完全なる飼育

監督 和田勉 脚本 新藤兼人  竹中直人 小島聖 

 

どこに完全なる飼育や愛があったのだろう。

人が人を飼育するのなら、当然二つの人格の戦い、そして一方の人格の崩壊という結末があるはずだ。

確かに劇中女は男に「これはどちらかがどちらかを飼育する戦いね。」と言った。

だがその戦いはどこにもなかった。

女はこうも言った。「小鳥のように飼うのね。」

 

小鳥のように。

それは食べ物も水も、生きていく為のものは与えられるだけで、自由はない。自由意志も認められない。

可愛がられるだけの状態だ。

であればそこには二つの人格の戦いがあるはずだ。

だが映画にそれはなかった。

手錠をつけ、一日中部屋に監禁する。それだけだ。

おしっこする為のたらいを置き、それを女が使うシーンがあるが、それもさして屈辱を女が覚えるというほどのシーンでもなかった。

ただ手錠と監禁だけ。それも絶対的な監禁ではない。

女の人格を崩壊させるほどの絶望的で屈辱的な監禁ではないのだ。少なくともそうした監禁であることの表現はない。

 

あるのは日にちだ。そうした状態が長く続いているのだという事が、カレンダーが次々とめくられていくことで示されていく。

 

だがこれは脚本の放棄、表現の放棄だろう。

この流れゆく時間の中で何があったのか、女は何をどう考え感じ、逃げることをあきらめていくのか。

それがない。

飼育がないのだ。

 

後半男と女は温泉に行く。

女はそこで男に逆に手錠をかけ一人駅へと逃げる。だが駅から電車に乗ることはしない。また男のもとへと帰っていく。

ラストで刑事に解放された時も、男に拉致されたのではなく、ついて行ったのだと言う。楽しくセックスしてましたと嬉々として言う。

 

 

 

 

 

 

 

何があったからそう言ったのか。

そのことの必然性が感じられないのだ。そのための画像や言葉がないのだ。カレンダーが次々とめくられていくことで何が説明される?

 

男の優しさや懸命さはよくわかる。

最初から男は女に頭を下げ無理やり誘拐したことをわび、あなたは私の宝だという。

自分がつかまった時、死刑になる事で勘弁してほしいという。

処女を汚したくないという。女に誘われても本気のキスしかしたくないという。

女にケンタッキーやマクドナルドの自分にはわからないメニューを言われると、大急ぎで店に飛んでいき、ありったけの物を買ってくる。

おんなに手錠をされ逃げられた時も、去っていく女を涙を流して送る。

 

男の気持ちは表現されているのだ。

だが女がなぜ男を許すのかがわからない。

 

女は温泉から帰ってきてからはひたすら男とセックスをする。

ではそこに愛が生まれたのか。

それこそセックスが楽しかっただけではなかったのか。

愛などではなく。

 

回数を重ねるたびに大胆に積極的になっていく女、歓喜の表情を浮かべるようになる女。その変化は映画の中に表現されているが、それはセックスの快感なのか男への愛の喜びなのかを判断する画像も言葉もない。

そうした表現はないのだ。

 

 

曖昧であり、物足りない映画だった。

昔、日活ロマンポルノにこうしたテーマの映画は数多くあった。

 

そこでは完全な飼育はセックスによる飼育であり、屈服した女は、しかし最後に男の完全な飼育物になる事で、逆に男を支配することになっていた。

男の哀しげな表情と女の満ち足りた表情で多くは終わっていた。

 

今回の映画もそうした視点から描くつもりならもっと踏み込むべきだし、違う視点から描くのならそれもまたしっかりと表現すべきだった。

 

印象に残るのは、渡辺えりこ演じるアパートの管理人が、住人のボクサーがデビュー戦で逃げ回り、一発K.Oされる姿に涙を流す10秒ほどシーン、泉谷しげるが若いけがをした男を介抱する振りをして可愛がる5秒ほどのシーン.

 

まだリアルなのだ.

なぜ涙を流すのか、なぜ男を可愛がるのか、それが何となくわかってくる.

 

小島聖のせいではもちろんないのだが、セックスに喜び竹中直人を強く抱きしめるシーンはなぜそうしているのかがわからない.もちろん作っている者が曖昧だからそうなのだが.

 

和田勉だろ?

しかも新藤兼人だ.

もう少しどうかなったのでは.

 

                              2003.4.20