小泉首相靖国参拝.15日参拝してほしかった.

 

問題はB級戦犯が祀られていることだ.

 

戦争犯罪人に頭を下げるのか.

 

だがその前に考えなければならない.

 

あの戦争は「侵略」か「自衛」か?

 

ここで全てが分かれる.シンプルにストレートに書こう.

 

満州事変から侵略戦争だった.

満州国を作ることから政策を間違った.

ここから日本は戦争責任を問われなければならない.

その意味で時の政治指導者には責任がある.

 

天皇も同様だ.

明治以降天皇を中心に日本は国を富ませ発展させてきた.

人々の思考と精神の中に天皇は大きな位置を占め,人々の行動へ大きな力を及ぼしてきた.国民は天皇から自由ではなかった.

昭和の時代も同じだ.天皇の名で戦争が進められてきた以上,天皇には責任がある.個人にではない.天皇という地位にいた人に戦争責任がある.

その責任は政治家と共に問われなければならなかった.

 

では責任は日本にのみあったのか?

違う.

侵略はその何年も何十年もあるいは何百年も前から西欧,アメリカにあった.

 

大航海時代から侵略は始まり,産業革命で侵略は西欧諸国の当然の政策になる.

当然第2次世界大戦も同じ流れにあり,日本が中国を侵略したのもその流れを追っただけだ.

では許されるのか?

許されない.

侵略を受ける人間は殺され,馬鹿にされ,奪い取られ,踏みつけにされる.

自分達の国益のために許されることではない.

 

ましてアメリカは無差別大量虐殺である,東京大空襲,広島,長崎の原爆投下を行った.

裁判でどうして他国を裁くことができるのか.

 

戦争に良い戦争と悪い戦争はない.

戦争とは国家が行う大量殺人の事であり,そこで人々は強制的に命を国家に管理され奪われる.

戦争で人々は国家に命を捧げたのではなく,奪われたのだ.

 

では戦死者は犬死か?

 

それも違う.

すべての死に意味がある.全ての生に意味があるように.

人の死を一括りにして「散華だ」「犬死だ」と語ってはいけない.

無念の死を死んだ人へはただ目を閉じ頭を下げるしかない.

 

いやもしかしたら戦争という日常の中にも人間の尊厳や美しさや強さや優しさがあったのかもしれない.戦争だからあったと戦争を美化するのではない.

現代の平和という日常の中にも人間の愚かさ,醜さ,弱さ,残虐さがあるのと同じ様に.

 

当時の人々の心を想像することは必要だが,一様に不幸だと思うのも我々の傲慢だ.

 

 

いずれにしても大勢の人が戦争で国家によって殺された.

戦争そのものが犯罪なのだ.

東京裁判は不当な裁判だ.

だがだから日本に戦争責任がないという事ではない.

 

第1次世界大戦,第2次世界大戦,と2度も世界大戦を起こしてしまった全世界の国家に責任があったのだ.世界は加害者と被害者の両面から自らを問わなければならなかった.

 

自衛なのか侵略なのかを問うのではない.

なぜ戦争を人間は延々と続けなければならないのか.

しかもなぜ原爆までを発明し使用し大虐殺を人間は行わなければならなかったのか.

 

その事を我々は国連という場で問い,考えなくてはならなかった.

 

 

できるはずがなかった.

世界はすぐさま冷戦へと入る.入るための原爆使用でもあった.

 

それもわかる.

だからこそ,半世紀が経った今,21世紀になった今,考えなくてはならないのだ.

夢物語ではない.

人類は人類という種としての進化をしなければならない.

そのための最初の動きを日本から発信すべきだったのだ.

 

相変わらず悲惨で愚かな自爆テロが中東では続いている.

今回の15日参拝,それらを問う絶好の場だったのだ.

 

15日参拝をする.

中国,韓国に,再度日本の戦争責任を認める.

具体的な補償を再度考える.

しかし東京裁判の不当性も言う.

人間の侵略の歴史を述べる.

地球人としての大きな視点で問題提起をあえて行う.

そして国家の暴力で死んだ人々への心からの哀悼の誠を捧ぐ.

日本人以外の人々も含む戦死者全ての御霊に対してだ.

 

そして日本は戦争責任を考えなくてはならない。

誰が悪かったではない.

東条首相に責任はある.昭和天皇に責任はある.

だがたった一人首相,天皇にのみ責任があったのか.

他の政治家には,知識人には,マスコミには,さらには国民には.

さらにはあの状況下では選択肢はなかったからしょうがなかった.のか.

 

仕向け,仕掛けた欧米には責任はないのか.

 

責任は戦争そのものに関わった全ての国家と個人にある.

戦争をまた繰り返さない.

 

そのために戦った互いの国が,何が戦争に向けて動くのを進めたのかを考える.

この時のこの政策が戦争へと一歩を進めたのだ.と明らかにしていく.

だから今後そうしない.戦争への一歩を回避して行く.

そのための研究が戦争責任を問うという事だ.

 

今行われている戦争にも人として責任を負う.

平和の実現に向けて過去を見直し,しかし平和の為の平和な世の中を作るための現実的,具体的な動きを考えることに重点を置く.

 

その事を願い,そのために動く.その事が大事なのだ.

 

そしてそのための問題提起として15日参拝を行ってほしかった.

 

また先送りが続いた.

                                                               8月14日.