはその間違えを指摘するだけで良いのですが、その誤解が「一般的な疑問」「多くの人が陥る疑問」であるときは、むしろ、自分のほうに不合理なものがあると考えて、説明の方法を変えるとか、様々な改良のヒントがあるかもしれません。この点も十分な配慮が必要でしょう。

まったく根拠なく又正当な要求と考えられないときは、原則的に無視するという対策が最良でしょう。そして、無視した後、マークしておきます。強硬に接触を求めてくる事もあり、犯罪に走る危険性もあり、いずれの場合にも証拠の保全が必要となります。

(8)第三者の評価を考えて行動する

以上、批判するものの立場から、そして批判されるものの立場から、問題となる点を指摘しましたが、最後に注意すべき点があります。

インターネットでの批判、反批判といった議論は、議論してくる相手だけが問題なのではない、という事です。公開の場で議論していますので、多くの利用者が、アトランダムに見にくるのです。システム上の問題(常時接続ではなくダイアルアップであるなど)もあって、全体を見るという事が困難な場合もあり、一部分だけを見る事にもなります。見るものの理解度は様々です。

こうした利用者、見にくるだけの人にも、十分理解できるように議論を展開するという事が、ネットワークで議論する上で注意してほしい事です。密室での議論は、相手が納得すれば良いのですが、公開されているネット上で多くの人の納得を確保するためには、十分な工夫が必要です。一人よがりの議論や、形式論では納得してもらえません。 必要に応じた、問題の普遍化や、争点の単純化、回答の明確化などの努力が必要です。こうして常に第三者の存在を意識して行動する必要があるという点が、注意すべき問題です。

3 論点2 論争のルール

これまでは、ホームページ上で批判する事、すなわち公開の場で批判する事の意味を検討しました。これは、一方的に批判するという観点から、表現の自由を前提として検討してみたものです。この批判は、相手がインターネットの中で、ホームページなどを持っているか否かに関わらず、批判そのものが自由である事を論証したものです。

次の論ずべき問題は、論争の場の設定の妥当性判断(論争の方法、ツールの妥当性)、すなわち「武器対等か」という点、今一つは、第三者の論争への加担、加入の取り扱いなどの問題です。

(1)場の設定の合理性

インターネットで論争するといっても、様々な場面の設定が可能です。

ニフティなどのフォーラムでの論争があります。又、様々な掲示板や、会議室での論争というものもあります。そして、ホームページでの批判というものがあります。議論をする場所としては、こうした様々な場の設定が可能なのですが、果たしてどのような場の設定が妥当かは大変困難な問題です。

宮本武蔵と佐々木小次郎の戦いが、巌流島で行われたというのは、大変興味深い舞台設定です。両剣客が巌流島に合流した事で、戦いが成立したのですから、「場」の設定が重要だという事がよく分かります。

ネットワークを利用していない人の批判をいくらネットワーク内で行っても、批判は存在し得ても、反論が期待できません。反論が期待できない以上、論争が成立しないのです。批判自体は自由(論点1)ですから、どこで展開しても良いでしょう。違法にわたらない限り、表現の自由で保護されるでしょう。

しかし、きちんとした議論をするのであれば、「場」の設定は不可欠です。

こうして、インターネット上でも、同じフォーラムの中などでは、論争の相手がそのフォーラムにいる、参加できるという事が保障されていますので、論争の「場」の設定ができているので、議論がかみ合う事になります。ところが、批判者がホームページを持っているから、そこで批判したとしても相手がホームページを持っていなければ、リンクの仕様もないですし、反論を要求する事は無理を強いる事になるので、妥当ではありません。議論になるのは、武器平等の原則、すなわち両者が対等なツールを持って、対峙できるときだけです。相手が同様なツールを持っていない限り、批判したとしても、反論ができないのですから、一方的なものになり、議論がかみ合う事がないのです。相手に反論の手段がない以上、その批判は消化不良になり、未成熟のまま終わるほかないのです。

この意味で、相手も利用できる手段を利用する事、相手にきちんとした反論のチャンスを与える事、力量の差があるときは、その差を考慮して対処する事が求められます。ネットワークの利用者は、そうした実質的な平等を敏感に見抜いているようです。

(2)第三者の論争への参加とスタンス

今回の事件でも、多くの方が関心を持ち、それぞれの立場からこの論争に関わりを持ち始めました。そのほとんどは、みずからのホームページでいずれかの立場の人に賛意を表し、みずからの意見を述べるものでした。こうしてみずからの意見表明を行う事も自由にできるのがインターネットの良さです。こうした議論への参加、意見表明は表現の自由の観点からも守られるべきものです。

ところが、こうした論争に対して、卑怯な手段で攻撃をかける者もいます。今回の事件でも発生しましたが、批判対象に対して「嫌がらせメール」「妨害メール」などを送り付ける行為、大量の批判メールを集中させて相手の混乱を狙うといった「メール爆弾攻撃」など、幼稚園児の喧嘩以下の低レベルの嫌がらせが起きました(http://member.nifty.ne.jp/AKKY/index.htmhttp://member.nifty.ne.jp/AKKY/heisa.htm )。こうした妨害行為は、生活妨害であり、民法上の不法行為に該当するもので、ネットストーカーの行う嫌がらせ同様、差し止め仮処分の対象になり、また損害賠償の対象にもなります。

また、あろう事か、違法なプライバシー侵害行為も公然と行われていたようです。

「どなたかにお送りしたメールが、どういう訳か掲示板に貼り込んであるのを知った時は、本当に愕然としました。それも、宛名の方はきれいに消してあって、私の方だけ個人情報が載っている形だったので、単なるミスで漏れたとも思えませんでした。」(「閉鎖の挨拶」から引用)

こうした私信の公開は、プライバシーに関わるものの無断公開ですから、プライバシー権を侵害する違法なものです。これも、差し止め仮処分の対象になり、また損害賠償の対象です。

4 論点3 報道の自由、取材活動の自由・・・新しい形を求めて・・・

残念な事に、今回の騒動でのマスコミ各社の奔走ぶりはすさまじいものでした。批判した会社員のところにも、夜討ち朝駆けのように、連日の取材攻勢があったという事が会社員のホームページ閉鎖の一因に数えられています。

こうしたマスメディアの集中的な取材方法は自粛される必要があり、取材活動自体を整理して、本人に負担をかけないような配慮が必要であったと思います。そうした配慮すなわち人権への思いやりがまったくできないマスメディアは、インターネットのあり方を心配する前に、みずからの将来を心配したほうが良いでしょう。

マスメディアが、こうした行動に出た背景にはうなづける部分があります。これまでマスメディアは一番早く事件を追う者でした。また、世論というのは、マスメディアが大きく関わり、大きな影響を与えてきました。少なくとも、様々な報道が、世論形成の為の主要な情報を与えてくれています。こうしたこれまでのシステムは極めて強固なものに見えていました。

ところが、この事件ではインターネットというプライベートメディアが。既存のメディアを大きくリードしてしまった訳です。インターネットが独自のメディアとして、事件を発見し、それを情報として広く報道したのです。その威力はすさまじいもので、ついにマスコミが無視できなくなったというわけです。この事件で、マスメディアの役割が大きく変容してしまうかもしれません。メディアをメディアが追うという事態になるかもしれません。マスメディアは、当初懐疑的にこの問題を追いかけていったと思います。しかし、追えば追うほど、燎原にひろがる野火のように四方八方に広がっていくのに驚愕したに違いありません。

私は、ここに新しいメディア、インターネットというプライベートメディアの可能性を見出しています。今後の世論形成に大きな役割を果たす事になるだろう新しいメディアだと思います。そして、マスメディアは、こうしたプライベートメディアに対して、相互依存を強めながら、プライベートメディアにはない特性(組織的取材、専門的見地からの分析と取材、正しい解決方向の示唆、無軌道への批判など)を発揮する事ができれば、それなりの主導的役割をになう事になると思います。

5 デジタル時代のデータ問題

最後に、一番気になっている問題があります。

今回の問題でもっともインパクトが強く、話題の中心になった、録音テープの問題です。批判の正当性の中でも述べましたが、こうした動かぬ証拠が最も重要なものであり、それが主張の正当性を裏付けます。こうした証拠が正しいものである事は主張の大前提でもあります。いわば、正しい事が命なのです。

今回は、この録音内容に付いて特段の指摘はありませんでしたから、両当事者が確認できたのであり、間違えないものと考えて良いのですが、今後の問題として、常に正しいものか、という事になれば、心配ものこります。

こうした証拠が命の場合に、偽造されたり、繋ぎあわせられ、加工されたりしたのでは証拠としての適正さを欠く事になります。常に、その適正さを確認できるようなシステムが必要となります。証拠自体の保護、保障の制度があれば一番良いと思います。そうでなくても、公表したものが原本のテープと同一であるといった証明を出せるような証明システムがあっても良いでしょう。混乱や、意味のない疑惑を回避するためのそのような第三者機関があったほうが良い事は明らかだと思います。

今後のデジタル情報時代では、そうした内容の問題にも心砕いておきたいと思います。


(資料)

声明文


インデックス(TOP)へ LOGO