絶体絶命日記 2007.5.1-31 スペクトルの月9日 5月10日 霊山寺 極楽寺 金泉寺 大日寺 地蔵寺 安楽寺 十楽寺 熊谷寺 法輪寺 切幡寺 5月3,4,5,6と徳島を歩いた。 四国お遍路だ。 当初6日で周るつもりだったが、授業が休めず、4日間で回ることにした。一日40kmで四日間. 今年に入って1月館山、2月東京、3月荒川、4月かすみがうらと走っているので足に問題は無いと思った。 問題は野宿だ。 修行だから宿には泊まらない。 供養の遍路だから楽はできない。 だから野宿。 そして野宿なんかしたことは無い。 これが不安の種だった。 2日夜、8時半の新幹線で岡山に向かう。 高松に1時半。 ここで問題発生。 5時半の徳島行きの電車までの4時間、てっきり駅の待合室で仮眠でもできるかと思っていた。エアマット、シェラフと持っていたので、どこか隅っこで寝られる思っていた。 ところが駅員は出てください。だった。 皆さん駅の近くのコンビニで時間をつぶしています、と言われた. そんなもんかなと思った。 どう見たって、菅笠と杖を持っている。白衣は着ていないが、間違いなくお遍路さんだ。 駅にはお接待の気持ちは無いようだ。 それにしても4時間も立ってられない。それより初日から寝不足では後が続かない。 それがどこか寝られるところをと駅を出た。 とはいえそう簡単に寝袋を出せるところなど無いし、金剛杖を持ったままうろうろするのも恥ずかしい。 どっか駐車場の隅っこでもと思ったが、寝過ごして朝動いた車にひかれて死亡と新聞に乗るのもいやだし、雑居ビルの階段の踊り場というのも、酔ったあとのいつものパターンと同じで、遍路の旅にはふさわしくないしと、うろうろしていたが、すぐ近くに、高松城あと公園というきれいな公園があり、そこの植え込みの蔭でエアマットを敷き、寝袋に入ることにした。 初めての野宿だ。 すぐそばを車が通り、時折暴走族もやかましく通り過ぎていく。 まさか公園にやってくるとは思わなかったが、来て、カツアゲでもされたら情けないことになるなと心配し、財布は植え込みの中の落ち葉の下に隠した。 初めての外での寝袋。 星が見える。 いい感じ。 最初の野宿は3時間、腕時計のアラームで予定通り起き,駅に向かった。 3時間の間に星が動いていた。 駅へ向かう途中すぐ横に海があり、高松とは港だったことを初めて知った。そういえば途中瀬戸大橋を渡ったはずだった。暗くてわからなかった。うかつだった。 その日は大きな満月だった。 坂東に着いたのは、7時半。 1番寺、霊山寺から始める。 とはいえ普通に街中だ。 人もいない。 霊山寺は山門に下品なマネキンを置き、そこでお遍路グッズを売っていた。 修行の旅、発心の場の一番最初に、マネキンに菅笠かぶせてどうすんだ。 情けないスタートだった。 まずは、杖を置く。杖置き場を探す。次に手を洗い、口をゆすぎ、鐘を鳴らし、納め札を納め、 ろうそくに火をともし、線香をたき、お賽銭を入れ、般若心経を読む。 鐘を鳴らすのが恥ずかしい。省略。納め札には日にちを入れてないので、ごそごそとボールペンを取り出し、書き込み、箱に入れる。次にろうそくに火をつけるのだが、つけて入れるのか、入れてつけるのがわからなく、しばしほかの人を見るが、みんな火をつけて中にさしているのでそうする。次の線香もつけたろうそくの火でつけるのか、どっかにある親火でつけるのか迷ったが、自分のでみんなつけているのでそうした。 次にお賽銭。あらかじめ航か入れに入れてある5円玉1枚をそっと入れる。 そして邪魔にならないよう右によって、般若心経。 これは家でずいぶんと練習し、覚悟はつけていたので、そこそこの声の大きさで一人唱え始めた。 と思ったら、いきなり背後から大オーケストラでお経が始まった。 団体さんだ。 これが元気のいいおばちゃんに率いられている一団で、しかも慣れている。声も大きいし、 調子もいいし、鈴の音もいい感じで入るし、実に堂々としている。あっという間にぼくの声は飲み込まれ、それはそれでホットもするが、腹も立って、3倍ほど音量を上げて対抗する。と言ってもぜんぜん太刀打ちできず、それをそれでまあいっかとリラックスし最初の般若心経は読めた。 だが、どうも順番がわからない。一度上まで上って、鐘を突き札を納め、お賽銭、降りて、灯明、線香、上がって、読経。 階段を上ったり降りたりするのだ。 大体みんな、下で、灯明、線香、上がって、鐘を突いて、札を納め、お賽銭を上げて、読経している。 行ったり来たりの人もいるし、かなりいい加減なのだ。 四国お遍路ガイドブックには、人の家を訪問するのと同じだとみんな書いてあった。 ピンポーン、と鐘を突く。私こういうものですと名刺を渡す。納め札だ。次にお土産を渡す。お賽銭。供物だ。そして灯明、お線香、読経。 納得はできる。 だが階段の行ったりきたりが腑に落ちない。 もっとすっとできるよう、灯明場と、線香を立てる場所を変えたほうがいいのではないかと思ったのだが。 このあとこの団体とは8番寺まで一緒に行くことになる。大体最初は寺と寺の間は近く、バスも歩きも変わらない。 正直やかましかった。 寺に関西の団体は似合わない。 5月11日。 スペクトルの月10日。 藤井寺 霊山寺から切幡寺まではほとんど市街地で、しかも寺と寺との間も近く、歩いていて問題は無い。 剣道の横の細い遍路道を歩いていくのだ。 その道がとても可愛い。小さな花が点々と咲き、くねくねと曲がり、ちょっとしたのぼり、ちょっとしたくだりが続き、飽きない。 ちょうどいい散歩道なのだ。 ただあちこちに小さな墓が並んでいる。 四国全体はわからないが、徳島では墓がとにかく目立った。 目立つところに墓が並んでいる。 玄関の横、通り沿い、田んぼの横、あちこちにあり、しかもそれぞれが大きなスペースをもらっている。千葉であれば、汚れてはがれて、苔むした小さな墓は、林の奥や丘の上の奥にびっしりと並ばされていて、忘れ去られている。 徳島ではそうではない。 きれいに洗われていて、自分の周囲にも自分と同じ広さの空間を持っていて、ゆったりのんびりとしている。 ただどれも台座は新しい。 下に打たれているコンクリートも古くは無い。といってもおそらくは4.50年は経っていると思う。 だがお墓のほうは100年、いや江戸時代というのもざらにある。 きっとどっかの時代にいっせいに古い墓を引っ張り出し、洗い、きれいにし、台座を作り、コンクリートを敷き、並べたのだろう。 それがいつで何のためなのかはわからないが、あちこちにある堂々と並ぶ墓たちは村や町、街の空間に特別な風景をかもし出している。 死だ。 苔むし、石のはがれた墓は、間違いなく死を主張している。しかも普通にある墓地の墓のようにぴかぴかに磨き上げられ、鋭角的に左右対称にデザインされた人工的なものではなく、かしぎ、はがれ、へこみ、ゆがんで、いる。墓も老いているのだ。 今の墓に老いは無い。 だから死も感じられない。 徳島の墓には老いと死が感じられ、それが今の生を思わせようとする。 思わせようとするのだ。 人間なかなか老いと死から生を思うことはできない。 だからしっかり今ここを生きようともなかなか思えない。 そこが人間の弱いところだ。 だから千葉から徳島まで来なくてはならなくなる。 修行、と言ったって、一日40km、4日間野宿しながら、歩いたからといって修行にも何にもなりはしない。 滝に打たれようが、山にこもろうが関係ない。全く関係ないのだ。 修行の場とは、会社員なら会社だ。学生なら教室だ。ぼくなら子供たちが来る教室だ。 そこで契約を取ったり、勉強したり、友達をつきあったり、やってきた子供たちに自信を持たせやる気を起こさせ、わからなかったところをわからせ、元気にして帰して上げることが修行なのだ。 人から離れての苦行は自己満足でしかない。 楽をしようとしての苦行なのだ。 逃避だ。 南無大師遍照金剛と大声を上げる場所は人と人との間でなのだ。 そんなことを考えながら藤井寺を目指した。 藤井寺から焼山寺が難所と言われている。遍路ころがしと呼ばれている。 だからまずは藤井寺まで行こうと思った。 難所前だから宿もあると思った。 ところが無い。 食べ物屋も無いのだ。 普通に家だけ。ほんと家しかない。 コンビニは3kmほどはなれている国道沿いにある。だが歩いていると3kmというのは遠い。 走れば10分ほどだが、リュックをしょって、菅笠、金剛杖では走れない。走ってもいいが、これは歩きのスタイルだ。歩きお遍路は走っては行けない。なぜだかそう思った。 まだ5時で明るいので、こうなればそれこそどっかの家の庇を借りての野宿、と覚悟を決める。そうなれば時間はいくらでもある。 とりあえず、小さな町民会館の駐車場を見つけていた。駐車場には大きな屋根が張り出ていて、端っこの駐輪場に寝袋が置ける。それに会館は閉まっていて、両側は田んぼ。 そのままごろりとなっても問題はなさそうな場所だった。 それで藤井寺に向かった。 これがまたややこしい道で、しかも家の庭をつっきたりする。 着いた寺は古びていて、いい感じだった。だいぶ暗くなる中で白装束の団体さんがいて、般若心経を読み終えたあと、いっせいに引き上げていく。 寺の人ももういず、あっという間に森閑となった。 寺のお守りなんかもそのまま外に出したままで、どれかもって帰ろうかと思ったがさすがにそれはできなかった。 だれもいない暗く古い寺はさすがに不思議な感じがする。本堂の木彫りの模様が薄暗闇に浮かび、さらに先ほどの白装束の残像が目に残っていて、ぐるりとぼくの回りの空間がほんの少し回ったような気がして、ふっと小さく深呼吸をした。 ほんの少しぼくの中の何かがどこかに行って帰って来たような気がした。 本堂の隣に焼山寺へ向かう階段があった。 異空間への小さな出入り口のように見えた。 そんな気ができる場所なので古い寺の夜は面白い。 スペクトルの月11日。 5月12日。 燃山寺 大日寺 常楽寺 国分寺 観音寺 ところが知らぬ間に暗くなっていて、見つけておいた町民会館が見つからない。 絶好の野宿ポイントだと思っていたのにあせってきた。 そんな時いきなり道の底からどうしました?と声がかかった。 一瞬ビクッとしきょろきょろしてしまったが、目の前の家の門で草むしりをしている男の人からの声だった。 「今から焼山寺はきついですよ。」 丁寧で静かな声だ。 黒い影がゆっくりと立つとぼくより2,30センチは背の高い男だったが、街灯の中の顔は穏やかなニコニコ顔のおじさんだ。 「野宿しようと思っているんですが、どこかいい場所はありませんか。火は使いませんし、明日は6時には出ます。どっか寝袋を敷いていい場所って…。」 そう聞いてみた。 そしたらうれしい返事が帰ってきたのだ。 「すぐそこに歩きお遍路さんの宿がありますよ。たぶん安く泊めてくれるはずです。」そう言うとぼくにわかりやすく説明するためか、ぼくに背を向け、まず、「ここを真っ直ぐいきます。」といって両手を一度引いてどっと前に押し出す。「石油スタンドを右に曲がります。」といって、大きく右手を真上に上げて右にさっとおろす。同時に体を大きく右に傾ける。 「そして10分歩けば、明るい看板が出てます。大きな丸い看板です。」と言って両手で大きな円を描く。ぐるっと大きな円を描く。ぼくに背を向けたままだ。 かなり珍しい道の教え方だったが、進行方向を同じにしてくれているのでわかりやすかった。 だが目の前の大きな背中が右に左に動き、最後ぐるりを大きく回ったのは面白かった。 「鴨の湯」という小さな市営の温泉がすぐに見つかった。だが宿泊施設は見当たらない。小さな円形の銭湯で、大勢の人がやってきては入っていき入り口には自動販売機があり大人、子供、老人、お遍路、と見えるが、泊まりに関する文字はどこにも無い。駐車場には入りうろうろしていると呼び止められた。 「泊まりかね?」えらくニコニコしたおじさんだ。だがどうやらここの人らしい。「聞いてきてみ。まだぎりぎり大丈夫のはずだ。泊まりたいんだけどって言ってみるといい。」 良く見てみると駐車場の奥に温泉場に急遽引っ付けたというような小屋が3つある。その前にベンチがあって、今しがた風呂から上がったばかりといった若いもんと60過ぎの男の人がニコニコこちらを見ている。 「詰めれば6人は寝れるけ、聞いてきてみ」 良くわからなかったが、入り口を入り受付で泊めていただきたいんですが、と言ってみた。 すると中年のおばさんがノートを見て一二三四五と数え始めた。 「狭いですけどいいですか。」 とても申し訳なさそうに小さな声で恐縮して言ってくれる。 「ええかまいません。」 暗い中野宿ポイント探す気力は無かった。問題はいくらかだ。 「おいくらですか。」 「それは結構です。でも布団はありません。寝袋はお持ちですか。」 これが「善根宿」と呼ばれるものなのだ。 ただで畳と屋根を提供してくる。 なるほど、これはありがたい。 暗くなり疲れきり金の持ち合わせもそれほど無い者にとって、これはかなりじ〜〜んとありがたい。 実際小屋といっては申し訳ないが、しかしまあ小屋だ。 中に入ると天井から壁から一センチの隙間もなく納め札が貼ってある。気持ちはわかる。 確かにありがたい。 先客が色々と聞いてくる。60過ぎのおじさんはやたら口が軽く、しかし一息つくと、でもやる事ないもんナ。定年でそのあとやる事なくてお遍路よ。暇でさあ。 そのあとまた新しくやってくるお遍路に声をかける。 実際7時近くになっていたが次々と歩き遍路がやってくるのだ。 テントを背負っているのが半数いる。 みんなここを知っているようだ。半数は別の小屋へと移動して行く。 手製の手押し車に3段4段5段と荷物を重ねごろごろ押しながらやってくるおじいさんもいる。 それにしても風呂だ。 汗みどろだ。 このままで寝る事はできない。しかしここは温泉。しかも天然の温泉で効用もズラリ書かれている。本格的なのだ。 実に初日からついていた。 このあとじっくり湯につかり、洗濯をし、ゆっくりと眠るはずだったが、こんな時の常で、 他の5人のいびきを最後まで聞き、蚊に刺され、もしかしたらゼノールがかゆみに効くのではとそのたびに塗り、結局効かないことを確認し、3時過ぎにようやく眠る事ができた。 相部屋でいびきをかかない人と一緒になった事は一度もない。 それにしても5人のうち3人は死にそうないびきをかいていた。途中で息が止まりしばらく無音になり一気に吐き出すのだ。体が震えている。 そんな中、心静めて眠りに入ろうとするのはそれだけでもたいへんな修行だ。 だが、そんな彼らでも起きる前の2,3時間は静かに眠る事をぼくは知っているし、その2,3時間はぼくも疲れていて起きていられず眠ることができるので、怒りで震える事などないのだ。 隣はベルギー人だった。 スペクトルの月14日 5月13日 井戸寺 恩山寺 立江寺 鶴林寺 それにしてもありがとう『鴨の湯』だった。 朝はみんな早い。 3人はもう出て行った。2人はまだ寝ている。 5時。 ぼくとしては食事をしてトイレをしっかりしておかなくてはならないのだ。 少なくとも3回は出しておかなくてはならない。 大体お遍路道と言っても市街地が多い。野糞などできないのだ。 コンビニもない。 公園もない。 普通の町並み、広がる田んぼ、昔のお遍路道も周囲には家が並ぶ。 だが今日は12km、ずっと山の中でその件に関しては不安はない。 藤井寺から焼山寺までの12kmが四国お遍路道の中で最初で最大の難所らしい。 普通の足で6時間。健脚で4時間と書いてあった。しかしぼくは半月前にフルマラソンを3時間1分で走っている。しかもここ7年連続して富士登山競走に参加しているのだ。もちろん時間内完走はなく、したがって一度も「完走」はした事はない。だがあと1分で時間内完走まで行った男なのだ。(あのときの悔しさときたら。目の前で時間内にゴールしたやつがうずくまって泣いていた。蹴っ飛ばしてやろうかと思った。しかし)女もじいちゃんばあちゃんもするお遍路。たいした事はない。そう思い藤井寺に向かった。 早朝の藤井寺。だれもいない。 鴨の湯にはごろごろと歩き遍路がいたが、考えて見たら20人もいなかった。そのうち半数はまだ寝ているし、考えて見たら全員がここを歩くわけでもないのだろう。歩きとバスや電車利用のお遍路もいる。 そうなると今ここを歩くいているのは5,6人ということになる。少し心配になる。 焼山寺への遍路道にはいる。 いきなり四国八十八ヵ所の本尊の石仏が登り道に沿ってずらりと並ぶ。これは壮観だ。 なぜここでずらりと並ぶのか。 これからの苦行を応援してくれるのか。しっかりと見届けてくれるとでもいうのか。しかしやはりこうまで並ばれると気合が入る。よっしゃという気になる。 石仏たちが途絶えたところから登りに入った。 これはなかなかの登り道だった。 ちょうど富士登山競走の3合目から5合目の登り坂に似ている。富士山ほどではないが、結構きつい。ところが、なのだ。 ぜんぜん疲れない。足ががんがん動く。いやむしろすたすたどんどん、何と風を切って登っていく感じなのだ。これは何だ。どうしたのだ俺は。ここは山で、しかも四国最大の遍路ころがしなのだぞ。それがこの速さは何だ。止まらない、止まらない。かっぱえびせん状態なのだ。 笑い出したくなる。 ためしに南無大師遍照金剛と言ってみる。呼吸も乱れない。南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛と唱え続ける。 いや〜〜〜〜、しかし謎は解けたのだ。 杖だ。杖なのだ。 街中ではさほど気が付かなかったが、山に入ると良くわかる。杖だと3本足になる。それでバランスが断然良くなる。もともと山道はアナもあり突起もあり大きな石、岩、硬い道ぬかるみ道、と何でもありだ。その中を早足で登って行こうとすると一歩一歩で前に後ろに横に斜めにと揺れが続く。それを修正するために筋肉が使われる。それで足が疲れ、速度が落ちる。ところがそのアンバランスの修正を付けでうまく行っていけばとにかく疲れない。平気なのだ。 杖は大きく使う。大きく前に出し気持ち大きく横に出し、着地時間を長めにする。 その間、杖を付いたまま腕を前後左右に揺らしバランスをとる。 これで足の負担がどんどん減っていく。 楽なのだ。 これは大きな発見だった。 とにかく疲れない。体が真っ直ぐに前へ前へと出て行く。 実に快適で、うれしくなってしまう。 大声で南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛と叫んでしまう。 ほとんど登り道を走っているのだ。 まあお遍路では杖はお大師様、すなわち弘法大師、空海上人そのものらしく、杖には同行二人とかいてある。 お大師様が力をつけてくれたと考えたほうがいいのだが、理論的にはそういう事だろう。 結局3時間ちょっとで目的の大日寺に着き、時間が余ってた(朝は6時半出発、そして5時まで歩く。と決めていた)ので足を伸ばし、常楽寺、立江寺、国分寺、観音寺と打った。打ったとは参ったということらしい。昔は参詣した証に木の札を寺の壁に釘で打ち、そこから寺への参詣を打つというようになった。 そういえば各お寺で納経帳に寺の名の朱印や墨守をしてもらうのをすっかり忘れていた。 お参りの手順や読経でドキドキしていて忘れていたのだ。 だがそうはいっても実際団体さんがどっといて、あれでは納経に30分はかかり、歩き遍路には時間の無駄になる。スタンプラリーではないのだからあんなものはいらない。とは思ったが、そうなるとお遍路の証明が何もなく、それも寂しい。途中途中、心配する母親に写メールを送ったが、電池切れが怖くて一日2,3枚しか送らなかった。しかしその写真でもここに載せておこう。でないとちょっと寂しい。あまりいい写真はない。やはり1日40kmで4日間は厳しく写真の余裕はなかったのだ。 持ち物は気を使った。歩き遍路は荷物は5kgとガイドブックにあったので、極力持ち物は減らした。エアーマット、寝袋、ポンチョ、パンツ、シャツ、靴下各2組。あとは般若心経手ぬぐい、ゼノール、ティッシュ10個。 まず寝袋をどうするか迷った。5月だ。暑いのではないか。ポンチョにくるまって寝ても大丈夫だ。寒いときは冬用のシャツを着る。そのほうが寝袋より軽い。 だが結局は寝袋はもって行く事にした。寒くて眠れないことあるのが怖かったのだ。 下着は洗濯をするから各1組でいいと思ったが、予備にもう一つ持った。 ウンコをもらしたら大変だからだ。実際毎日の午前中のトレーニングでは週に2回はばたばた林や茂みの中に駆け込んでいるのだ。朝早くから歩くとなるとどうなるかわからない。 パンツは必需品だ。(だが結局はトイレはいつもの半分も行かなかった。緊張しているのと、前夜の夕食は7時とか8時なので十分消化してしまうのだろう。普段は食事は夜の11時前後。そうなると寝るまでに1,2時間しかなく、それが原因で次の日の午前中何回もトイレに行く事になるのだと思っている。 だが結局は呼びの下着が役に立った。3日目は雨の中1日歩き、干しても乾かなかったのだ。) それから小物。洗濯物を干すためのロープ。靴下とTシャツは歩きながらリュックにつるして乾かすのでそのための安全ピン。 ペンライト3個。これも色々考えた。百金にはランタンや、ヘッドランプもあり、2週間前から夜使って見てどれくらい持つか実験してみた。けっこう持つ。4日間の旅なら問題ない。 ただちょっと思いのだ。といって、150グラムとかそんなもんだ。だがガイドブックでは10グラム単位で持ち物チェックリストがある。そしてたいがいの歩き遍路は3日目の午前中にはリュックの中身を宅急便で自宅に送り返すとかいてあった。 それで結局ペンライトにした。5,6センチの小さいやつだ。単4電池1本。それをしかし3本買った。そして電池も3本。 しかしこれは最終日の廃校での野宿で大いに役に立ったのだ。 あと輪ゴム、バンドエイド、テープ、消毒液、メンタム、歯磨きセット。防虫スプレー。 だがこのスプレーは最後にもって行くのをやめた。200gし、重いと感じたのだ。だが結局初日の蚊攻撃に会い、2日目の朝コンビニで買うことになった。だがあってよかった。普通コンビニで防虫スプレーはあまりないだろう。 あとは納経帳。これはA4サイズで八十八カ所のスタンプが押せるものででかい。しかもこれはけっきょく使わなかった。 そして地図。これもガイドブックの中にあったもので、そのままもって行くと本2冊分になるので、地図部分だけをコピーした。 あとは納め札、60枚(23のお寺を回るので本堂と大師堂各1枚+お接待を受けたときのお礼用。)ろうそく、60本、線香150本(これは3本ずつ上げるので)。ライター(これも百金でライト付。これも最終日助かったものだ。) そしてお賽銭。これは5円玉を50枚。あとは現金3万。 これはもしもの事を考えて。 泊まり代やらタクシー代やら、帰りのバスに乗り遅れてしまった時用とか、色々考えた。 現金は持たないほうがいい、どんな田舎でも郵便局はあるので、郵便局のキャッシュカードをもって行くのがいいと書いてあったので、急遽郵便局に3万を入れキャッシュカードをもって行く事にしたのだが、なんでも連休中はATMのシステムをどうとかこうとかするとかいって使えなくなると新聞に出ていたので、またすぐおろしにいった。 実際市街地には郵便局はあったが、歩き遍路の昔の道を通るとさすがに郵便局には出会わず、手持ちのほうが良かった。 そして最後まで考えたのは護身のためのナイフとか武器。 実際3000円出して通販で3段スライド式の護身棒を買った。硬いやつだ。ところがこれが重くて太くて大きい。400gあり、縮めても16cm。それで依然買った先端に鍵をつけそれを振り回すというマメタンにしようかともったがやめた。 結局武器が敵を呼ぶのだ。 そんなものを持っているからそれに引き寄せられて敵が生まれる。 たとえ何かあっても覚悟を決めての素手にする。 そう決めた。 結局は6kg丁度となったが、さほど重いとも感じなかった。なんせこちとらは、フル3時間、7年連続富士登山競走に出ているのだ。ガイドブック対象の一般人とは違うのだ。 そして実際そう思う。 最初の善根宿・鴨の湯で霊山寺から藤井寺まで来たといったらみんな驚いてた。それは2日分だと言われた。あんた何かやってるの?と聞かれて、趣味でマラソン、月に300km走っているといったらみんななんだそれじゃ当然だ。なるほどなるほど、たいしたもんね。すごいすごい、と今度は簡単に納得されてしまった。 これが善根宿「鴨の湯」。出発前の6時半。 これはけっこう驚いた。焼山寺近く、一本杉庵に立つお大師様だ。けっこう急な階段でうつむきながら歩きそろそろかなと顔を上げるといきなり「よっ」という感じで立っている。近づいてよく見るとあまりいいつくりではなく(表情が大雑把で、つるんとしている。)それで遠くからでもおっさん風で、「よっ」って感じなのだ。 さて、観音寺まで一気に来てしまった。 ここで泊まりをどうするか。 うろうろしているとまたありがたい事に声がかかる。 今度はおじいちゃんだ。 「遍路さんどうしたね。」 「野宿したいんですけどこか、軒下を貸してくれるところありませんか。」 「う〜ン。神社なら雨風大丈夫だろう。観音寺の向かいにある神社。わしも氏子じゃけ。」 という事で観音寺に戻った。 むかいに小さな神社があった。お堂には鍵がかかっている。確かにすぐ隣の家と軒は接していて、完全屋根状態になっている。下はコンクリートで草や茂みもなく、虫も大丈夫のようだ。冷えるだろうが、エアーマットがあるから大丈夫。通りに面しているが、車はもうこの時点でほとんど走っていない。 ここだな。 と思い、あとは水道なのだ。汗だくの体を何とかしないとどうにもならない。 そこで観音寺にいって手水場の水を借りる事にした。 ひしゃくで頭に何度も水をかける。 般若心経手ぬぐいで体を拭く。 また頭に水をかける。 「輪袈裟とらなあかんけ。」 突然おばあちゃんの声。 確かに袈裟がびちょびちょ。 信心の足りなさを見抜かれたかと思ったが、別に怒っている風でもなく、ニコニコしている。 「今晩そこの神社の横で寝袋敷かせてもらいます。火は使いませんから。」 こういうことは必ず言うようにとガイドブックに書いている。 「栄さんに行けばええ。あそこはお遍路さん泊めてくれるけ。」 「えっ?」 またまた善根宿なのだ。 これはしかしかなりついている。連続無料宿泊はそうはないだろう。だがまたいびきと蚊か。 しかしやはり野宿よりいい。 言われたとおり国道を目指すと受けてつかはれ阿波の人情とある。 タクシー会社の2階を開放しているのだ。親父さんが出てきて、今3人来てるけど、どう寝るかは相談して。布団も枕もあとで持ってく。トイレは向こう。風呂はここ。」 だっと一気に話すとすたすた奥に引っ込んでしまった。素っ気ない。後姿にありがとうございますと大きな声で言う。 風呂があるのだ。 お風呂お風呂。 それがありがたい。 パンパンに張っている足には風呂が一番なのだ。しかし昨日は温泉、今日も風呂。 これでは修行にならないと思ったが、しかしこれも日頃の行いが良いからなのだろう。ご褒美だ。 階段を登るとすでに3人、一人はさっき観音寺で一緒だった人だ。本格的アウトドアという感じで頭にバンダナ、サングラスにあごひげ。60位か、かっこいいのだ。般若心経だって朗々と唱えた。結局この人もここを教えられたのだろう。しかももう寝袋の中に入って目を閉じている。寝ている姿もかっこいい。 かっこいい人は何をしてもかっこいいのだ。 もう一人はそろそろおじいちゃんという所。野球帽を斜めにかぶっている。 テレビを付け出す。 野球だよ野球。 野球は巨人。昔の巨人。王に長島堀内に森。土井に広岡柴田に高田に、あれ、あと一人だれだっけ。 国松。教えて上げた。 国松国松、知ってるね。これよこれ。 それが今じゃ生え抜きがいないだろ。他所から取ってくるだけ。だめだよそれじゃ。 育てろよ。 こっちも育てたいのよ。それがファンの楽しみよ。 なあ、にいちゃん。 ごろんと部屋の真ん中に寝転がってテレビを見だした。ボリュームを上げた。 かっこいい人はそれでも平気で体勢を崩さず目を閉じている。 まあまだ7時だし、文句も言えないだろう。 とにかくぼくは風呂だ。 あと一人はまだ10代だろう。高校生とか中退したとか、中卒で働いているとかやめたとか、フリーターとか、だが静かにちょこんと座ってじっとしている。目が会うと丁寧に頭を下げる。 ぼくはとにかく風呂支度。その前にすぐに明日発てるよう準備をする。洗濯するものと、石鹸シャンプー明日の下着を出し、ろうそく線香納め札地図の確認、寝袋を出し寝場所を確保、それらを割りとてぱきとすらすらと行う。昨日1日だけのお遍路体験だが、それなりに動ける。奥でじっと座っている青年にこっちはもう何回も周っているベテランのお遍路だというような顔をする。気持ちいい。 だがとにかく風呂だ。 階段を下りる。 洗面所には忘れ物なのか、歯ブラシや石鹸やシャンプーが散らばっている。戸を開けると風呂に湯が入っていない。入っていてもどうせどろどろのお湯だろうから、シャワーで十分。 すぐに蛇口をひねる。 熱いお湯が出てくる。張った筋肉がとけてあああああああああああ〜〜〜〜〜と叫んでしまう。 これよこれ。 お風呂お風呂。 シャワーを浴びながら靴下とパンツとシャツを洗う。別に汚れてはいない、汗を流し出せばいいのだから、シャワーを浴び頭を洗い体を洗っている間、足で何回も踏みつける。それで十分だ。 新しいシャツとパンツに替える。昼間リュックにくくりつけ乾かしておいたものだ。 新しく洗ったものはガレージに張ってある紐にかけた。 これも忘れ物かパンツが2枚、端と端にかけられたままだ。 飯だ。 朝食や昼食は前日買っておいたパンや、ウイダーインゼリー、お饅頭を歩きながら食べる。食堂には入らない。時間がもったいないのだ。歩きながら食べる。一日40km、4日間ができるかどうかがわからないので、できるだけ距離をとっておきたいのだ。特に最終日は、徳島に戻る電車が6時42分。次が8時2分と大きく離れている。 初日徳島駅に近づいたとき、足を伸ばし徳島駅に行き、バスの発着所を確認した。8時2分の電車だと徳島着は9時44分で、バスは10時10分発、駅についてうろうろしたくなかったからだ。だがもし電車の遅れがあればうろうろしなくてもバスには乗れなくなる。 できれば6時42分の電車で戻りたかった。だがそうなると相当飛ばさなくてはならなくなる。薬王寺についたらそのまま日和佐駅に直行という感じなのだ。できれば8時2分。そうすれば風呂に入れる。 薬王寺の近くには温泉があり、徳島発心の場を終えゆっくりと汗を流して、帰路につきたい。 さて飯だ。 ラーメンだ。こってりしたラーメン。そしてビールと餃子。 ビールもありだろう。 国道沿いでけっこう店はあった。 ラーメン屋もあり、思い通りの餃子にビールだ。 新聞を見る。 徳島新聞だ。 いきなり「お遍路、迷子」とあった。 最終日に周る鶴林寺、太龍寺間で、お遍路3人が迷子になり、ヘリコプターで救助されたという。 そんな山中でもなく、一日こらえたって良いと思うが、情けないお遍路だ。しかも大げさにヘリコプターときた。気をつけよう。 こんなときには珍しく、いびきはなく虫も出なかった。 ぐっすり眠れた。 5時予定通り目が覚めた。 かっこいい団塊世代のおじさんはもういない。 野球のおじさんは野球帽のまま眠っている。 青年は真っ直ぐな姿勢で、まるで死体のようだ。 ぼくはまたてきぱきと荷物をまとめ、下で朝食をとる。 食べながらストレッチや柔軟体操をする。 素人はこれを忘れる。 お遍路だって体にとってみれば立派というかかなりつらいスポーツだ。 歩く前のアップと歩いた後のダウンは絶対に必要なのだ。 6時半スタート。 それまでにトイレをしっかりする。 青年が降りてきた。 丁寧に頭を下げると歩き出した。 意外と体はでかく、歩く後姿は堂々としていた。 おやっと思い、しばらく後姿を追った。振り向いてまた静かにお辞儀をするかとも思ったが、そんな事はなく、そのままやがて見えなくなった。 今日もいい天気だ。ありがたい。 スペクトルの月15日。 5月14日。 井戸寺 恩山寺 立江寺 鶴林寺 四国、5月5日。 2日の夜出発し、3日、4日、と歩き、今日が5日。明日は薬王寺まで歩き、阿波はそれで終わりとなり高速バスであさってはもう新宿。 あっという間だ。 なにしにここに来たのだろう、何を学んで帰るのだろう。お遍路になって何が変わるのだろう。 だがいいのだ。そんな事は。 どうせこの大型連休行くところもする事もないし、会う人もいない。 いいマラソンのトレーニングにはなるし、人から連休どうしたのと聞かれ、実はちょっと徳島でお遍路を、と答えるのもちょっといい感じだし、という程度なのだ。 だがそんな事はどうでもいい。 良いも悪いもない。 した事もない事をこうしてしたというだけで、十分だ。 何の意味がある、こんなことして何になる? いつもいつもこんな問いに取り巻かれる。 そして空しくなるのだ。 だが一切が空。だろ? 般若心経。 細かな事をつついて意味があるないと問い詰めて行く事の愚を言っているのだろう。 大きく引いてみて、全てに意味はない。完全に全くかけらも意味はない。 巨大な(でもない。大きさというものがないのだから)、空のみがある。 無限に続くエネルギーの流れ。その中でたまたま地球という空間で、平成という時間に、人間という形を取り、生きている。 それ以上のことはない。 いかにそのエネルギーの流れを感じ、その流れの中を流れるか。 どれだけその流れを身と心と頭の中に流すか。 意味はその後についてくる。 その前に意味を考えるから、おかしくなる。 依般若波羅蜜多故 遠離一切転倒夢想 だろう、きっと。 ここから一度街へと戻る。 遍路ころがしのような山中から都会へと帰るのだ。 実際味気ない。普通に徳島の街を歩く。 周りにお遍路はいなく、鈴を鳴らして菅笠をつけ、金剛杖をついて歩くのは恥ずかしい。 それに第一風景的におかしい。ガラスに映る自分の姿は何かの間違いで別の空間に放り込まれた間違った存在のように見え、しかし実際この菅笠を取り、杖を置いてもその事に変わりはなく、その分ほっと安心もできる。 どっちにしてもお遍路なのだ。人間は。 人生お遍路。 徳島駅による。 バスの発着所を確認する。 確認できた。これで最終日は8時の電車。歩きはぎりぎり7時まで可能だ。 あとは帰りの電車が遅れないことを祈る。今からそんな事を心配する事もないか。 延々と国道を歩く。 何も面白くない。どこにでもある国道だ。 ビュンビュントラックも通り、全国どこにでもある、大型スーパー、寿司や、ラーメン屋、ガソリンスタンド、洋服店、コンビニ、まだ朝なのでほとんどが閉まっている。 いい加減うんざりする。 実に日常なのだ。 遍路ころがしのような非日常性がない。 となると、遍路ころがしもちょっとハードなアスレチックなのだろう。 帰って行くところがあるから、お遍路もちょっとハードなハイキングと変わらない。 恩山寺、立江寺、ここから県道に入る。道は狭くなり、周りは田んぼに変わる。 前方に小型のバンが止まっていて、おじいちゃんが後ろの扉を開け、箱を取り出し、その中に手を入れた。けっこうカーブのところで、後ろからやってくる自動車はその車を大きく曲がり避けて追い越す。 危ないなと思う。 なにやってんだと思う。 近づくとおじいちゃんの前に2人、お遍路がいる。 どうやらその二人に何かを渡しているようだ。 お接待だ。 これは聞いていた。ガイドブックにも書いてあった。四国の人はお遍路に会うとお接待ということで、お結びを渡したり、お茶を出したり、みかんを出したり、お饅頭を出したりしてくれる。中には現金を渡す人もいるという。 これは要するに同行二人、一緒に歩いている弘法大師に対する信仰で、歩いている人に対してではない。だからこちらに断る理由はない。お大師さんの代わりにありがたく受け取るのだ。 ぼくも初日二日と歩いていて、お接待はされなかったが、すれ違う人の半分以上の人から、「頑張ってください。」「ありがとうございます。」「お気をつけて。」と声はかけられた。特にありがとうございます。は最初良くわからなかった。しかし、自分が周りたいのに周れない人、お寺に行きたいのに行けない人としては、お大師さんを目の前に呼んでくれた人としてお遍路は見えるのだろう。それでありがとうとなるのだ。 だが本格的にお接待を受ける、つまり物をもらったり、お茶を呼ばれたりなどされるのはいやだなと思っていた。 いい、おせっかいなのだ。 と思ったのだ。 大体、人が嫌いだから、人付き合いが苦手だから、大型連休にもかかわらず、四国にお遍路などしに来るのだ。そこへお接待だと? 勘弁してくれ。 そんな感じなのだ。 とはいえ、すでに究極のお接待、善根宿にすでに連泊している。 えらそうなことはいえない。というかありがたいなと思っている。 おじいちゃんは前の二人に缶コーヒーを箱から取り出し渡している。ぼくを見つけると最後の缶コーヒーを取り出した。 そして実にこれがありがたいのだ。 のどは渇いているし、みるとビターだの微糖などというのではない甘いコーヒーだ。体は甘い物をほしがっている。 ありがたい。 ぼくは早速納め札を出す。 前の二人もごそごそ始めた。 ぼくのほうが先なのがうれしい。 こんな時は納め札を渡し礼をする。ガイドブックに書いてあった。南無大師遍照金剛を3回唱えるとあるが、さすがにそれはできなかった。「千葉から参りました。ありがたく頂戴します。」そう言ってもらい、歩き始める。 あっさりしていていい。 後ろに姿に感謝を込める。 このあと山道に「お遍路さんへ。どうぞもっていってください。」と書いて、八朔が10個ほど置いてあった。 これも3つとって、だれもいなかったので、南無大師遍照金剛を大きく3回唱え、貪り食った。 同じように書かれた札の下に湧き水を貯めた大きなつぼと、柄杓が置いてあった。これも冷たく体にしみ、頭からかぶり、生き返った。 またパンを買った店では340円が300円になり、別のコンビニでパンを買っていると、おばあちゃんが「お接待です。」といって、こんにゃくゼリーをくれた。 後ろから追い抜いていく中学生の女の子、男の子が、「頑張ってくださ〜〜い」といって追い抜いていく。 もちろんそうでない人もいる。 菅笠に金剛杖、百衣の人は確かに外部の人であり、よそ者だ。それを嫌う人がいても不思議はない。 であれば半数以上の人がお接待の声をかけるというのは、一つの特別な地方文化なのだろう。 実際善根宿などなければ、この旅もぜんぜん違ったものになっていたはずだ。 長々と県道は続く。 前方に歩き遍路が見える。 大きな菅笠、長い金剛杖。ゆらゆらと体が揺れている。上は百衣だが、下はジャージ。サンダルを履いている。だが後姿は堂々としていて、迫力がある。 ゆっくり左右に揺れ方が怖い。 初日にも実はこんな人がいた。 追い抜くとき顔を見ると、5.60歳で顔は浅黒く、どてっとブルドックみたいに皮膚はたれ、目は鋭いがどんよりとしていて、酒びたりかな、肝臓壊してるだろうなという感じで、怖い。髪は短く刈ってあり、まあ、893関係の人のようだった。 腹もぼってとしていて、好きなもん食って、一日じっとしてんだろうな、という感じで、とど、とかゾウアザラシのような感じだった。どしてお遍路なのという感じなのだ。 目の前の人もそんな感じ。 体を左右に揺らしゆっくりと歩いている。 あの長い杖が本格的でかっこいい。 普通にわれわれ初心者は手にしないものだ。 杖はかなり長いのだが、ちょうど体にあっている。でかいのだ。左右に揺れるからだに迫力がある。 うまく追い抜けるか心配になった。 ゆっくりと鳴る低く響く鈴の音。 こっちはちゃらちゃらとせわしく軽い。 「お先に失礼します。」そう言ってすっと前に出る。 「暑いな。」 「暑いですね。」 「いらいらしてくる。」 「ええ。」 「自動販売機がないんや。」 「そういえばありませんね。ちょっと前まではずっとあったのに。」 「のど渇くのはかなわん。」 「これどうぞ。」 ぼくはさっとさっきもらった缶コーヒーを渡す。 「こらすまんな。」 迫力のお遍路は歩きながら一気に飲み干す。 「ぬるいがうまい。おおきにや。これお礼や。」 そう言って、ジャージのポケットからするめの袋を取り出し、差し出した。 「いただきます。」 ぼくはもらい1本だけ口にいれた。 これはこれでうまい。 飲み干した缶コーヒーをぽんと隣に流れている川に投げ込む。 躊躇がない。 「兄ちゃんどっからや?」 「千葉からです。」 「えらいな。」 「わし広島や。」 広島。 「供養の遍路や。」 供養。 「3回目や。少しも慣れん。年々しんどなる。年や。兄ちゃんいくつや。」 「52です。」 「こらすまん。わし48や。失礼した。堪忍や。わこ見えるな。」 「苦労がないんで。」 「はは、そらないやろ。人それぞれしんどいもんしょっとるもんや。」 「まあ」 「最後までしょってくしかない。どうせしょうなら、しっかりしょわなあかん。」 ゆっくりと左右に揺れる体に合わせて、ゆっくりと話す。 「暑いな。去年より暑い。」 「あかん。わし少し休むわ。兄ちゃん先行って、コーヒーうまかったわ。」 ぼくはお先に失礼します。お気をつけてと言って先に出た。 広島で、供養とくれば普通は親分子分の供養が思い浮かぶ。 短絡的な。 小指はあったか。 実はなかったのだ。 つるんとしてた。 すごいよな。 しょってるものが違う。 業というか。 こっちは何もない。 何もしょってない。 しょう物がない虚しさを背負ってるようなものだ。 嘘っぱち。 お遍路には周らざるをえない追い詰められた、切羽詰ったがけっぷちの人もいる。 当然だ。 それがそもそものお遍路だ。 藤井寺から燃山寺に向かう前半の遍路ころがしを終えたあたりで、二人組のお遍路にあった。逆打ちだ。四国を左回りに、讃岐から阿波に向かうことを逆打ちというらしい。 先を歩いていたのは30前の青年で若々しく、全身白装束で菅笠、金剛杖の完全武装。そしてそのすぐ後ろに同じ白装束の60近くの女の人が続いていた。 驚いた。 簡単な道ではない。しかも60近くの女性だ。この道は1本道で、藤井寺に行きつくしか終わりはない。まだ昼前だったから、日が沈む前にはつくかもしれないが、それには例えば青年が女性をおんぶするとか、抱きかかえるかしないと通れない、登れない個所が何箇所もある。 それこそ何のためになのだ、だった。 親子なのだろう。 父親がいなければ、父親の供養なのかもしれない。 逆に周ると会いたい人に会えるという。 ほんとに俺みたいにチャラチャ回っているのは恥ずかしい。 情けない。情けない。 県道は続く。 鶴林寺までは近い。 そろそろ今日の泊まり場所を考えなくてはならない。 連続して阿波の人の人情に触れた。風呂に入っている。そろそろここらで本格的な野宿をしなければ話しの種にならない。そんな気もする。 地図には鶴林寺を越えたところに小学校跡とある。そのすぐ先には遍路小屋のマークがある。 このどちらかが候補に挙がる。 だが小学校跡は避けたい。なんせ、「学校の怪談」がある。そんなところには泊まれない。当然だ。となれば遍路小屋。だが鶴林寺前には民宿があり寺には宿坊もある。これもありかもしれない。 考えどころだ。 鶴林寺への標識が見えた。 ここからも遍路ころがしとあった。 だが道は舗装されている。山の中へ踏み込んでいく雰囲気はない。 だがここからがけっこうきつかった。 一気に登り切る急坂が続いたのだ。 鶴林寺へは一気に500メートル登る。 その坂がかなり急なのだ。 だがよく舗装されている。 道の左側は階段になっていて、右半分はそのままの斜面になっている。つまり好きな方を歩いてくれということだろう。 しかし急だ。一気に汗が噴出す。 「こんちは。」 いきなり近距離頭上から言われた。 驚いて顔を上げると、これで3回目の兄ちゃんだ。 白装束に頭は白手ぬぐい、やせて長身で口の回りにはぐるりとひげ。「じゃあ」といって、坂を駆け下りていく。 あっという間だ。 軽快で飄々としていて、一瞬なのだ。 1回目は焼山寺に向かう途中のお遍路道から出たばかりの舗装道路。 「ここ真っ直ぐ行くとどこ行きます?」 折りたたみの小さな自転車を立ちこぎしながら聞いてきた。こちらに向かっているので逆打ちをしているのか。けっこうな坂だが、ぐんぐん近づいてくる。 「そこ入ると遍路道。」 「自転車で上がれます?」 「ちょっと無理。」 「かつぎか。ども。」 そう言って、遍路道に入っていった。 つぎはたらたらと県道を歩いているとき、『こんちは。』といって、うしろからあっという間に前へ消えていたった。細いからだが真っ直ぐに立ち、右に左にリズミカルに揺れながらかなりのスピードで小さくなっていく。 そして3回目。 普通こうは会わないだろう。 同じ時期に出発したとしても、こっちは歩きでむこうは自転車だ。 前から後ろから突然現れ、消えていく。どういうコースで歩いているのかわからない。 といって、こちらが疲れ果ててしゃがみこんでいるときに助けに来てくれるとわけでもない。普通に歩いている時に、でも突然現れて消えていくのだ。 ふふふ、と笑ってしまう感じ。 軽々と飄々と。 業をしょったおっさんとは正反対の何もしょってない風のような兄ちゃん。 色々なものを見せてくれる四国お遍路。 ようやく鶴林寺についた。 本堂に上がる前に宿坊があった。 宿坊も良いだろう。朝は勤行がある。これもいい経験になる。今夜はここだ。とひそかに野宿なしを喜び、しかしちょっと後ろめたくも思いながら行ってみると「休館」とある。 休館? 地図にはそんな事は書いてない。 だがとりあえず参拝だ。 時刻は5時をすぎていて、坊さんがもえかすのろうそくをこそぎ落としている。 ろうそくを立てていいか聞いてみると、2段目にしてくれと言われる。 線香、納め札、お賽銭、般若心経。 坊さんの前で読むのだ。緊張する。寺には他にだれもいない。 しかしここまで来れば逆に腹も座る。 どうせ見た目で素人だとはわかる。かっこつけてもしょうがない。 となるとけっこううまく読めた。 「お上手ですな。」 とでも言われるかと思ったがごしごしと燃えカスをそいでいる。 「今日のお泊りは?」 坊さんが聞いた。 「宿坊はやってないんですか?」 「はい、4年前からやってません。皆さん地図を見てやってくるんですが、やってません。それで皆さん、この先の小学校で野宿しているようです。水もトイレもあるようで。」 決まりだ。 今夜は廃校になった小学校での野宿。 ちゃんとこういう風になっているのだ。 今夜は廃校になった小学校で野宿。 いい話の種ができた。 まだ6時前なので明るい。 小学校は家の近くにあった。笑い声が聞こえる。ほっとした。何かあっても逃げ込める。 先客がいた。 大学生くらいか、伸ばした髪を輪ゴムで止め、まるぶちのめがね、まばらなひげ、丸顔で優しそうな目。 「ども」 挨拶をしてきた。 「夜は雨のようです。」 体育館の横の水飲み場のある、ひさしの張り出したところに寝袋をおいている。運動所に面したところだ。 一番いい所。 紐を張って洗濯物が干されている。けっこう広いスペースだが大きく場所を使っていて、余地はない。 「明日はなんていってました?」聞いてみた。 「一日雨のようです。」 ついに雨の中のお遍路だ。 「じゃあ、ぼくは奥で寝ますので。ども」 「ども」 ぼくは体育館脇を通った。 渡り廊下がT の字にあり、左右に30メートルほど伸び行き止まりになっている。一方には机やいすが積み上げられ斜めにかしいでいる。逆に行ってみた。校舎への入り口があり、廊下はきれいだ。入り口の横に決める。 マットを敷き、寝袋をおく。洗濯物と乾いたシャツとパンツと靴下を出し、パンとお茶を並べる。防虫スプレーとペンライトを出す。 まずは洗濯だ。そして体を拭き着替え。そのあと食事。 7時には寝れる態勢になる。うまく寝れるか。 マットに横になってみる。 左には小さな中庭があり、小さな石碑が見える。 「元気に、はつらつと。未来に向けて。」とある。 草がぼうぼうとはえている。そしてその向こうに校舎が広がる。どの窓にも白いカーテンがかかっている。 右側は校舎への入り口があるが、手を伸ばしてあけようとするが、もちろん鍵がかかっている。足元の先の教室には窓から跳び箱が見える。 この教室のどこかの窓が壊れていて、風が吹くたびにフュロロロロロロロ−-−ガシャガシャ〜〜と鳴り響く。夜はいやだろうな。と思う。 立ち上がる。 まずは洗濯だ。 10メートルほど歩くと右側が開ける。 小さな池がある。そしてそこにやっぱりあった。 何かがあるのだ。廃校には。 池のほとりに銅像があった。 表面が全て削げ落ちていて、のっぺらぼうだ。粗い灰色のセメントだけになっていて、しかも中はがらんどうになっている。座ってひざに本を置き、その本に静かに目を注いでいる、そんな姿勢がかろうじてわかる。体の輪郭を作るセメントの表面部分だけが残っているのだ。 銅像とはこんなつくりをするのだろうか。 時が立てばこんな形になるのだろうか。 写真に撮ろうと思ったが、とりついてきそうで取れない。 これはまずい。 しかもほぼ等身大だ。 暗い池のそばにじっと佇んでいる。 とにかく洗濯だ。 水のみ場にはさっきの青年がじっと本に目を向けている。 思索的でさまになっている。 きっと密教の勉強をしているに違いない。 軽く会釈して洗濯を始める。汚れてはいないので水に流しながらぎゅっぎゅっと何回かもめば終わり。シャツとパンツと靴下で5分で終わり。 まだ外は明るい。 運動場をぐるりと回ってみることにした。 正面には傾いたテントがあり、まだ机といすが残っている。行ってみると大きなカレンダーが中央にかかっていて、2005年5月の欄が見える。そんなに昔ではないのだ。何かの大会があり15名の参加者の名前が書いてある。大会が何なのかわからないが、名前には丸がしてあり、優勝候補!、とか、最下位!とか書いてある。 フレンドリィな大会なのだろう。 そんなカレンダーも下半分は破れていて、風にひらひらしている。 へこんだボール、固まった石灰がへばりついているライン引き、ポール立がひっくりかえって隅に転がっている。 廊下の端の交差している細いパイプに紐をかけ、洗濯物を干す。 食事だ。 食事はカレーパンとおまんじゅう。 おまんじゅうは一口の小さいやつでそれが大きな袋に20個入っている。甘いものが食べたいのだ。 洗濯も食事もあっという間に終わった。ほりこんだだけだ。 7時を少し過ぎただけでまだ明るい。 この明るいうちに寝て、夜中から明るくなるまで起きているのはどうだろうと考える。いい考えだと思う。 横になって目を閉じてみる。 目を開ける。 まだ明るい。 もう一度目を閉じてみる。 しばらくそのままでいる。 眠れる気配はない。 しかしあと1時間もすれば暗くなり、寝るしかなくなるのだ。 それまでは起きて明日の地図でも見ておくことにする。 風が出てきた。 今まだ聞こえていた破れた窓の音とは別に後ろのほうからからからからから何かが回る音が聞こえだす。 ひゅう〜〜〜〜〜という風の音が上から落ちてくる。ぼくが寝ている場所は高さの違う校舎と体育館で四方を囲まれている場所で、そのせいで風が舞って落ちてくる、たぶん。 何かいよいよという感じがしてきた。 役者はそろっているのだ。 スペクトルの月18日 5月19日 8時を過ぎるとさすがにもう真っ暗だ。 遠くから聞こえる笑い声は近くの家のものだ。 それに4,50m先には若いもんもいる。 別に何も問題はない。 ぼくは寝る準備に入る。 野宿とはいえ四方を建物に囲まれているから風はここまでは来ない。 かえるの声が聞こえる。 ゲロゲロゲロゲロかえるの合唱だ。あの小さな池のかえるたちだろう。 突然、ギイイイイイイイイイイイイイイーーーーーーー と異様な音が響き渡る。 四方の校舎の壁に響き渡る。 思わず寝袋のまま上体を起こしてしまう。 ギイイイイイイイイ カァァァァァァ ガシガシガシガシガシ ギギギギギギ カァァァァギギギーーーーー 食用蛙だ。 と思おうとする。 なんとも不規則で声がかすれ、割れ、でかい。 ウゴウゴウゴウゴグオ ゴゴゴゴゴゴ ギギギギ カァアァァァァーーーーーーーーー いったい何なんだ。この鳴き方は。 普通あるだろ、鳴き方のリズムやメロディというものが。 それが全くなく、自棄のような、投げやりというか、鳴きっぱなしというか、ありあまるエネルギーをどうにもできずとにかく吐き出しているというか、その場限りというか、聞いていて悲しくなる。 そして最後は長く尾を引く。 誰かを呼んでいるわけでもない。何かを訴えているわけでもない。鳴き方も知らず、どうしようもないまま声を張り上げている。 恨みや敵意や憎悪があるわけでもなく、そうせざるを得ないからどうしようもなく鳴いている。 飽きず鳴き続ける。 朝までこうなのだろうか。 目を校舎に向ける。 これはまずかった。 いくつものカーテンのかかっている窓。 だがところどころ隙間がある。 そこに目が向いてしまうが、これはいけない。その隙間にはじっとこちらを見つめる少女がいるのだ。 ただじっとこちらを見つめるだけの。 これはいけない。 視線をぼかす。 体を横にしようとするが、できない。背中に誰かが抱きついてくる。 体は真っ直ぐ真上を見ることにする。 雨だ。 と思ったらいきなり風が強まり、あっという間に大きな音を立てて雨が降り始めた。 どこかがトタンになっていてほとんどバリバリという感じで音を立てる。 その中に負けじとギイイイイイイイーーーーーーガシガシガシガシガシギイイイイイイイーーーー と音が割り込む。 廊下を5,6人の子供たちがかけていく。 まずい。 聞こえてしまった。 別の何かの音なのだ。風と雨と雨が何かに当たる音。それを子供たちが廊下を駆け抜ける音と聞いてしまってはいけない。 落ち着くのだ。 ぼくは寝袋から両手を出す。 ペンライトをつけた。 大きく丸く薄い円が向かいの教室の壁に浮かび上がる。 これはぼくが今つけた明かりの輪だ。 消してみる。 消える。 またつけてみる。 すぐ近くでごろごろごろごろと音とを立てて何かが落ちていく。続けて反対側で水が流れバシャーーとコンクリートに落ちる音が響く。 これはつまり、廃校でもう排水の設備も働いていず、雨が溜まり一気に流れ、その際屋根に落ちていた何かを一緒に流してしまった音なのだろう。 正面の窓のカーテンがゆらりと揺れた。 これは窓のガラスがどこか割れていて、あるいは長年ほっといたせいでどこかに隙間ができ、そこから入った風でカーテンが揺れたのだろう。 決して少女が面白がってカーテンを揺らしているのではない。 目は閉じられない。 開けた時目の前にがらんどうのセメント少年が本を持ったままぼくを覗き込んでいる。 ペンライトの明かりを見る。 これはこのままつけっ放しにしておくことにする。 ありがたいことにペンライトは3つあり、予備の電池も2本ある。 雨はさらに強くなる。 校舎への入り口のガラスががたっと音を立てた。 ライトを向ける。 右にさっといくつもの影が動いた。 雨はさらに強くなっている。 廊下の屋根は幅広く、雨は振り込んではこない。だが中庭にはだいぶ水が溜まってきているようだ。調べなくてはならない。ぼくは寝袋から出る。 ライトを3本同時につける。 5cmほどの小さなライトだが中庭全体が浮かび上がる。 ぼくは同行二人の菅笠を足元に置き、金剛杖を握った。 これで完璧だ。 びびることはない。 それにすぐそこに同じお遍路の青年がいるのだ。何かあれば呼べばいい。 丸いめがねの気の弱そうな青年。 こんな時この小学校に野宿するお遍路を専門に狙う狂気の変質者。 寝袋にくるまっている無抵抗のお遍路を硬く太い棒で何度もたたき気を失わせ、そのまま校舎の中の理科の実験室へずるずる引きずっていく。アルコールランプの揺れる小さな光の中、小さなメスで何度も皮膚を縦に横に切り裂いていく。血がスーと流れていく。幾度も幾度も赤い細い線が交差する。 少しずつ意識が薄らいでいく。 力を込め目を開けた。 このまま寝入りこんでしまうと必ず金縛りに会う。 金縛りにはよく会うのだ。 上半身を起こす。 冗談じゃない。 いくら初めての野宿、それも少年少女たちの怨念渦巻く廃校だからとはいえ、ここまで怯えることはないだろう。 しっかりしろ。 両手でしっかりと金剛杖を握り、2度3度と素振りをする。 たかだが寝るだけでびびり過ぎる。 つけていた3本のペンライトを消した。 腕時計のライトをつける。 1時半。 雨は降り続き、風もおさまらない。食用蛙は相変わらず切なくやかましく鳴き続け、溜まった雨がほぼ定期的に何回も大きな音を立てて一気に流れ落ちる。 状況は変わっていないが、眠ることにした。 夜だ。眠るのだ。 疲れていたのか、それでも3時間ほど眠った。 時計を見ると5時近い。 起きていい時刻だ。日は昇っていないのだが、白々と、中庭のぼうぼうと生える草々が見えている。 少しずつ明るくなっていく。雨は小降りになっている。風はおさまった。かえるは相変わらずだ。不細工に鳴いている。雌を呼んでいるのだろうがあれでは寄ってはこない。その悲しさに泣いているのだ。きっと。 横になって中庭を見る。少しずつ明るくなっていく世界を見ているのはうれしい。 5時。 起きることにした。 初めての雨の中のお遍路だ。 昨日と同じ食事を取る。パンとおまんじゅう。 明るくなればいつもと同じ世界だ。 池のそばのセメントがらんどう読書少年に挨拶をして出て行く。 5月21日。 薬王寺。 5月6日。最終日だ。今日中に23番寺薬王寺に着かなくてはならない。 確か21番寺の太龍寺から平等寺に行く途中で、「お遍路迷子」があったはずだ。気をつけて歩くことにする。 だが、別にどうということはなかった。いったいどこで迷子になったのかわからない。 地図にない近道を考えたのだろう。 大体今回一番心配だったのは地図だった。距離感はあるが方向感覚がない。それで地図を1週間前からじっと見つめ、できれば覚えようと思っていた。覚えられはしなかったが大体は入った。 だがそれも必要のないことだった。 昔のお遍路道には全てほぼ完璧な赤い小さなお遍路シールが各道路の張って張り、それに従っていけば地図は入らなかったのだ。 これはかなりすごいものだった。 遍路ころがしの急は山中の坂道では、うるさいと思うほどに5メートルごとに頑張れ、負けるなとか南無大師遍照金剛とか、人生お遍路とか同行二人とか書いた短冊が木の枝にぶら下がっていたり木の幹に張ってあったりする。 それはそれで疲れているときにはありがたい。 また山から抜け、国道、県道、一般道になると道はややこしくなる。どっちなんだ右か左か、というところには必ず小さな赤いお遍路シールが張ってあるのだ。 これはほぼ100%の確率で張ってある。だからそんな分岐点となる道を抜けてシールが5分歩いてない場合は、道を誤ったと考えたほうが良く、実際戻って逆を見るとシールがあるのだ。 またシールの貼ってある位置が絶妙なのだ。 長いだらだらとした坂道で、道が分かれているなぁと思った時そのままの足元に落ちている視線のその先にシールが張ってある。ガードレールの下のほうに張ってあるのだ。歩きながら自然と目に入る。 これは木の札。小さなシールは5cm四方のものだ。 だらだらと平坦な道にいい加減飽き、遠くにああ道が分かれているなあと思い、分かれ道に来て汗をぬぐい空を仰ぐと、道路わきの電柱のその高めに上げた視線の中にあったりする。 えっと思う。 大体は目の高さに張ってあるが、ときに必要以上に低かったり高かったり、だがそれはそれでその道を歩いているお遍路の気持ちと体調とにぴったりと合っていて、驚いてしまう。 雨は降り続いている。だが菅笠とポンチョで気にはならない。 国道55号線。 ここは評判が悪い。 普通の国道で遍路道という感じはなく、しかも長いトンネルがあり、そのトンネルに歩道はなく、しかもトラックが排気ガスを撒き散らしながら突っ走っていく。 実際最初のトンネルがそうだった。だからガイドブックに従い途中から55号からは別れ海沿いの道を行くことに決めていた。距離的にはあまり変わらない。 前方から老人のお遍路が近づいてくる。 顔中真っ白なひげだらけ。70はこえているだろう.大きな台車をゆっくり押している。大きくまっ黒な菅笠一つ。長い合羽が揺れている。まるで山頭火だ。 台車にはテントや衣類やその他ごちゃごちゃと詰め込んだ袋が積み重ねてある。ホームレスという感じもする。下駄だ。 「兄さん、この先休めるところあるかね、疲れたわ。しんどい、しんどい。」 ふーとため息をつき、こちらを恨めしげに見つめる。 何か関わりたくないなと思ってしまう。 「この先1`くらい先に、道路沿いにあずまやがあります。雨はしのげます。」 「そっかそっか。しんどおてな。年やで。」 「では。」 ぼくはさっさとその場を立ち去ってしまう。 だめだな、と思う。 関わりたくない、だが別にここで老人の世話をしなくてはならないというわけでもないだろう。普通に言葉をかければいいのだ。そして別れればいいのだ。 老人だってただ道を聞いただけだ。今日一日世話してくれと頼んだわけではない。 そんな事は思ってはいない。 だからもっと普通に話せばよかったのだ。 覚悟のお遍路だろう。 それにたとえそうでなかったとしてもその時はその時だ。なぜ最初から逃げてしまう。 優しくないのだ。自分の予定と事情しか考えていない。他人をそこには入れようとしない。 優しくないのだ。 いやな気持ち、今日一日重くなる、お遍路の最後がこれ、優しくない自分がまた目の前に。 とにかくお饅頭が残っている。 6,7個は残っている。 ぼくは振り返りやや足早になる。 老人の後姿は見えない。7,8分は経っている。下駄の足とはいえ、またこっちはこっちで足早に歩いてたからけっこう距離はあるだろう。 いやもしかしたこれは試されたのかもしれない。 もう老人などいないのだろう。 ぼくが足早に去ったときにふっと消えてしまったに違いない。 いや試されたなどど考えるのがそもそもおかしい。 だれが何のためにぼくを試すのだ。今ここにいるのは僕と老人だけだ。そしてその老人はあのカーブの向こうをよろよろと歩いているだけだ。 カーブの向こうに老人はいた。 体を斜めにして右足を引きずっている。 「これどうぞ。残りもんだけど、甘くておいしいです。」 老人はえらく驚いたという風に最初小さく両腕を開き目を丸くした。 「わざわざ、えろうすまんことで。」 両手で受けとる。 ぼくも頭を下げもと来た道に戻る。 こんなことは最初からすればいいことだ。 思ったときに思った通りをする。 そのあとどうなるとか、どうするとかはいい。 もっと簡単に、もっとわかりやすく物事はやればいいと思う。 だいたい殆どはさっと頭に浮かんだことをそのままやればいいのだ。 どうやればいいとか、こうすれば良いとか考えずにそのままその場でやってしまう。 後に残さない。 うまくできたとかできなかったもいい。 さっと、中途半端でも、思ったことを簡単にシンプルにやればいいのだ。 それが一番いいやり方なのだ。 田井ノ浜、由岐坂峠のある標識から55号を離れる。 古いお遍路道から離れ海沿いを行くのだ。 あとはそのまま薬王寺。5時にはつけそうだ。 海だ。 雨の中の海だが思ってた以上にくっきりと見える。 広々とした太平洋が広がると思っていたが、小さな島というか、大きな岩が重なり、岬が回り、視界は狭い。海に出たら後は海を左にひたすら薬王寺と思っていたが,岬は小高い丘になっていて、そこには林が続いていて、上り下りがある。そしてそこにはあのお遍路シールがないのだ。 あれほど丁寧に道順を記してくれていたシールが殆どない。これは本道が55号線なのだからしょうがないのだろう。 これは聞きながらいくしかない。 海沿いの道は細くうねうねしていて、歩いている割には進まない。 すっと真っ直ぐいけばいいものを家並みの中、林の中へと入り、出るとすぐ後ろに入ったところが見える。 「お遍路さん待って!」 突然呼び止められた。 「これ持ってって。」 見ると腰が完璧90度に曲がっているおばあちゃんだ。 海草の入った箱を台車に載せて押している。その台車の手前に置かれた小さな布の袋から何かを取り出そうとしている。小さなビニール袋が出た。90度に曲がったまま体をこちらに向け、親指と人差し指とでつまんだ袋をぼくに見せる。 「これ薬王寺さんにあげてきて。」 見ると5円玉が何枚か入っている。 「お賽銭や。」 なるほど。納得。 ぼくは納め札と交換にお賽銭を受けた。 「千葉から来ました。代わりに納めてきます.」 「遠いところから。よろしゅうな。」 そう言うと、体を元に戻し、90度の姿勢のまま前方をきっと見つめ、ガラガラと車を押し出し、時々口をもぐっとさせ小さな路地に消えていった。 ビニールの袋には眼科の病院名が書いてある。 この先は岬になっていて、またそこは海まで続く小高い丘になっていて、いきなり高さ200メートルぐらいはあり、老人に越えるのはかなりしんどいだろう。ましてやあの腰では無理だ。 周れない自分の代わりに周っている、それがお遍路さんなのだ。 舗装された道を登ると久しぶりにあの赤のお遍路シールだ。 細い道に入る。いつもの古いお遍路道だ。それほど急ではないが登りが続く。雨上がりの山道は枯葉が水を含んでいてふわふわしている。 濃い茶色の太く長さ30センチほどのミミズがくねくねと出てきた。 黄色の蝶がさっと目の前に降りてきた。 黒いアゲハが青い空にひらひらと舞い上がる。 すずめが目の高さを細かく羽を震わせ道に沿い飛んでいく。 足元には緑色にきらきら輝くトカゲが一瞬首を上げると、草むらへ消えた。 ハチが背より少し高いところでブーンとホバリングしている。 細い道の両側には紫と水色と薄いピンクの花が長い茎の先で幾つも幾つもゆらゆら揺れ、甘い香りがした。 バサッと音を立て大きな鳥が空へ向かう。 そんなことが1,2分の間に一度に起きた。 坂が下りになる。 ぼくは少し走り始めた。 フワフワした道が勢いをつけてくれる。 金剛杖を横にしさらに勢いをつける。 下り坂が気持ちいい。 南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、と声を出す。 背中のリュックがいい具合に上下し、さらに勢いがつく。 ぼくは南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、とすこし大きく声を出す。 南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、 あの林の向こうは海だ。 |