タクシードライバー

 

その後のトラビスは。

 

自己証明ほしさに行った大統領候補暗殺(未遂)、少女を救うという名目での売春宿襲撃。

 

彼の部屋には彼が行った行為の証明書である新聞記事と、少女の両親からの手紙が張ってある。

少なくともこの時点で彼はギャングと戦い、少女を救い、少女の両親から感謝されるという男を自分自身に証明することはできた。

だがその後の彼はどうなっているのだろう。

今彼は何をしているのだろう。

 

 

映画のラストではかつて彼が手に入れようとし失敗し、彼を振った女から声をかけられる。新聞記事を見たと彼女は言う。だが彼は寂しげに静かに笑って、立ち去っていく。

そこには自分のしたことへの満ちたりた確かな信頼というものは感じられない。

いったい自分は何をしたのだろう。

したことの意味は何だったのだろう。

そんな徒労感さえ感じられる。

そして最後に彼が見るのは小さなバックミラーの中に映る自分自身のどこか焦燥に満ちた眼だ。

 

 

彼がベトナム戦争でどのような経験をしたのかはわからない。

だが帰ってきた彼は不眠症になり、昼間の世界には適応できなくなっている。

彼が生きるのは夜の街だ。

そしてその町は彼に嫌悪と憎しみしか感じさせない。

だが彼はそんな街でしか生きていけないのだ。

だからそんな自分にも嫌悪と憎しみを感じている。

 

自己否定。

自己肯定への欲求。

 

だがそれは自分自身ではできない。

否定すべき卑小で無力な自分に自分を証明することはできない。

であれば証明してくれるものは他人の視線であり、社会の目しかない。

 

だがそれも彼にしてみれば大雨で流されてしまえばいいと思うしかない、不正と汚辱にまみれた、否定し正すべき対象でしかない。

 

彼は彼を証明する手だて持っていないのだ。

 

愛すべき誰か。

愛してくれる誰か。

 

それさえあればきっと生きていけるのだろう。

だが彼に愛する能力はない。

彼には自分自身にしか興味はない。

たとえ他人の悲しみや寂しさを感受する力はあっても、それを共有し、癒してあげる力はない。

またその気もない。

彼に興味があるのは、腕立てが何回できたか、どれだか正確に銃弾が的に当たるか、どれだけ素早くナイフを取り出せるかだ。

 

 

また彼が必要とするのは彼を見、彼を認め、彼を賞賛する誰かだ。

そしてそんな誰かはいはしない。

 

彼は今もタクシーの運転手をしているだろう。

そして宙ぶらりんになりさ迷ったまま、苛立ち、不安になり、あせり、そしてまた以前と同じ何かしら意味や価値のある何かを妄想し、それに向けて現実的で具体的な行動へと向かっていくのだろう。

そしてそれを繰り返す。

 

彼が一人ナイフや銃や銃弾をいじり、鏡の前でポーズを取り、実射訓練をしているときの充実した姿は、結局一人自分の殻の中でしか生きていけない男の悲しい姿を現している。

 

だがひとつこの映画には救いがある。

それはこの映画の監督であるスコセッシが、浮気をしている妻のアパートの外、タクシーの中から窓に映る妻のシルエットに、「殺してやる。マグナムで吹っ飛ばしてやる。」とできもしない事をタクシーの運転手にみっともなく話す、小心で情けない男を演じているということだ。

 

自分を滑稽化し、惨めで無力で卑小な自分自身を完璧に演じるには、自分を客観化し、厳密にコントロールする意志の力がいる。

自分の殻に閉じこもり、しかも自己証明の手だてのない孤独な毎日を生き延びていくには、そうした意志の力が必要だ。

反社会的な行動を容認する方向を選ばすに生き延びていくには、自分を時に必要以上に客観視する厳密で明瞭が意志の力が必要になる。

 

スコセッシ監督がああした役目でのああした演技をあのような映画の中に入れたのは、そうして生き延びてきた自分自身を見せ、そこに生き延びるヒントを込めたかったという気持ちがあったのかもしれない。

 

 

だがいずれにしてもきっと彼は今もどこかで、新たな老いという恐怖の中で煩悶しながら、ゆっくりと夜の街を流しているのだろう。

 

 

                             マーティン・スコセッシ

                             ポール・シュレイダー

 

2006.5.25