相対評価から絶対評価へ。

大きく評価の仕方が変わった。

 

2の生徒が教室に入るなり言った。

あいつら目立つからいいよな。

 

コツコツとやる地味目の子だ。

 

確かにそれはある。

個人の意欲・関心・興味を評価の対象にする。

しかし生徒の数は変わっていない。多いのだ。

 

そこで一人一人の意欲・興味・関心を見る。

 

生徒の内面を評価するのだ。

やはり目立つ子は印象に強く残る。

大人しい子が損をしていると感じるのもありえる。

 

それは学校の先生も感じているはずだ。

今学期のあの子の意欲はどうだっただろうか。

興味は,関心はどうだったろう。

 

学校の先生が問われている。

我々が個別指導塾として20年間やってきた,一人一人の心を絶えず見つつ,そこから指導を行う。

だがそれは学校では難しいことだ

 

先生がどこまで一人一人を感じ取れるか。

それが問われている。

ところが先生は変わっていない。

同じ先生だ。

 

評価方法が変わるのに,評価する人間はそうした評価方法の中でまず育っていない。またその評価の仕方を教える人もいない。文部科学省からの指導書だけだ。

 

「生きる力」もそうだ。

「生きる力」の無い先生が教えている。

「生きる力」を教えられてこなかった先生が教えている。

当然混乱がこれから起きる。

結局,意欲・関心・興味を計る為の,物差しができそれに数値を当てはめることになる。

自然な流れだ。

評価は機械的になる。

生徒もそれがわかってくればそれに合わせて教室での振る舞いを決めていく。

意欲・関心・興味を演技で上げていくのだ。

しかもその評価も他人と比べて上か下かは分からないのだから,上がっても大してうれしくもない。

嬉しくもない数字の為に演技をする。

教室は今より嘘っぽくなっていく。

 

偏差値の出る大規模なテストがだから必要だ。

偏差値で個人の内面,人格,人生までも決めてしまう愚を除けば,その日その時のその単元の学力の客観的な評価を調べる為のものとして偏差値の出るテストは必要なのだ。

 

今回のような絶対評価の通知表は,指導の目を一人一人に向け,生徒の気持ちを感じ取るという評価をする側の意識を変えるという点に於いて,意味はある。だが同時に客観的にその子を判定できるテストがあってこそ,そうした評価も生きてくる。

車の両輪なのだ。

 

いつもこの国は両方無ければならない物の一方から一方への極端な動きを懲りずに繰り返す。

 

いつだって大切なものはその真ん中でその両方を含み静かに浮かんでいる。

                                      2002.7.20