桜庭和志vsホイス・グレイシー 1月3日。 5月東京ドーム。伝説となった一戦。 格闘技の全てが込められていた。 蹴りで入る。素早く切れのいいパンチ,接近してもローキックが小気味良く連打される。組んでの投げ,間髪を入れず,ポジションを取り,腕を足を極めようとする。それを防御,さらに返し,新たな攻めと新たな返し。 動きが止まらない。攻めあぐんで試合が停滞するのが互いの技術不足からなのが良く分かる。膠着状態が互いの技術不足からでしかない事が良く分かる。 一瞬の隙で試合が決まる。その一瞬を逃すまいと90分間も見続けてしまったのは驚きだ。 今時一時間半も見ることに集中できるものは他に一体何があるだろう。 だがしかし,桜庭が勝った事にある種苦く入り混じった思いがあるのだ。 グレイシーに勝ってほしかった。 それが正しい事と思ってしまう。武道としてそれが本道だと思ってしまう。 腕を極めロープ際で観客に不敵に笑って見せる。側転をする,モンゴリアンチョップを振るう。道着の帯を使い逆さに持ち上げるのは構わない。その直後の垂直に打ち下ろす正拳には凄みがあり試合の流れを変えた。 だがロープに詰めた際の道着を脱がそうとする行為は分からない。これは理解できない。いや,相手の気持ちを揺さぶる。集中力を欠かせる。自分のペースに持ち込む。そのための攻め?とは考えられる。 だがそれは攻めといって良いものなのか? 良い。それが結論だ。 特にグレイシー自身がこれは競技ではなく決闘であると言っている以上,たかが道着を脱がしにかかる行為にとやかく言うべきではない。 だが,と思ってしまう。 桜庭は豊富な練習量と技への想像力,そして冷静な判断力で,自分のレベルがホイスと同等かそれ以上であるにしてもほんの僅かであることを自覚している。 勝負を極めるのが紙一重であることを十分に知っている。 その紙一重とは相手に100パーセントの力を出させないこと,自分のペースで試合をコントロールすることだ。 だから勝つために桜庭は手段を選ばない。 汚い手も使う。 汚い手だろう? どうだろう。あれは不思議な光景だった。ホイスは戸惑っていた。これは命を賭けた決闘ではないのか。桜庭は何をしている。これは神聖な武士同士の果し合いだ。 そしてだからこそ桜庭は正しい。 命を賭けての決闘だから道着脱がしなどという汚い手も使える。 そしてぼくは思うのだ。 僕らは正統的に伝統を受け継げない。 僕らはヒールとして伝統を受け継いでいく。 ただ勝つのではなく美しく勝つ事への,あるいは負ける事へのこだわり。 勝負への執着を捨てること。武士としての潔さ。試合は己を高める場。自分を超える大いなるもの,自然との合一をはかる場。グレイシーには武士道がある。 そして僕らのこの時代にはそうした正しさはとうの昔に死んだ。 グレイシーに僕は昔の日本の伝統を見る。美しい日本人の戦いだ。 生真面目で,体面を重んじ,礼儀正しく,控え目で,静かで穏やかな人間が試合という場で互いに互いの人間性を高める。 桜庭にも試合が神聖な場であることの意識はある。 だがその中で僕らはもうかつてのように生真面目に礼儀正しく控え目に戦うことなどできなくなってしまったのだ。 昭和30年以後,テレビが生活の中心に座り,高度経済成長時代が始まり,欲望の解放が是とされる。価値観の相対化が進み,伝統は崩れ,新しい価値観は生まれず,その意志も生まれていない。 正しさや善きもの,価値あるものを笑うことに抵抗と次への一歩があると思われた。 笑うものがなくなってからは笑う自分自身を笑うことしかなかなくなり,次への一歩は予感できず,空虚に笑いながら立ち止まり続けた。今も続いている。 しかし桜庭の試合には次の一歩が感じられる。 伝統を崩す戦い,勝つことへの執着。 そこには桜庭という個人の意志が見える。 くっきりと見える。 戦いの全てを自分で引き受ける覚悟が見える。 おまえが戦うのならどう戦う,という問いかけがある。 桜庭は見る者に問いかける。おまえは一人で戦い続けているのかと。 伝統に繋がることができないことを自覚した時,人は孤立と孤独を感じる。 自分しか頼るものがない事を知り,シンとした恐怖を感じる。 桜庭がマスクをかぶったり,サンタの袋からクリスマスプレゼントを取り出し観客席に投げ入れるパフォーマンスを演じるのは,その孤独と恐怖を払い落とすための儀式なのかもしれない。 2001.1.5 |