東武啓志線:幻の光が丘直通列車

概要と廃線までの経緯

東武啓志線は東武東上線上板橋駅より分岐し、旧陸軍第一造兵廠練馬倉庫(現陸上自衛隊練馬駐屯地)を経て、グラントハイツ(現光が丘団地)に至る延長6.3キロメートルの軍用側線である。当初この側線は練馬倉庫までの2.8キロメートルであったが、終戦後旧陸軍成増飛行場跡に米軍が進駐、専用住宅のグラントハイツ建設の為、延長を命じられ、1946年(昭和21年)3月敷設された。終点には啓志駅(ケーシー駅)が設けられた。線名の啓志は地名ではなく、当時のグラントハイツの統治者ヒュー・ケーシー(Hugh John Casey)少将の名を取って付けられたという。ハイツ完成後には貨物輸送は大幅に減少したが、池袋、啓志間にほぼ30分間隔で進駐軍専用のガソリンカーが旅客輸送を行った。1959年(昭和34年)進駐軍撤退をうけて啓志線は全線廃止となった。

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敷設ルートをたどる

本線からの分岐点ははっきりと特定できなかったが現在の上板橋駅より川越方面におよそメートルほどの最初の踏切(傍らにミニストップがある踏切)あたりから左に緩やかなカーブを描きながら分岐し、東武マンション前(あるいは敷地内)を通り、川越街道へ向かっていたものと思われます。川越街道はトヨタオート店横を斜めに横切り、右にカーブ、自衛隊練馬駐屯地内へ入っていきます。駐屯地内はほぼまっすぐにとおっていました。延長以前はここが終点でした。

駐屯地を抜けてからは左にカーブ、田柄川(現田柄緑道)を横切ったらそのまま田柄川の北側50メートルくらいを平行して走っていたようです。終点ではヤード状に複線化し、ケーシー駅ホームは田柄高校付近にあったようです。


遺構

おそらくほとんど強制的に土地収用され、敷設された線路は、その後に訪れる高度性長期の急速な宅地化の中、自らの生い立ちを拭い去ろうとするかの如くその姿を消していき、今では全くと言っていいほどその姿を留めてはいない。1978年(昭和56年)頃まではケーシー駅プラットホームが田柄高校北側に残っていたようだが、それも現在では全く残っていない。遺構と呼べるものは今回自分が調べた限りでははっきりとは特定できなかった。畑の中にわずかに築堤の名残を残すのみとなっている。

その歴史的経緯から啓志線が廃止消滅したのはごく当然の結果であったと思える。しかしながら、今日の光が丘団地の繁栄と都心へのアクセスの便を考えるとき、もし啓志線が現存していたならとの想いを描くのは私だけだろうか。


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参考文献:
東武鉄道六十五年史/東武鉄道株式会社 昭和39年 発行
練馬区史現勢編/練馬区史編纂協議会/東京都練馬区/昭和56年発行
練馬を往く/練馬区教育委員会/昭和58年日発行
レイルマガジン/’90・2(No85)
レイルマガジン/’91・4(No90)
ゼンリン住宅地図/板橋区
ゼンリン住宅地図/練馬区


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