パサージュ-91

     

 

もうすぐ11時になろうとしている。

日曜の昼。いいお天気だ。子供の声が聞こえる。自転車で追いかけっこをしている。

 

ぼくはまた男の頭の短い髪をつかみ、壁に頭をぶつけた。

それでも男はやはりぼくを見つめるだけで何も言わず、床にだらりと両手をたらし、体は崩れ落ち、また仰向けになり天井に目を向けた。

 

朝の9時丁度にその男は来た。

宅急便だというのでドアを開けた。実際注文した本を持っていて、それをぼくに渡し判を押させると一度はドアの外に出た。だが何かを思い出したかのようにまた玄関に一歩足を踏み入れると、いきなりぼくの両肩をつかみ部屋の中に押し込んできた。壁にぶつかりリビングに二人転がり込み、上になった男はぼくを上から押さえつけ、拳を振り下ろしてきた。

 

だが男は殴り慣れしていないのか、拳はしっかりと握られていず、振り下ろす腕に力もなく、ぼくは体を反転させ、体勢を入れ替えた。

早くも負けを認めたのか男の体から力が抜け、床の上で顔を横に向けたまま大の字になった。そして男の目から涙が流れ始めた。

今から2時間ほど前のことだ。

 

それから思いついたように、20分か30分に一度また体を起こすとつかみかかり殴りかかろうとする。そのたびにこちらも平手打ちを食らわせたり、腕を逆に締めたり、額を壁や床にぶつけたりするのだが、最初の一撃ですぐに攻撃をあきらめ男はこちらのなすがままにされる。

 

何も言わない。

ただ唇を噛み、眉を寄せ、黙ったまま涙を流す。

そんな事をもう何回も繰り返しているのだ。

危害を加えようとはするが、それだけの力もなく、倒されても逃げる様子もその意志もないように見える。

 

警察でも呼べばいいのだろうが、この男にあるのはただ悲しげな諦めだけで、それは警察を呼ぶほどのことでもなく、ただ男を立たせ、ドアから外へを放り出せばそれですむことのようにも思え、あとはその機会を待てばそれですむことだとも思った。

 

 

にしてもそれで2時間も付き合うことはないだろうとは思った。

だが、男は顔を横にし涙を流し、床は涙で濡れ、男はだらりと体を投げ出したまま、何も言わず、何もせず、何の意志も見せない。

 

ずっとここで泣き続けていくつもりなのかもしれない。

だが男は明らかに宅急便屋であり、仕事の途中なのだ。さっき確かめたが、確かに外には宅急便の車があり、確認してから1時間以上そのままなのだ。

 

明らかに精神に異常がある。

病気だ。精神の病気だ。

そう思ったから警察を呼ぶ気にもならなかった。落ち着かせる事が最初だろう。そう思った。落ち着けば仕事にも戻っていくかもしれない。

 

 

昼までに終わるはずだ。

こんなことが長く続くはずがない。続いていいことではない。けろっとして男は出て行くはずだ。

たとえ何の謝罪もなく、逆に悪態をついたとしてもかまわない、出て行きさえすればそれでよく、それでいつもの日曜日に戻り、ぼくはいつものように30km走か3時間走を始める。いつもの日曜日が始まるのだ。

 

 

ぼくはテレビをつけた。

男は動かない。

油断はしない。

これまでにも突然体を起こすと頭から突っ込んできたり、足に絡み付いてきたりしてきた。だがそれだけだ。それ以上は続かない。

だが油断はしない。

 

だいたい男の真意がどこになるのかが全くわからない。けろっとして部屋から出て行く代わりに突然スイッチが入り、これまでとは違った力で攻撃を仕掛けてくるかもしれないのだ。であればなおのことぼこぼこにして外に叩き出すか、警察を呼び引き渡すかすべきなのだが、脱力し涙を流し続ける男を見ているとどうしていいのかの判断がつけられなくなる。

 

テレビでは相変わらずのバラエティでそれはそれで面白くもあり、ぼくはまるでいつもの日曜日ででもあるかのように笑い声を上げそうになるのだが、今日はそんな日曜日ではないのだ。

 

「なぁ、あんたさ、仕事中だろ、外の車あんたんだろ。まだ配らなきゃいけないものたくさんあんだろ。いいから仕事に戻れよ。」

 

考えてみるとこれが初めてぼくが男に言った言葉だった。

男に反応はなく、鼻まで垂れていた。ぼくは急に苛ついてきた。

「おい、警察呼んでもいいんだぜ。そんだけの事お前してんだからな。

わかってんのか。」

 

 

男の目はどこを見ているのかわからない。小さな穴が二つ顔に空いている。

 

「仕事が残ってんだろ。仕事やれよ、仕事。お前の持ってる物、待ってる奴がいるんだよ。俺だってこの本待ってたんだからな。今日は一日この本読むんだよ。そう予定してたんだ。だから早く出て行けよ。お前いて読めるか。」

 

小さな二つの穴が少し大きくなったような気がした。

 

「なあ、もういいだろ。早く届けもん届けに行け。」

 

ぼくはそろそろ限度だと思った。実際今日は日曜日で、3時間走か、30km走をして、注文した本を読んで、酒を飲んで、酔っ払って、早くに寝るのだ。

 

「おい、今日は俺はな、午後からは30km走るか、3時間走るかして、俺、趣味がマラソンなの、それからお前が持ってきた本読んで、酒飲んで、そして酔っ払って早くに寝る、それが今日の俺のスケジュールなの。お前のことは入ってないの。こんな事で俺の大事な日曜日をつぶしたくないの。そうだろ。」

 

ぼくは立ち上がると部屋の中を見回した。

男が持ってきた本の包みが部屋の隅に斜めにあった。

ぼくははさみで封を切り本を出した。

 

古本だが最近の古本は半額でもきれいで問題はないのだ。本は沖縄の空手家の気の開発に関する実践本で前からほしかったものだった。絶版になっていたのが、あった。しかも安くあったのが嬉しく結構待ち望んでいたものだった。

実際出だしから面白く、ぼくは5,6ページ読み進めていた。

 

ばたんと音がし、顔を上げると部屋に男はいず、黒く染みのついた床が差し込んでいる日の光に光っている。

 

外からエンジン音が聞こえた。

 

ぼくは窓を開け外を見た。

ちょうど角を宅急便の車が曲がっていくところだった。

 

2010.12.13.