Undo                2003.5.19

 

ある日女は身の回りの物を縛り始めた.

,本,はさみ,犬の置物,自分の指…….

男は女を精神科へ連れて行く.「強迫性緊縛症候群」と医師に告げられる.

女はますます縛り始める.

医師は言う.「今夜彼女を縛ってあげなさい.落ち着くでしょう.」

男は女を縛る.だが女は繰り返す.「ちゃんと縛ってよ.」

気が付いた時男は女に縛られていて,女は去っていった.

 

 

そんな話だ.

そして女の過剰な愛と男の愛する力の欠如がこの映画のテーマだ.

 

女は愛されることを願っている.だがある日女の心に不安が生まれた.

前歯の矯正具をはずした時だ.

男は女の歯の矯正具をなめる事を気に入っていて,それをはずした時,女を抱く手を引いてしまった.男のがっかりした顔が女に愛されない事への不安を生んだ.

男は縛られた物が好きなのだと女は理解する.

女は愛されたいと男の周りを縛られた物で埋め尽くしていく.

 

山口智子の男の愛を自分に向けようと身の回りの物を縛っていく際の切なく,無邪気な視線には惹かれる.狂気の宿る澄んだ瞳も美しい.

夕焼けの窓で,吊るされ縛られた2匹の亀に細い腕を伸ばすシーン.

こういうシーンを見るとやはりこの監督はすごいなと素直に思う.

女の切なく悲しい心のありようが迫ってくる.窓の向こうの交差する電線もさびしい.印象的なシーンだ.

 

シーンごとに変わる水彩画のような壁の色もいい.

乾いた色は生々しくないだけによけいに悲しい.

深い心の奥底まで交差する事のない二人の心のありようを示している.

 

男はしかし女の精神のアンバランスに不安を覚える.

精神科医の「あなたは彼女を縛ってはいないか.」という問いに対して男はこう答える.「縛るというよりも,むしろ逆にほどけているのではないか.」

 

愛がほどけている.

精神科医も納得する.

 

実際そうなのだ.

誰もいまや愛せない.

本能を欠いた人間,夫婦や家族という幻想も持てない我々は,愛せない.

多くの,勘違いに気付かない男や女,あるいは一握りの奇跡的に存在する男や女にしか愛は語れない.

 

男は自分の愛がほどけている事に気付く.

そして精神科医の「今夜縛ってあげなさい.きっと落ちつくでしょう」という言葉に女を縛ることを決意する.

 

だが男は女を縛れない.愛は決意から生まれるものではないからだ.

男は愛がほどけている事を自覚しただけだ。

 

立場が逆転する.

女は男の愛を得ようと男の好きな縛られたものに自分をしようと自分を縛った.だが今は男が自分のほどけた愛を縛り直そうとしている.

今度は女がその愛を裁くのだ.

坂の上で女が男にむしゃぶりつくようにキスをする.

男は立ちすくんだままだ.

女の過剰な愛はしかしそのストレートな無邪気さに,祝福される.

何十人もの子供たちが二人の周りを笑いさざめきながら通り過ぎていく.

これも印象的なシーンだ.

 

女が望む縛りは,徹底した肉体と精神への縛りであり,そこには痛みや屈辱もあり,だからこそ精神と肉体とはともに自由を奪われ,自我は崩壊し,その時不安は消え,空虚は満たされ,愛を感じる事ができる.

 

山口智子は繰り返す.「ちゃんときつく縛ってよ.」

 

肌に縄を食い込ます.ぐるぐると回す.

鼻をつぶす.口に縄を入れる.

きりきりと締める.締め上げる.

 

それは異常な行為だ.そしてその異常な行為を支えるものが愛なのだ.でなければただの変質者の行為でしかない.

変態的異常行為を支えるのは純粋な愛しかないのだ.

 

そしてほどけた愛を自覚したばかりの男には変態的な行為を行う事はできない.ここからの豊川悦史はただ自信のない,おろおろとするだけの間抜けな男でしかなくなる.

 

男は壁にドリルをつきたて,ワイヤーをかけ,しかし彼が縛るのは女の肉体ではなくロープそのものなのだ.まさに自縄自縛だ.男は女を背にして,縄に縄をかけることしかできない.

これも悲しいシーンだ.

 

このあと愛せない男はどこへ行くのだろうか?

過剰な愛のバランスを失った女はどこに行くのだろう?

それが今後の岩井俊二の映画のテーマだと思う.

 

 

「打ち上げ花火」での,プールでの奥菜恵と同じ構図の山口智子のシャワーシーン.

確かに濡れて体にべったりとつく長い黒髪と濡れた体濡れた瞳.

ともに美しいシーンだ.

他の作品でもあるのだろうか.