絶体絶命日記 2003.8.1−31 白いスペクトルの魔法使いの年 磁気の月8日。 8月2日。 村上春樹を読みなおそう。 孤独な人生の、日々の過ごし方、やり過ごし方が分かるだろう。 白いスペクトルの魔法使いの年 磁気の月11日。 8月5日。 例えば村上春樹は作品の中で向こう側の世界、あっちの世界を描く。 だがそれぞれの作品でその向こう側の世界は違う。 『ねじまき鳥クロニクル』でのあちら側の世界は、悪の世界、邪の世界、というか、「悪意」の世界だろう。 人は意識下の世界、無意識の世界でつながっている。知らぬうちにつながっている。そこでは悪や憎しみが素早く飛び交っている。 一人の人間の悪意は容易に無意識の通路を通り、他の人々へとつながっていく。善意や愛はなかなか育たない。育ってもなかなか伝わっては行かない。簡単に悪意の重さに押しつぶされてしまう。 またその個人の幼少の頃から育てられ、あるいは何代にも渡り遺伝的に増幅されてきた敵意や憎しみは、膨れ上がり加速度的に他人へと伝播していく。人は残虐で、壊す事が好きだ。 あっち側の世界の一つの在りようとして、「悪意の世界」がある。 『ねじまき鳥クロニクル』では主人公は意識化に潜り、それと戦う。 彼はそれを作品の中で「戦争」と呼ぶ。 珍しく大きな言葉をはっきりと使っているのだ。 意識化で伝わっていく悪意は、比喩ではなく、人を現実的に変えていくという認識が村上春樹にはある。それは世界を混乱と暴力で満たしていく。戦争は終わらず、いじめは続き、差別や虐待は日常茶飯事となる。 だから主人公は井戸に潜り世界のために戦う。 『羊をめぐる冒険』での鼠もそうだった。 『海辺のカフカ』でのナカタさんの行ったあっち側の世界は、言葉のない世界、世界と直接つながった世界、世界と一体化した世界、世界そのものと言っていい世界だ。 花や木や雲や風が生まれ育ち死ぬ世界だ。 だから彼は猫と話すことができる。 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』でのあっち側、世界の終わりは、心のない世界、喜びや悪意や憎悪もない、感情や記憶のない平穏で静謐な世界だ。 だがそれを主人公は意識の上からも、下からも、拒否する。 混乱とねじれ曲がった心であったとしても、それこそを自分の在り様だと引き受ける。 白いスペクトルの魔法使いの年 磁気の月11日。 8月5日。 村上春樹 少女の力、 彼の憎むもの、守るもの あっち側の世界 書く事の意味・現実とは・想像するということ 夢・無意識・通路・ 他者、空間と共有。歴史、時間を共有 不気味な生き物。『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』 想像された物事は現実 綿谷ノボルとは何か? 相打ち 白いスペクトルの魔法使いの年 磁気の月14日。 8月8日。 『羊をめぐる冒険』の羊は悪意の象徴。 しかもただの悪意ではない。 羊はチンギス・ハンに入り、世界を制覇した。 それほどの大きさを持つ悪意。 さらに現代にいたっては、この日本を支配下にまで置く悪意となる。 鼠はそれと戦う。 やや簡単に鼠は勝ってしまうが。 『綿谷ノボル』と『ジョニ-・ウォーカー』 同じ悪意の象徴。 悪意や残虐さは自然に育ち、無意識と言う通路を通って他人へと伝わっていく。愛や優しさは育てようという意志がなければ育たない。 村上春樹は書くことで自分の中の愛と優しさを育てようとする。 そして自分の中の悪意や憎悪と戦う。 それが自分ひとりの一人相撲に終わらないために、彼は想像した事、想像された事が現実と等価であると考え、そしてその戦いが普遍的なもの、他人にも共通の出来事であると信じる。 でなければ書いたものを公表しはしない。 それに自分の経験が他人の経験にもつながるのだという思いがなければ、作家という職業も成り立たない。その事に問題はないし、そのことの限界性と不可能性に対しても彼は注意深い。そのことに無自覚な表現者の多い中、村上春樹は信頼できる数少ない人間だと思う。
だが書くことが現実と等価となるか。 書くことで人は新しくなれるのか。書くことが現実社会で生きのびていく支えとなるのか。 書くこと=現実 となりえるのか。 それは大きな問題だと思う。 「書くことは現実からの逃避だ.」、そんな囁きが書くことを選んだ人間の耳元で絶えず囁かれているはずだ. 「書を捨てよ街へ出よう!」という言葉が書くことを選んだ人間の弱さを糾弾する. 特に非現実的な展開の多い村上春樹であれば、自分の小説の現実性、書くことの現実性に確信が持てなくなる. それが「『アンダーグラウンド』『約束された場所で』などのルポものへと走らせる. 小説のリアリズムに確信が持てないのだ. もう一つ。 書くことを現実としなければならない理由。 弱さ。 鼠の言葉を借りれば、 「体の中で腐って行く弱さ。」 「絶え間なく暗闇に引きずり込まれていく弱さ。」 それが十分に表現されていないのだ。 「僕」や「鼠」の現在のありようを見れば分かる。ともいえるが、それは言わず語らずの世界だ。 十分ではない。 いや十分とか十分ではないという問題ではなく、それを明らかにする事が何よりも大事なのだ。 弱さの在りようとその原因。それを言葉にしてほしいのだ。 だが村上春樹はいつもその外側を描く事で内側をわからせようとする。あるいは弱さは虚無であり言葉の彼方になる。それをいまさら明らかにするのも野暮で、無神経だ。そんな態度が続く。言わなくてもみんな分かってるじゃないか。 涙と共に、怒りと共に、憎しみや冷笑と共に語ってくれというのではない。 なぜ弱くなってしまったのか。 それを静かに客観的に個人的に、普遍性を持ち具体的に示してほしいのだ。 言葉にした時に嘘になってしまう。 あるいは言葉にできることは本当のことではない。 それもそうだと思う。だがそれを明らかにする事が必要だと思うのだ。 もっとも弱さの原因を説明する事は小説家の仕事ではないかもしれない. そこから抜け出る事を、痛切な体験が生む真新しいイメージを手繰り寄せ、言葉を与え、新たに生み出されたイメージにまた言葉を与え続ける作業、すなわち書くことで行おうとするのが小説家なのだろう. 言葉によって説明するのではなく、生きること.それが小説家だ。 しかし弱さの象徴であった「鼠」はもう死んでしまった。 彼にこそ語ってほしかったのだ。 なぜぼくらはこうも弱くなってしまったのか。 まともに目を合わせて挨拶をする事もできず、好きだとも嫌いだとも、楽しいとも嬉しい、悲しいともいえなくなってしまったのか。 思いやりも優しさも打算としか思えず、素直に手を差し伸べる事もできない。 背筋を伸ばし夢や希望を語ることもできず、一人でしっかりと大地を踏みしめる事もできない。 苛立ちと敵意と殺意、憎悪でしか自分を確かめる事ができず、馬鹿騒ぎで気晴らしの毎日を送るしかできなくなっている。 なぜか。なぜそんなことになってしまったのか。 それを明らかにしてほしいのだ。 それは読者の仕事だ。そう言われるのかもしれない。 だが、書かれた文字としてみてみたい。とも思うのだ。(まずいか) 結果として村上春樹の主人公は悲しみや虚しさを心の奥底に秘め、無意味で無価値な瑣末事にこだわり、世間とは一線を画し淡々と、退屈な日常を自己鍛錬として生きていく。 そんな主人公のスタイルは、無価値で無意味に繰り返される日常に耐えられず、出来合いの生き方に逃げていってしまった多くの人々の、アリバイ作りに利用され、支持を受ける。自分も昔時代と戦ったのだと.そして村上春樹の本を買う事で、時代に完全には取り込まれてはいないことを表明しようとするのだ。 少年カフカなどという恥ずかしい本が生まれてしまうのもそうした理由からだだ。情けない。あの本は一体なんだ.仲良しクラブにはしたくないといいながらヨイショヨイショの1000メール.
白いスペクトルの魔法使いの年 磁気の月16日。 8月10日。 鼠で絶えてしまった弱さの表現。だがそれが『ノルウェーの森』で再開される。そこでは直子の弱さ、「歪み」が描かれる。 しかしそこに時代や世間との関係はない。あるのは彼女の個人的なつながり、特に姉とのつながり、また、家系の傾向性、遺伝だ。 ぼくらがほしいのはこの時代とこの場所に固有の弱さの在りようとその原因、そこからの脱出法だ。 目の前にぶら下がる尊敬する姉の縊死体を見た12歳の少女の経験は一般性がないのだ。 だからこそ100%恋愛小説といったのだろうか。 つまりはそこには他人も、世間も、社会も、時代も、ない。 3人の男女の物語。なのだ。 もちろん単に70年安保を、全共闘の物語を入れろというのではない. 政治に背を向ける、政治を書かないという政治的な姿勢もあるのだから. だがここには結果しかないのだ. 他人の世界、世間で傷ついた後の療養所での物語なのだ. 世間での生き方. これを書いてほしいのだ. この時代のこの場所での生き方. 時代や人や自分自身に対し、遠く距離を置かざるを得ない、この時代での生き方.それを読みたいのだ. まだ上巻しか読んでいない。 白いスペクトルの魔法使いの年 磁気の月17日。 8月11日。 この世の中はまずはテレビから始まった。 テレビで、家族のあり方が教育された。「バス通り裏」『ただいま11人』「ありがとう」「肝っ玉母さん」…… その見ていて顔が赤らむ恥ずかしいドラマの中で、この国の人々は親子や兄弟や夫婦のあり方を知らず学ばされていった。 「青春もの」で友だちのあり方を学び、『恋愛もの』で恋愛の仕方を学んだ。 自分の頭で考え、自分の感覚で感じる者たちは、うつむいて通り過ぎていくのを待つしかなかった。だが高度経済成長時代では物を売らなければならず、その為には売る物を必要とする生活のスタイルが世間に行き渡っていなければならず、そのために次々と実体のない、新しい生き方がテレビマスコミにより提示され、それは大量に一気にこの国を包みこみ、さらにそれを受け入れる事により物は家の中に便利さと満足を与え、ことさら拒否する理由を誰も感じなかった。 だからそんな時代に違和感を覚える人たちはいつまでも、どこまでもうつむいて歩いていくしかなかった。 強ければいい。強い意志とそれを実現できる現実的な生きる力。 それがあれば彼は個性的な人物として、それぞれの場所で生きていけただろう。だがそれは特別な人々だ。 一般的な人たちで、この時代に溶け込めなかった人々は、歪み、狂うしかないだろう。正常であるが故にだ。今も昔も。 「直子」も、「キズキ」も「玲子さん」もだ。 必要なのは「直子」と「僕」が「世間」で生きのびていく物語。 白いスペクトルの魔法使いの年 磁気の月19日。 8月12日。 『ダンス・ダンス・ダンス』のラストでの混乱。 現実に戻る、とどまる。 その言葉が繰り返される。繰り返されたからといって主人公や、書き手が現実に戻り、とどまる事ができるわけではない。 書くことの運動の中で現実にとどまれるのだ。 『羊をめぐる冒険』での鼠の抱えた弱さ。 その意味と価値。それを確かなものにする事、実体化すること。それが現実だ。それを書くことで行うことが現実だ。それが行われないまま『羊をめぐる冒険』は終わった。だから『ダンス・ダンス・ダンス』を書く事が必要だった。 それができたのか。 壁に消えるユミヨシさん。それは死だ。だがすぐに彼女は現実=生に戻ってしまう。混乱。 だからもう一度消える。『ねじまき鳥クロニクル』での岡田久美子だ。 邪の世界での208号室から彼女を奪還する事がテーマだった。 それは十分には果たしえなかった。 弱さの対象化と奪還。 それが『ダンス・ダンス・ダンス』のテーマだった。 五反田君はこの高度資本主義社会でのまともな人間が受ける歪みを受け持つ。 それは書くことで実体化されたか。 「ユミヨシさん、朝だ。」 本当に朝がきたのだろうか。 村上春樹の小説では、非現実的部分が書くことの現実部分となる。 そこでは書く事が未知の行為となり、原初の行為となる。そこでは言葉が書き手を通し世界を発見し、世界を形作っていく。 過去にも未来にも囚われない最先端の現実が新しく生まれていく。 書き手は初めての文章をそこで読み、それに引き上げられ新しい世界を見、感じ、新しい一歩を踏み出す。 その繰り返しが物語なのだ。 それがあったのか。 『ダンス・ダンス・ダンス』に。 朝はきたのだろうか。 8月10日〜 『風の歌を聴け』 『1973年のピンボール』 『羊をめぐる冒険』 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』 『ねじまき鳥クロニクル』 『ノルウェーの森』 『ダンス・ダンス・ダンス』 8月17日までに 『国境の南、太陽の西』 『スプ−トニクの恋人』 次に短編集 『中国行きのスロウ・ボート』 『TVピープル』 『パン屋再襲撃』 『夜のくもざる』 『回転木馬のデッド・ヒート』 『カンガルー日和』 『レキシントンの幽霊』 『神の子どもたちはみな踊る』 『アンダーグラウンド』 『約束された場所で』 と読み、「『海辺のカフカ』を読む」を10回に分けて書く。 意味もなく。 白いスペクトルの魔法使いの年 磁気の月20日。 8月14日。 死の明晰な自覚と溢れる生の力。歪みのない混乱。真っ直ぐな意志。 少女。 『ダンス・ダンス・ダンス』のユキ。 それは『ねじまき鳥クロニクル』の『笠原メイ』に引き継がれ、主人公を救う。 月の光の中で全裸になり、主人公に迫る死を打ち砕く。 『ノルウェーの森』のミドリ。彼女も全裸になり仏壇の中の死んだ父親を弔う。 羊男=鼠 は『羊をめぐる冒険』のあと短編「シドニ−のグリ−ン・ストリート」で再び現れる。といって復活するわけではない。 戸惑いながら無理やり、出てくる。 そして世界を一瞬にして変える美しい耳を持つ女(後のキキ)も耳だけで出てくる。 耳とは少女だ。死の明晰な自覚と溢れる生の力の象徴。それが主人公を生へと導く。 だが耳も戸惑いながら無理やり、出てくる。 物語を生み出す力とは無縁にただ出てくる。 弱さは復活しない。 弱さは生きられない。 復活した弱さが世界を生きる。それがほしいのだ。 村上春樹はそれを放棄した。 その後、羊男は物語を生きることを降り、童話「羊男のクリスマス」で死んだまま浮遊する。 彼は呪われていた。12月24日聖羊祭日の日に、ドーナツを食べた事からだ。穴の開いたもの、空虚を食べたからだ。 その呪いを解くために羊博士、海ガラスや右ねじけ、左ねじけ、何でもなし、双子の208と209と会う。 そして聖羊上人とあい、呪いは消え、羊男は美しく、楽しいメロディを次々とピアノで弾き始めるのだった。 違うでしょ。 死んだまま浮遊している鼠への後ろめたさがこんなお話を生んでしまう。 双子もそうだ。双子もまた大きな意味を持っている。大きな象徴性を持っているはずだ。単なる何かの「精」以上に。 「双子と沈んだ大陸」でまさに出てきた。 だが双子の意味は見出されない。 崩れていう弱さの象徴、「鼠」、軽やかに飛びはねていく弱さ、生きのびていく弱さ、「双子」 では『ダンス・ダンス・ダンス』で鼠は再生したか。 五反田君の死、主人公の代わりの死、 村上春樹が書くことで現実を生きるために死んだ人々。 鼠、キキ、メイ、片腕の詩人、五反田君。 彼らが死ぬことで村上春樹は現実を生きる。 そして彼らを再生させることが書くことの意味とであり、目的であり、そこに生きていくこと=書くことの価値がある。 白いスペクトルの魔法使いの年 磁気の月22日。 8月16日。 渡辺昇 「象の消滅」 象の飼育係、象と話ができる。 渡辺昇 「ファミリィ・アフェア」 妹の婚約者、妹の略奪者。 妹とは夫婦関係。 ワタナベ・ノボル「ねじまき鳥と火曜日の女たち」 『ファミリィ・アフェア』での『僕』と『妹』との関係は夫婦だ。妹は兄を「あなた」と呼び、兄は「おまえ」と呼ぶ。妹はそれを拒否するが、自分が兄を『あなた』と呼ぶことは変えない。普通なら、「お兄さん」、「兄さん」、だろう。 その間に「渡辺昇」が割り込んでくる。ハンダゴテを置いて妹を奪っていくのだ。そこに『ねじまき鳥クロニクル』の『綿谷ノボル』の邪悪さはないが形としては相似だ。 考えるべき相似。 『納屋を焼く』の納屋を焼く男と五反田君。 『めくらやなごぎと眠る女』の直子。 めくらやなぎは暗闇を養分として育ち、その花粉を蝿が人間の耳に入れ、人間を眠らせる。そして蝿は人の肉を食う。 そんな話を直子は作る。 この話のラストでは足にべっとりと花粉をつけた蝿が耳の中に入り、柔らかな肉を食っているイメージがある。 『羊をめぐる冒険』での世界を変える耳を持つ女、『ねじまき鳥クロニクル』での「キキ」と繋がる。 耳は死を含んでいる。『キキ』とは「危機」であり「鬼気」であり、「喜々」 なのだろう。 『鏡』では、『僕』は鏡に映る『僕』を激しく憎んでいる。 『図書館奇譚』では僕、少女、羊男の図書館からの脱出が語られる。つまり、『羊をめぐる冒険』で果たせなかった、「影」との脱出がここでは実現している。 だが執筆時期はどうなっている?並行? にしてもやわな話だ。 これから『雨天炎天』『やがて哀しき外国語』『辺境・近境』でのルポに入る。 自然、異人、はどう映るのか。 白いスペクトルの魔法使いの年 磁気の月24日l。 8月18日。 村上春樹は意外と現実的、実際的な人間なのがわかる。 せっかくギリシャ正教の修行道場、修道院を周っているのに、そこに宗教的な雰囲気や思いを感じる事は殆どない。腹が減ったの、飯がまずいだの、時間がない、そんな事ばかりだ。 それはそれでホッとする。作品の非現実的な展開の持つ必然性を逆にそれが証明していると思うからだ。もともと夢見がちの人が書いたのでは信頼性がない。 『夜のくもざる』がいい。 洒落て意外性がありわざとらしくなく、長すぎない。 これがどう長編と関わるのか。 まずこの人は文を書くことがとにかく好きなのだろう。 そして好きな書くことに没入している時に事件が起きる。書くという現実の中で事件が起きるのだ。今ここに集中する「現実」の中では全てが起きる。生まれる。必要な事が起きるのだ。 世界を支配しようとする羊や、頭の中に「世界の果て」や、ホテルにありえない階が現れ、そこで「戦争」が起こる。井戸に潜るわ壁を抜けるわ、入り口の石を開け森に入り込むわと様々ことが起こる。 様々な事、そしてその可能性が生まれる。書くことが今ここの一点に集中している限りは。 白いスペクトルの魔法使いの年 磁気の月28日。 8月23日。 エッセイから。 これまで選挙に行った事がない。 フルマラソンのベストは3時間20分前後。 猫と話せる。(ミューズの出産時) その為に人が死のうとこだわりは捨てない。(勝手に自作を文学全集入れられそうになった時) 17の時まで部落差別を知らなかった。 軽いトランス状態になって占いができる。 高校生の時、制服廃止に7割の生徒が反対した事にショックを受け、以来この国の人々は自由を求めてはいないのだと思うようになった。 なるほど。 白いスペクトルの魔法使いの年 月の月6日。 8月28日。 『スプ-トニクの恋人』の唐突な終わり方はなんだろう。 突然スミレが戻ってきてしまう。 そこに小説という現実がもつ必然性はない。 いつまでも交わることなく沈黙の宇宙を飛びつづける人工衛星、それがこの星に生きる我々だ。そしてこの星はそんな人々の孤独を養分として回っている。 そう書いてあったはずだ。 それなのに突然スミレは帰ってきてしまう。 ピンと来ない。 冒頭から違和感はあった。 すみれの恋の特異性を示す比喩はあまりに大げさで、それが原動力となって次の新しい文章を呼び起こす事もない。 そんな比喩があちこちに突如として現れる。 一つの文はその前の文から生まれる。その連なりが結果として物語となる。 そんな文章の力がないのだ。 文章の誕生がないのだ。 村上春樹の小説には当たり外れが多いと思う。 また小説の種類がそれぞれに違う。 僕が物語のあり方として正しいと思い、また興味深く思うのは、『ねじまき鳥クロニクル』そしてその次が『ダンス・ダンス・ダンス』 物語として面白く読めるのは『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と『羊をめぐる冒険』。 『国境の南、太陽の西』と『スプ-トニクの恋人』は完全な失敗作だと思う。 そして確かにそうなると、『海辺のカフカ』はこれまでのどこにも入らない物語と思えてくる。 あと未読なのは、『約束された場所で』と『神の子どもたちはみな踊る』 これを読んだら、『海辺のカフカ』の解釈に入る。 面白そうだ。 一人遊びとしては本気になれる.ありがたい. 白いスペクトルの魔法使いの年 月の月9日. 8月31日. 『神の子どもたちはみな踊る』 いい.いい. 「アイロンのある風景」 美しい焚き火を燃やすことに命を燃やす男. 美しい火を燃やすためには、火を自由にしてやらなければならない. これは素敵なイメージだ.切なく確かかだ. そして狭い場所に閉じ込められてちょっとずつ死んで行く. 『神の子どもたちはみな踊る』 真夜中の野球場のマウンドで一人踊る. 生まれるべきして生まれてきた子.神の子. だから彼は踊る事ができるのだ. 「でも心は崩れません.ぼくらはそのかたちなきものを、善きものであれ、悪しきものであれ、どこまでも伝え合うことができるのです。神の子供たちはみな踊るのです.」 インディゴチルドレンだ. そして心は善きものでもあり悪しきものでもあるのだ. だが悪とは. にしても悪とは.人間にとって悪とは.悪はあるのか. 「タイランド」 「これからはあなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなければなりません.」 「生きることと死ぬ事は等価なのです。」 「言葉をお捨てなさい.ことばは石になります.」 そして夢がやってくるのを待つのだ. 大事なことを、真実を伝えてくれるのは、言葉ではない.言葉にならない直感的なイメージ、夢.それを待つのだ. 夢を待つのにふさわしい心を作ること. それが生きることだ. 『かえるくん、東京を救う』 これは『海辺のカフカ』に直接繋がる小説だ. きっとそうだと思う. ナカタさんや星野君、ジョニー・ウォーカー、カーネル・サンダ-ズの原型だ. それにみみずくんはナカタさんさんの中から出てそして最後に星野君にやられた化け物だ. 「全ての激しい戦いは想像力の中で行われました.それこそがぼくらの戦場です。」 全くそのとおりだ. かえるくんは最後ドロドロに溶け消えていく. 村上春樹の好きな「カラマーゾフの兄弟」のゾシマ長老を思い起こさせるだ.(ゾシマだよね.) 連作最後の「蜂蜜パイ」の最後 「これまでとは違う小説を書こう.夜が明けてあたりが明るくなり、その光の中で愛する人々をしっかりと抱きしめる事を、誰かが夢見て待ちわびているような、そんな小説を」 ? ちょっと分かりづらいが、今度考えよう. 千葉は辛いか. あと5Kmだ. . |